南都脱出作戦3
ばぢゃり、と泥を撥ね上げてカイエンが停止したのは、密林との境目にほど近い位置にある、田植えを目前に控えた田んぼのど真ん中だった。
わずかに遅れてもう一人も到着する。
振り返ってみれば、早くも全身の霊紋を薄っすらと輝かせたソウエイが、準備万端で拳を構えていた。
「随分と遠くまで連れてくるじゃないか。何か策でもあるのかい?」
「さあな。でも、あんたの技は範囲が広そうだからな。なるべく人気の少ない場所の方が、遠慮なく戦えるだろ」
探りを入れてくるソウエイに対して、カイエンは素っ気なく答える。実際、第二階梯の霊紋持ち同士の戦いともなれば、武術祭の舞台程度では小さすぎると言わざるを得ない。
攻撃の余波は勿論の事、超高速で動き回る霊紋持ちにとって、三十メテルという距離は思っている以上に狭いのだ。
「ふふ、確かに君の言う通りだ。感謝するよ、おかげで久しぶりに遠慮なく暴れられそうだからね」
「おう、どんと来やがれ。どうせあんたの事だ、全力で戦えないと不満が残って、また変な誘いに引っ掛かりそうだからな」
カイエンの挑発に苦笑を零す。だが、言い訳を口にすることはない。
カイエンを真剣勝負の場に引きずり出すため、犯罪組織の口車に乗ったのは紛れも無い事実なのだ。それを全く後悔していないことも、ソウエイ自身が嫌になるほど自覚している。
結局のところ、武術家とはそういう生き物だということなのだろう。己の力がどこまで通用するのか試してみたいという、単純で幼稚とすら断言できる欲求に逆らえないのだ。
ソウエイの纏う気配が変わったことに気付いたのか、カイエンも無言で霊紋を活性化させていく。
二人の霊紋持ちが放つ輝きが周囲の闇を振り払い、地上を昼間のように明るく照らし出す。
次の瞬間、両者は無言で動いていた。
寸分の狂いも無く同時、双方の間合いがただの一呼吸で零と化す。
背後に蹴り上げた泥が地面に落ちるより先に、二人の放った拳が中間地点で激突した。
カイエンが右、ソウエイが左。霊紋の力をたっぷり乗せられた二つの拳が、互いに互いを押し潰さんと覇を競い合う。
が、それも瞬き程の間の出来事。凝縮された威力は解放先を求め、衝撃波となって辺り一帯に撒き散らされる。
両者共にその衝撃波に弾き飛ばされ、最初の間合いに戻っていた。
一拍遅れ、衝撃波によって巻き上げられた泥が辺り一帯に降り注ぐ。土と水の混合物が豪雨の如く降りしきって視界を遮る中、カイエンは態勢を極端に低くすると、両手は軽く握って地面につけ、右足は爪先立ち、左足は膝を胸元に近づけた状態で力を蓄えた。
「九鬼顕獄拳、迅鬼の型」
刹那、最初の突進時を優に超す量の泥が背後に蹴り出される。
カイエンの編み出した九鬼顕獄拳という拳法において、最も初速に優れた突撃の構え。霊紋持ちですら見失いかねないほどの速度を携えて、カイエンは泥壁の向こう側へと突進する。
視界が遮られた隙に、一息に懐へ潜り込もうという作戦だ。
ゴヅン!!
