燻る火種2
無名の新人拳法家があれよあれよという間に武術祭を勝ち上がり、遂には決勝戦まで駒を進めたというニュースがホウチン中を駆け巡った夜、誰もが寝静まった頃合いに、大通りから少し外れた場所にひっそりと佇む一軒の宿屋の裏口がキィと軋んだ。
周囲の様子を窺いながら顔を覗かせたのは、ミリアの付き人を務めるカノンであった。
しかし、顔全体をすっぽりと覆い隠すような頬かむりに足先まで隠れる長さの外套を羽織っているため、一見しただけではその正体を見抜くことは難しい。
ちなみに防寒目的という可能性は皆無だ。昼間の熱が残っているのか、南都は夜も仄かに暖かく、出歩くに際して殊更厚着をする必要はこれっぽっちも無いからである。
つまりカノンの格好は、身バレ顔バレに細心の注意を払っているが故ということになる。
そんなカノンが歩を進めていく先は、ホウチンにおいても最も闇が深い地区であった。
闇が深いといっても街灯の有無といった意味では無論ない。
頽廃と緊張を混ぜ合わせ、隠し味として剣呑を仕込んで煮詰めたような、刺すでもなく纏わりつくでもないのに肌をピリピリと刺激してくる不快感に満ちた場所。
人の業の暗く澱んだ部分を、余すことなく並べ立てているエリアという意味だ。
当然、そこを住処とする者は己より弱者――すなわち獲物を嗅ぎ分ける、裏社会の住人独特の感覚に優れている。そうでなくては、すぐに己が弱者――狩られる側に追いやられてしまうのだから、さもありなん。
そんなわけで、そろりそろりと歩むカノンの前を柄の悪そうな二人組が塞いだのは、偶然でもあり同時に必然でもあった。
この二人組が立ちはだかったのは偶然だが、遅かれ早かれカノンを狙い易い獲物と見做し、しゃぶり尽くさんとする者が現れたという意味では必然である。
二人組は真っ先に前後を挟んで逃げ道を封じると、にたにたと下卑た笑みを浮かべながら、あえてゆっくりとカノンとの距離を詰めていった。
心理的な圧迫を与えることで、獲物をパニックに陥らせ、反撃や逃亡の芽を封じるという外道的交渉の初歩中の初歩である。
相手を上回る立ち位置を確保しようと目論むという点では、有閑マダム同士の自慢話によるマウントの取り合いとも相通ずる。
まあ、この二人組がそこまで計算しているかという点については、なかなかに議論の余地はあるのだが。
ともあれ、手を伸ばせばカノンに触れられる距離まで近づいた二人組であったが、カノンが布切れを取り出した途端、捕食者然としたその態度は一変することとなった。
その原因は布切れにこれ見よがしに織り込まれた紋様である。
盃の上に図案化した心臓が配置されている。
意味を知らぬ者には不気味な図柄と映り、意味を知る者ならば図柄通り心臓を抜き取られるような恐怖に襲われることだろう。
なにしろその紋様は、この街の裏社会において楯突いた者に死をもたらすと噂されている、とある組織を意味するシンボルだったからだ。
美味そうに見えた獲物が、実は猛毒を隠し持っていたというわけである。
ここであからさまな警告を無視して突っかかって行くような馬鹿では、生き馬の目を抜く裏社会で長生きするのは難しい。案の定、二人組は露骨に舌打ちこそしたものの、無言で脇に寄った。
道を譲られた格好となるカノンは、二人組とはそれきり目も合わさずに通り過ぎる。
そんなやり取りを覗き見ていたのか、以降は観察するような気配こそあるものの、誰一人としてカノンの道行きを阻もうとする者は現れずに済んだ。
そうして蝋燭一本のか細い灯りのみを頼りに、ゆっくりと裏町を踏破していくこと暫し、カノンが足を止めたのは裏町の片隅に建つ年季の入った事務所らしき建物の前であった。
小汚い扉を前に改めて覚悟を固めたのか、緊張した面持ちで唾を嚥下すると、おもむろにその扉をノックする。
さほどの時間も置かず、中から男が顔を出す。
厳つい顔に剃り上げた頭髪。引き千切ったように下半分が無い耳や、袖口から覗く精巧な彫り物の入った腕を見るまでもなく、明らかに堅気とは一線を画した空気を漂わせている。
先程の二人組のような半端者ではない、正真正銘の裏稼業の人間だ。
男はカノンの取り出した布切れを一瞥すると、顎をしゃくって中へ入るよう促した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
カノンが通されたのは、至る所にヤニが染みついた一室だった。
その最奥に陣取り、葉巻をくゆらす眼帯の男が一人。舎弟を十人以上侍らす立ち居振る舞いからして、眼帯男こそがこの部屋の支配者であることは間違いない。
眼帯男は悠然とした態度で美味そうに紫煙を吐き出すと、「さて」と口火を切った。
「こんな夜分遅くになって顔を出すたぁ、一体全体どういう了見か。きっちり説明してもらおうかい」