その作戦が激痛と共に弾き返される。
脳が揺さぶられる衝撃にほんの少しだけ意識が飛びかけた。足元がふらつくものの、何が起きたのかは理解できている。
泥の壁を突破したと思った瞬間、目の前にもう一枚、こちらは透き通るような氷の壁が出現していたのだ。
ギリギリで気付くこそできたものの、知覚した瞬間にはすでに回避不能な距離まで迫っており、突進力に優れた迅鬼の型が仇となる形で氷壁に激突してしまったのである。
「カイエン君なら、今のタイミングで必ず仕掛けてくると思っていたよ。案の定だったみたいだね」
泥の雨がおさまった頃、氷壁の後ろから霊像を伴って姿を現したソウエイは、身の内から湧き上がってくる高揚感に身を委ねながら呼びかけた。
激突の結果こそソウエイが制したが、実を言えば紙一重の攻防だったのだ。武術祭を通してカイエンの戦い方を観察し続けてきたからこそ、一手先読みしてカウンターが取れたものの、逆に一手遅れていれば常識外れの突進力に蹂躙されていたことは想像に難くない。
一歩踏み外せば奈落へ真っ逆さまという張り詰めた中で交わされる駆け引き、その駆け引きから喚起される身震いするほどのスリルこそ、ソウエイが求めてやまなかったものだと、今ならば断言できる。
ソウエイの期待した通り、いや、それ以上のものを、カイエンはもたらしてくれたのだ。
そのカイエンはといえば、ぐわんぐわんと鐘の音が鳴り響き続ける頭をぶるぶると震わせると、欠片も衰える様子のない戦意を秘めた瞳でソウエイを睨み付けた。
あれだけ派手に激突したというのに、いささかも怯む様子が無い。単にタフ、というだけではない。ぐるぐると喉の奥から低い唸り声を漏らす様は、手負いの獣が凶暴性を増しているかのようですらある。
「ちぇっ、読まれてたってわけか。やっぱり横着するもんじゃないな」
「いやいや、作戦としては悪くなかったと思うよ。そうだ、いいものを見せてくれたお返しに、僕もとっておきを披露しよう」
機嫌よく告げたソウエイの霊紋が眩く輝く。本当にそこに存在しているのではないかと疑いたくなるほど鮮明な霊像を背後に従えて、ソウエイは足元に広がる田んぼを思い切り踏みつけた。
「零下月氷」
技の名前が告げられた瞬間、カイエンは防御を固めてソウエイを注視した。距離が開いている状態から放たれる技として、遠間からの飛び道具を警戒したからである。
その警戒は半分当たって、そして半分外れていた。
ぞくり、と足元から冷気が這い上がる。
ちらりと視線を真下に向けたカイエンは、「んなっ!?」と声をひっくり返らせていた。
田んぼに張ってあった水が一面見渡す限りに凍り付き、その中にカイエンの両足を封じ込めていたのである。考えるまでも無い。ソウエイの術中にはまってしまったのだ。
「これで君の機動力は封じさせてもらったよ。さあ、その状態でこれをどう捌くかな!」
興奮に打ち震える声音で、ソウエイが高々と右手を天に向かって掲げ伸ばす。
それに応じるかのように、ソウエイの頭上に無数の氷の鏃が出現した。霊紋の輝きを照り返し、尖った先端がぎらぎらと輝いている。
視界を埋め尽くす鏃の群れは、天の星の数にも匹敵するのではないかと思われるほどの物量だ。足元を氷漬けにされ、移動を封じられたカイエンでは到底躱しきることはかなうまい。
「氷雨葬送」
振り下ろされた右手を合図に、成長しきった氷塊が雪崩を打って押し寄せる。
それもただの氷ではなく霊紋の力で生成された氷である。たとえ霊紋持ちの肉体が頑強といえども、それを打ち破る威力を秘めているのは間違いない。
対して回避を封じられたカイエンに残された手段は、ただひたすら攻撃を耐えきることのみ。
ならば耐えきってみせるだけの話である。
「九鬼顕獄拳、堅鬼の型」
両腕を顔の前に掲げ、重心を下げて安定を重視した態勢を取る。全身の霊紋が、ソウエイのそれに負けない程に輝きを放つ。
覚悟を決めた少年に、無数の氷塊が撃ち込まれる。本来あるべき夜の静寂は、途切れることなく続く着弾の音で強引に塗り潰されてしまう。やがて再び静寂がもたらされた時、カイエンの姿は降り注いだ氷の中に埋もれ、そこにあったのは小規模な氷山だけとなっていた。
たとえ霊紋持ちであろうとも、これだけの攻撃をまともに食らっては一巻の終わり。
そのはずであった。
「でえいっ!」
気合の込められた掛け声と共に、積み重なった氷塊がまとめて吹き飛ばされる。その下から元気な姿を見せたのは言うまでもなくカイエンだ。
道着こそ穴だらけとなっていたが、その下の手足には目立った傷はなく、せいぜい皮一枚裂かれたかどうかといった程度である。
通常ならば運動能力の向上へ振り向けられる霊紋の力を、一切合切全部まとめて肉体硬度の強化に振り向ける完全な防御の構え。堅鬼の型をもって、氷の鏃による一斉射を耐え抜いてみせたのだ。
思ってもみない方法で己の技を防いでみせた敵手に対し、ソウエイが感心するやら呆れるやらの間に、カイエンは両足を縛めていた氷を叩き割ると、大慌てで田んぼから農道へと脱出する。
「うおー、滅茶苦茶寒いぞ!?」
「そりゃまあ、全身氷漬けになったわけだしね」
がくぶると体を震わせ、鼻水を垂らしながら文句を垂れるカイエン。攻撃は防げても、降り積もった氷による体温の低下は如何ともしがたかったらしい。
幸いなことに夜間も温暖な南都の気候が、かじかんだ手足を急速にほぐしていく。凍傷の類は心配しなくて良いだろう。
手足が解凍されるその間、カイエンは鋭い視線で周囲を見回し、頬を引き攣らせた。
「くっそ、ここじゃ不利だな」
農業において水という要素は切っても切り離せない。
皇国一の農業地域である南都の周辺は、その規模を支えるに足る用水路が網目のように整備されていた。普段ならば気にも留めないが、この状況では巧妙に張り巡らされた罠と同等だ。何しろうっかり落ちれば、先程のように氷漬けにされてしまうのだから。
一瞬で地の利がない事を悟ると、カイエンは躊躇なくソウエイに背を向けた。
「決着は別の場所でつけてやるぜ!」
そう言うなり脱兎のごとく駆け出していく。
あまりに一方的かつ躊躇の無い遁走ぶりに、ソウエイは思わず唖然として見送ってしまうが、すぐに口の端を持ち上げる。
「面白いじゃないか。徹底的に付き合ってあげるとも」
カイエンの駆け込んだ先、大陸一の密林は黒々とした威容を誇り、佇んでいた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
噎せ返るような緑の中で、ソウエイは神経を集中させて周囲の気配を探っていた。
夜の密林は夜行性の生物の宝庫であり、その中に紛れて襲い掛かってくるであろうカイエンを捉えるのは至難の業だからである。
その時だ。がさり、という一際大きい物音が耳朶を打ち、ソウエイは反射的にそちらへ視線を振り向けていた。
しかし、そこには何もいない。おそらくは石か何かを投げて物音を立て、気を惹こうとしたのだろう。
ということは、あさっての方向を向いている隙を突こうとしているに違いない。
ソウエイは咄嗟に霊紋を稼働させると、瞬時に左右と後方へ氷壁を形成した。
氷壁といっても、先程カイエンの突進を迎えうったものに比べれば圧倒的に薄く、強度も低い。霊紋持ちの繰り出す拳に打ち据えられれば、おそらく一秒とて耐えられまい。
しかし、それで構わない。一撃だけでも防いでくれれば、その間に迎撃態勢を整えられるはずだ。
だが、カイエンの仕掛けてきた方角は、ソウエイの想定していた前後左右といった四方のいずれでもなかった。
「隙ありっ!」
真上から降ってきたのである。