「わたくしが今日ここに参ったのはあなた方に抗議の意を示すためです」
緊張で汗ばんだ掌をぎゅっと握り、カノンは内心の恐怖を悟られぬよう、あえて息継ぎを挟まずに一気に言い切った。もしも迂闊に息を吸い込んでしまえば、恐怖のあまり二度と声が出せなくなるような気がしたからである。
カノンの物言いに立ち並んだ舎弟達が色めき立つが、眼帯男は意に介した様子もなく黒々とした瞳でカノンを見据え、無言で先を促す。
「ホウチンに向かう道中で、追剥ぎに見せかけて襲撃するという話は伺っていました。ただし、危害は加えないという取り決めだったはずです。それにも関わらず、先日の襲撃では明確な命の危険を感じたのです。その点について、きっちりと釈明してくださいませ」
「釈明ねえ……くく……くはははっ」
最初は真面目ぶった風を装っていたが、あっという間に化けの皮が剥がれ、眼帯男は堪え切れないといったように噴き出した。
「何がおかしいというのです! わたくし達は命の危険を感じたと――」
「そいつはもう聞いたぜ。いや、なに、あんたのズレっぷりが面白すぎてな。腹の皮がよじれるかと思っただけだ」
「わたくしがズレているですって!?」
思ってもみなかった指摘にカノンは声を裏返らせかける。
対する眼帯男は、気を抜くとその隙に飛び出してこようとする笑いを噛み殺しつつ、先端が灰色になった葉巻をカノンへと向けた。
「おうよ。もしも狙ってやってるってんなら、むしろ大したタマだと感心するくらいだ。命の危機を感じるだぁ? 当たり前だろ、俺達の受けた依頼はあんたの主人をビビらせて国元に帰らせることだ。そのために命の危険くらい感じさせなくてどうするって話だよ。もしかしてあんたのご主人様は、生ぬるいお遊戯みてえな脅しに屈するような弱腰なのかい? いや、こっちとしちゃあ仕事が楽になるんで、その方がありがてえんだがな」
「お嬢様を愚弄するつもりですか!?」
怒りが恐怖を上回ったのか、噛み付くように抗議の声を上げるカノン。対する眼帯男は、カノンの抗議など蚊が刺した程度にすら感じていないらしく、頭を振ってゆるゆると否定した。
「むしろ逆だぜ。十歳のガキなんざ、ちょいと脅かせば泣いて逃げ帰ると高をくくってたんだが……なかなかどうして、根性が据わってるじゃねえか」
どこか楽しそうにそう嘯くと、葉巻の灰を灰皿へ落とす。
「どんなに追い詰められても諦めねえガッツは、うちの連中にも見習わせてえくらいだ。正直な話、あのガキは大物になる素質がある。そこだけは間違いねえ。だがな」
手放しの称賛から一転、突如として片目だけの眼光が鋭さを増し、がらりと声が低くなる。
室温が一気に十度は下がったような錯覚。南都に居ることを忘れさせるほど、凍てついた冬を想起させる視線に貫かれ、カノンは思わず背筋を震わせた。
「なんだかんだ言ったところで、今はまだ十歳のガキに過ぎねえ。最初の襲撃で、十分に心を折る算段は付いてたんだ。余計な邪魔が入らなけりゃ、な」
眼帯男の言わんとするところを察し、カノンはようやく合点がいった。
なるほど誤算というのならば、彼の少年は間違いなく最大級の誤算要因に違いない。
「何者なんだ、あのカイエンとかいう野郎は? 別の機会にも仕掛けてみたんだが、うちの中でも手練れの連中があっさり返り討ちにされちまった。それどころか、気付けば武術祭の決勝にまで進出してやがる。それほどの使い手が護衛についているなんて話、こっちは聞かされてねえぞ」
「護衛というわけではありません……偶然あの場に居合わせたのです」
苦しい言い訳に聞こえるが、事実である以上は他に言いようも無い。
露骨な疑いの視線が向けられるが、カノンとしても釈明のしようが無く、沈黙を守ることしか出来なかった。
「ふん、護衛じゃねえってことは、放置しておいても構わねえって事か? 次の襲撃の機会にゃ、あの野郎はいないって事だろうなあ、おい?」
あからさまに圧力を掛けてくる眼帯男の質問に、カノンは少しの間考えた後、ゆっくりと、しかしはっきりと「いいえ」と否定した。
確かにカイエン達との出会いは偶然であり、そのカイエンも入都時にはぐれたまま、今の今まで顔を会わせてはいない。
戦士としてはすこぶる優秀なのだろうが、護衛としては及第点をつけられるか怪しいところと言わざるを得ないだろう。
その代わり、もっと厄介な人物がミリアの味方として収まっていた。
リンカである。
歴史研究者を名乗っているが、その立ち居振る舞いはカノンの知る学究の徒とは明らかに異なる。
彼女の在り様は、ありていに言えば胡散臭いの一語に尽きた。
歴史研究者を名乗るに足る知識こそ持ち合わせているようだが、普通の研究者は隣国の権力争いに嘴を突っ込もうともしなければ、裏社会の者と思われる情報屋とツーカーの仲だったりもしないものだ。