思い返せばここは密林、周囲には見上げるほどの巨木がごろごろしている。
これらの樹の梢に身を潜めつつ、ソウエイの注意が全方向――頭上以外に分散する隙を伺っていたのだ。
「やってくれるっ!」
全身の毛穴が開く感触と共に、掌に生み出した先端の尖った氷柱を叩きつけて迎撃する。
が、不十分な体勢から繰り出したためか狙いが甘く、木の幹を殴りつけることで僅かに軌道を変えたカイエンに容易く躱されてしまう。
見事に懐に潜り込んだカイエンの双眸がぎらりと輝いた。
「しっ!」
着地の衝撃を吸収するために両足を折り曲げた体勢から、発条仕掛けのように伸び上がってくるアッパー。咄嗟に逸らした顎を掠めるように拳が行き過ぎ、わずかに安堵した瞬間、ソウエイの側頭部を衝撃が襲った。
「ぐ、がっ……」
吹き飛ばされ、受け身を取りつつ視界に入った光景は、アッパーを放った体勢のまま頭上の枝を掴むことで身体を保持し、足場のない空中から横蹴りを繰り出したカイエンの姿。落下する際に軌道を変えてみせた先程の手際といい、樹上を含めた立体的な機動ではカイエンの方に一日の長があるらしい。まさしく野生児の戦い方だ。
「面白い、面白いよ、カイエン君。まさかこんな実戦が経験できるなんて、想像もしていなかった!」
蹴りを食らった箇所からぬるりと血が滴る。それでも湧き上がってくる歓喜の念は抑えきれず、ソウエイは興奮した様子で咆哮した。
「もっとだ、もっと君の本気を見せてくれ。僕はもっと君の実力を味わってみたい!」
「もっともっとって、随分と欲しがりさんだな。言っとくが、俺はとっくに本気だぞ」
呆れた様子で鼻から息を噴き出すカイエンに向かって、ソウエイは血走った眼で反論する。
「いいや、まだ君は実力を隠しているはずだ。なぜなら、君まだ霊像を見せていないじゃないか。君が第二階梯の霊紋持ちであることを、僕は強く確信している。それなのに何故、君は宿している精霊の能力を使わないんだ!?」
魂から迸るようなソウエイの叫び。
カイエンは困惑の形に眉を歪めていたが、やがて溜息を一つ吐き出すと、左右の腕にはめていた白と黒の腕輪を取り外した。
「まあ、なるべく早く制御できるようにならないといけないし、丁度いい機会か」
「……何を言っているんだい?」
「そこまで言うなら全力でやってやるって事だよ。その代わり、死ぬなよ」
端的に告げるなり、カイエンはゆらりと拳を構える。
何の変哲もない立ち姿。にも関わらず、ソウエイにはこれまで相対してきた誰よりも、目の前に立つ少年から鬼気迫るものが放出されているように感じられた。
「行くぜ」
宣言と同時にカイエンが踏み込む。先ほどの攻防よりも更に一段速い。密林という足場の悪さにもかかわらず、平地を駆けるが如き滑らかさだ。
それでもなんとか反応したソウエイは、足元から氷柱を生み出すと、迫りくるカイエンに向けて射出した。
先程までならば、大きく身を躱すか、さもなくば足を止めて殴り飛ばしていたところだろう。しかし、これっぽっちも速度を緩めることなく氷柱に肉薄すると、カイエンは裏拳で氷柱の側面を撫でる。
たったそれだけだというのに、霊紋によって生み出されたはずの強固な氷柱は粉々に砕け散り、密林の夜を氷化粧で彩った。
「冗談、だろっ!?」
驚愕する暇も無い。気付けば眼前に出現していたカイエンが、フェイント一つ交えずに正拳を放ってくる。
ソウエイは瞬時に氷の盾を生み出すと、盾でもって攻撃を逸ら――そうとして、失敗した。
見た目からは想像もできない拳撃の圧力に、氷盾が耐え切れず砕けてしまったのだ。
速度だけではない。威力すら桁違いの次元にある。
そんな分析している暇もあらばこそ、続けざまに叩き込まれた回し蹴りがソウエイの足を地面から引き剥がすと、強制的に山なりの放物線を描かされる。