ミリア達がホウチンの街中を移動する際のコースと時間にしてみても、リンカの指導により、必ず巡回中の追捕使が近くにいるように調整されている。かといって街の外へ連れ出そうと画策してみたとしても、妙に勘の鋭いあの女のことだ。すぐさま察知されて、手痛い返しの一手を食らう羽目になるだろう。
歴史研究者というよりも、軍師や参謀と言われた方がよほどしっくりと来る人物なのである。
そう説明を受け、眼帯男は苛立たしそうに悪態をついた。
「くそったれな話だ。ガキ一人を泣かすだけの簡単な仕事かと思ってたのに、まさかこんな面倒な事態になるとはな。霊紋持ちが護衛についてるってだけでも迂闊に手が出せないってのに、たった一日で照霊鏡の在処まで辿り着かれるとは思ってもみなかったぜ」
「その点について、確認したいことがあります」
唐突に話の腰を折るカノン。眼帯男からの疑問の色を含んだ視線が注がれる。
それに気付いているのかいないのか、カノンは小さく呼吸を整えると、おもむろに眼帯男に向けて尋ねた。
「照霊鏡の奪取に成功したのであれば、どうしてそれを故買屋に流してしまったのですか? あなた方が確保し続けていれば、いくらリンカであっても行方を追跡しきることは困難だったはずです。しかし、現実には照霊鏡はトンロウの手に渡り、行方が掴めてしまったがためにお嬢様は諦めようとなさりません」
「ああ、その事か」
眼帯男は実につまらなそうに肩をすくめるにとどめた。
「照霊鏡を拝借に行かせた若いもんが勝手をやらかしたんだよ。取引で動いた金額を聞いたらしくてな、あまりの大金に目が眩んで、売っ払って自分の懐に入れやがった。馬鹿な奴等だぜ」
「……その者達はどうなったのでしょうか?」
「あん? お得意の抗議でもしたい口か? だったら持って来てやるよ」
そう言うと眼帯男は控えている舎弟達に指示を出す。
だが、持って来るとはどういう意味か。連れて来るの言い間違いか?
カノンが不思議に思う暇もなく、舎弟達は眼帯男の言葉に頷くと、三人が部屋を出ていく。数分後、出て行った三人はそれぞれ小脇に一抱え程の包みを提げ、小走りに部屋に戻ってきた。
「さてと、ご対面だ。あんたの言う通り、この件についてはこっちの落ち度だからな。好きなだけ罵ってくれて構わねえぜ」
言葉だけは殊勝なものの、正反対のふてぶてしい表情でそう告げると、眼帯男はおもむろに包みを解く。
そこから転がり出た物を目にした瞬間、カノンは思わず顔を背け、込み上がってくる吐き気を抑えるために口元へ手をやってしまっていた。
それも無理はない。包みから取り出されたのは、紛うことなき人間の生首だったのだから。
恐怖と絶望に顔を歪ませ、命乞いをしたのであろう口は半開きとなっている。とっくの昔に血は流れきってしまっているらしく、肌の白さはいっそ作り物めいた趣さえあった。
「仕事にケチをつけやがったってんで、親父からケジメをつけさせられた馬鹿の成れの果てさ。すまねえが、こいつで勘弁してやってもらいてえ」
「わ、わかりました! その件はもう結構です!」
慌てた口調で了承すると、眼帯男は深々と呼気を吐き出し、生首を片付けるように指示を出す。
カノンは押し寄せてくる不快感を懸命に堪えながら、飄々とした様子の眼帯男を睨み付けた。
ここまで会話が成り立っていたので油断してしまっていたが、やはり住んでいる世界が違い過ぎる。
仲間だった者の命をいとも容易く奪ってみせる残虐極まりないやり口。南都最大の犯罪組織ハンモンカイの名はただの看板ではないということか。
「し、指示がある以上、わたくしも協力は致します。ですが、お嬢様に危害は加えないという約定だけは、必ず守って頂きます!」
「結構。お互い、良い取引にしましょうや」
早くこの部屋を立ち去りたい一心で、半ば叫ぶように告げたカノンの言葉に、眼帯男はまるで動じた風もなく不気味な笑みで応じるのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
口元を抑えたカノンが逃げるように部屋を転がり出ていく。
小馬鹿にしたような笑みを張り付けた顔で眼帯男達がそれを見送る光景を、天井裏からつぶさに見届けた影があった。
いや、立ち去る光景だけではない。カノンがこの事務所に入ってからずっと、その行動の全てをその影は見届けていたのだ。
カノンが姿を消すと、影は満足したように小さく頷き、真下に揃っている強面達には一切気取られることなく、闇に溶けるようにしてその姿を消す。
後には、ただ静寂だけが残されていた。
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