重力に従って叩きつけられたのは、密林の中にありながらもぽっかりと開けた空間の地面だった。
頭上で煌々と輝く月の光が、衝撃のあまり呼吸が寸断されかかっているソウエイに降り注ぐ。
「がっ、はっ……」
朦朧とした思考のまま、それでも頭を持ち上げる。
断片的に浮かんでは消える疑問が形を成す前に、カイエンの姿を借りた化け物が降ってきた。その頭部に角が生えているように見えたのは、混乱のあまり幻が見えたのかもしれない。
だが、奇妙なことにその化け物は、着地するやいなや崩れ落ちるように膝をついたかと思うと、懐から取り出した腕輪を震える手付きで装着した。
その途端、肌を刺すような殺気は鳴りを潜め、そこにいたのは精根尽き果てたように五体を土の上に投げ出したカイエンであった。
「あー、やっぱりしんどいな、こりゃ……」
「何が……起きたんだい?……」
全てが眼前で起きたにも関わらず、何が何やらさっぱり分からない。
息も絶え絶えなソウエイの疑問だったが、カイエンは律儀にも、
「今のが、俺の宿している幻想霊って奴だ。まだまだ完璧には制御できなくて、一度力を借りるとそれだけで全身ズタボロになっちまうんだけどな」
「……なるほど」
それならば先程までのカイエンが本気だったというのも頷ける。制御できない力など、とてもではないが実力と言い張ることは出来ないからだ。
ソウエイが一人で納得していると、カイエンはふらふらとした足取りながらも立ち上がった。
「さてと、お互い虫の息なわけだし、ここらで決着といこうぜ。折角だから、あんたに勝つために鍛えておいた、とっておきの修行の成果を見せてやる」
「ははっ、嬉しい事を言ってくれるじゃないか。カイエン君、僕は君と戦えたことを本当に幸運に思うよ」
心の底からの感謝を述べながら、ソウエイも気を抜くと崩れ落ちそうになる四肢に力を込める。
こうして、どちらもノックダウン寸前の二人の拳法家は、月光の下で対峙した。
満身創痍ながらも両者の霊紋は淡い光を存分に放っており、最後の決着に向けて準備が整っている事を伺わせる。
次の瞬間、仕掛けたのはカイエンの方であった。
「九鬼顕獄拳、奥伝の一・双角」
それはこれまでの九鬼顕獄拳の構えとは似て非なるものだ。
両手を肩の高さまで持ち上げた構えは、無双の怪力を発揮する「剛鬼の型」に酷似している。だが、脱力したように膝を曲げて腰を落とした下半身は、身軽な跳躍を可能とする「翔鬼の型」を彷彿とさせた。
見慣れぬ構えにソウエイが眉をひそめたと同時、カイエンが跳躍する。
四方を大木で囲まれたこの空間は、翔鬼の型で攪乱するにはもってこいの立地だった。あっという間に最高速に至ったカイエンが目まぐるしく樹々の間を跳び回り、全包囲からソウエイの隙を虎視眈々と狙う。
対するソウエイの選択は、奇しくもこの戦いの最序盤の攻防と同様、相手の速度を逆手に取ったカウンターだった。
跳び回るカイエンを捉えるのが困難である以上、狙うのは攪乱から攻撃に転ずるその瞬間だ。タイミングを見計らって軌道上に氷柱を生み出してやれば、上手くすれば激突して大ダメージ、最悪でも動きを封じることで反撃の機を作ることができるだろう。
ダンッ
最後の踏切が、ソウエイの真後ろに聳えていた巨木を揺らす。
五感がその気配を捉えたのとまったく同時に、ソウエイは完璧なタイミングで氷柱を出現させていた。
突如眼前に出現した障害物に道を遮られたカイエンが、急ブレーキをかけて氷柱の前で立ち止まる。
そんな展開を予想しながら振り向いたソウエイだったが、視界に飛び込んできた光景に思わず目を剥いてしまった。
跳躍の勢いを一切殺さぬまま、カイエンが一直線に氷柱に突っ込んできたのである。あわや激突すると思われたその瞬間、空中で器用に身を捻ると、振りかぶった拳を叩きつける。
ガギンッ!
たった一撃。それだけでソウエイが今振り絞れる全力で生み出した氷柱に罅が走ったかと思うと、寸毫と持ちこたえることなく砕け散る。
それだけに止まらず、氷柱を砕いた拳は速度を緩めぬまま、愕然とするソウエイの胸板目掛けて叩き込まれていた。
想像を絶するベクトルがソウエイを撥ね飛ばす。巨人に放り投げられたのかと錯覚するほどに勢いよく地面に叩きつけられたソウエイは、二度三度とバウンドした挙句に突っ込んだ立ち木を圧し折り、更に次の木の幹にめり込んだところで停止すると、ぼとりと力なく地面に落下する。
ソウエイが立ち上がって来ないことを確信し、カイエンが無言で拳を突き上げる。
死闘の決着は、ただ頭上の月だけが見届けていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
全身至る所が悲鳴を上げているカイエンは、それ以上にボロ雑巾となっているソウエイに歩み寄った。
「よお、起きてるか?」
「ああ、何とかね。あちこちが痛くて身動きは一切取れないけれど……不思議とすっきりした気分だよ」
寝転がったまま、落ち着いた声音で答えるソウエイ。戦っていた間の高揚感はすっかり冷めてしまっているが、今はその落差が逆に心地良く感じられる。
その傍らまで歩いて行くと、カイエンもどさりと腰を下ろした。
「すっきりした、か。よく分からないけど、満足できたなら良かったぜ」
「ああ、満足だとも……ああ、いや、一つだけ心残りが出来たかな。最後の構えは一体何だったんだい?」
ソウエイの疑問ももっともだろう。
「剛鬼の型」とも「跳鬼の型」とも異なる新しい構え。それにも関わらず、二つの型の特徴である破壊力と機動性が違和感なく融合していた。
それゆえ「跳鬼の型」であれば通用したであろう対応策だけでは不十分となり、ソウエイの迎撃は突破される結果となったのだ。
カイエンは泥と血に塗れた顔にドヤァという表情を浮かべると、自慢げに言い放った。
「凄いだろ。二つの型を同時に繰り出せるように色々と修行したんだ。あんたの精霊は応用力が高そうだから、一つ一つの型だけじゃすぐに対応されると思ったんでな」
「なるほど、秘密兵器だったというわけか。そいつは光栄な話だね」
と、その時である。満月の光が柔らかく差し込む広場の端に、新たな影が姿を見せた。
「うぉん」
「おっ、ヘイか。そっちの首尾はどうだった?」
「わふっ! わんっ!」
月光を照り返して艶を放つ漆黒の毛並みも誇らしげに、ヘイが状況を伝える。
匂いによる追跡が可能なヘイ以外では、南都から遠く離れた密林の中まで追いかけてくることは困難だ。その点も考慮したリンカから伝言を託されてきたのである。
ヘイの伝言に二つ三つ頷くと、カイエンはよっこらしょと立ち上がった。
「向こうも片が付いたらしいぜ。俺は連れが待っているから戻るけど、あんたはどうするんだ?」
「僕は……もう少しここにいるよ。まだ体が満足に動かないし、この気分を暫く楽しんでおきたいからね」
「そっか。じゃあこいつでも食ってろよ。すげえ美味いから元気が出るぞ」
近くの木になっていた実をもいだかと思うと、それを投げて寄越してくる。
ソウエイが受け取ったことを確認すると、更にもう一つ同じ実をもぎ取り、尻尾を振るヘイと等分にして齧りながら去って行く。
そんな後ろ姿を見送ると、ソウエイは己の手の中に収まっている果実に目をやった。
鮮やかな紅色をしており、なるほど確かに美味そうだ。
口の中に唾液が湧き出してくるのを自覚しながら、ソウエイは果実から漂ってくる香りを胸一杯に吸い込む。
「臭っ!!?」
この時嗅いだ茜瓜の芳香は、死闘の余韻すら軽々と吹き飛ばして余りある強烈さだったと、彼は後に述懐した。
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