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ハンモンカイ3

 もふもふとした毛並みに顔を埋め、リンカは腹の底から蕩けきった声を垂れ流していた。


「あああぁぁ~、じあわせえぇぇ~」

「あぉん……」


 海よりも深い諦観を含んだ鳴き声の主は、言うまでもなくヘイ以外にはいない。リンカの両腕にがっちりとホールドされており、抜け出すのは困難だと一目で見て取れる。

 常にも増して依存っぷりが酷いが、これこそリンカの言うところの禁断症状によるものらしく、武術祭の控室に足を踏み入れた瞬間に脊髄反射としか思えない程の反応速度でヘイへと突進してのけたのだ。

 ここまで来ると、いっそ天晴と言いたくなるほどの執着ぶりである。


 しかも驚くべきことに、理性が飛んでいるとしか思えないゆるゆるの形相ながらも、抱き締める力加減や撫でる手つきは繊細そのものであり、ヘイに一切の余計なストレスを与えていないのだ。

 もしもペットかわいがり選手権が存在すれば、優勝はおろか殿堂入り、永世名人も夢ではあるまい。

 才能の無駄遣い、ここに極まれり。


 そんな調子でたっぷりヘイの抱き心地を堪能した後、リンカが視線を向けたのは部屋の反対側で修行に明け暮れるカイエンの姿であった。


 ひゅぼっ、ひゅぼっ、ぶおん

 目にも止まらぬ速度で拳や蹴りが打ち出されるたび、控室の中に突風が生じる。

 それも闇雲に振り回しているのではない。

 カイエンの編み出した九鬼顕獄拳。その型を逐一構えては確かめるように技を繰り出し、技を繰り出したかと思うと即座に別の型へと移行して、を素早く繰り返していた。


 型と型の接続が恐ろしく短いため、素人目にはまるでひとつながりの演武のようにも映るだろう。

 事実、リンカが己の欲望に忠実になっている間、カイエンは休みの一つすら入れることなくひたすら修行へと没頭していた。

 その集中力たるや、ヘイをもふっている時のリンカのそれに匹敵するといっても過言ではあるまい。


 なお、その間この控室は、仔犬を撫で繰り回す女と一心不乱に修行に打ち込む少年が同時に存在する、極めて混沌率が高い空間となっていたのだが、それを知るのは一度だけ足を踏み入れかけて即座に回れ右をした係員くらいしか知る者はいない。


「カイエン君、そろそろ休憩にしたら?」


 抱いていたヘイを床に降ろしたリンカに声を掛けられ、カイエンはようやく拳打を止めた。

 噴き出すのを忘れていた汗が、今頃になって思い出したように全身に浮かび上がってくる。その汗を拭いながら、カイエンは体を動かしたお陰か随分とスッキリとした様子でのたまった。


「なんだリンカか。いつから居たんだよ」

「最初から居たでしょうが。この部屋に入った時点でカイエン君と一緒だったわよ」

「そうだったっけか?」


 さっぱり憶えていないといわんばかりに首をかしげてみせる。どうやら汗と一緒に記憶も体外へ排出してしまったらしい。

 カイエンは机の上に用意されていた水差しを手に取ると、蓋を外して豪快にガブ飲みした。

 火照った体に水分が心地良く染み透る。


「ぷはっ、やっぱり修行の後の一気飲みは格別だぜ!」

「はいはい、良かったわね。一息ついたらちょっとこっちに座って頂戴。少し聞きたいことがあるわ」

「およ?」


 呼ばれるままにリンカの目の前まで行くと、胡坐をかいて座り込む。一方のリンカは床の上に直接腰を下ろす主義ではないらしく、控室に一脚だけ用意されていた椅子を引っ張ってくると、カイエンと相対するように腰を落ち着けた。


「で、なんだっけか。わざわざ改まって」

「さっきカイエン君から聞いた近況で少し気になる点があってね。概略だけだと不明点が多いから、正確なところを教えてもらいたいのよ」

「さっきの話……っていうと、ソウエイの話か?」


 通路での会話を思い返しつつ尋ねるも、リンカはあっさりと首を横に振った。


「そっちじゃないわ。私が聞きたいのは、市街地で霊紋持ちと戦っている最中に第三者から介入を受けたという話の方よ」

「ああ、そっちの件か。それに関してはサンチュウって名前の追捕使のおっちゃんに、俺の知っている事全部話しておいたぞ」

「サンチュウって、このホウチンの追捕使隊長の名前じゃない。カイエン君、つくづく隊長さんと縁があるわね。っと、それはともかく、同じ話で構わないから私にも詳細を教えて頂戴」


 食い下がるリンカの熱意に負け、面倒そうにしながらも記憶をほじくり返すカイエン。

 ふんふんと相槌を打ちつつ食い入るように聞いていたリンカだったが、カイエンが全てを語り終えると、顎に手を当て己の思考へと深く沈み込んでいく。

 そのまま沈黙すること数分、リンカはふと顔を上げると、確認するように尋ねた。


「カイエン君が手傷を負わせた刺客には、間違いなく見覚えは無かったのね?」

「ああ。あの場はいろいろゴチャついてたから匂いの類は憶えている暇が無かったし、服装もそこら辺にいた連中と変わらなかったと思う。顔はチラッとだけ見えたんだが、あの晩以外に見た覚えは無かったな。それに特徴らしい特徴が無い顔だったから、正直記憶に薄いんだよ。二本目の頭か、せめて鱗でも生えていてくれりゃ忘れたりしないんだけどな」

「人類にカイエン君級の無茶を求めないで頂戴。まあでも、カイエン君のお陰で色々と分かってきたわ。もしかしたら、ここから敵の本丸まで一気に踏み込めるかもしれないくらいよ」


 そう言うと自信満々に胸を張るリンカ。

 正直、あれっぽっちの話で得るところなど何も無さそうに思えてしまうカイエンだったが、ここまで豪語するのであれば目星の一つも立っているのだろうと、自分を納得させて聞き流した。

 単に興味が無いだけとも言えるが。


「この件については私の方で調査してみるわ。カイエン君はさっき頼んだ通り、武術祭での優勝を目指して頂戴」

「おうよ、任せとけ!」


 力強く請け負うカイエンの声に見送られ、リンカは影に身を隠すと、こっそりと控室を後にした。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「いらっしゃ……!」


 カラコロというドアベルの音に反応して歓迎の言葉を発音しかけていた故買屋の親父は、店内に入ってきた人物の姿を見て続く台詞を飲み込んだ。

 顔を見せた人物が、おいそれと歓迎できない相手だったからである。


「誰かと思えば、この間のお嬢ちゃんじゃねえか」

「お久しぶりね。今日もちょっと聞きたいことがあるんだけど、構わないかしら?」


 挨拶と共に切り出された一言に、親父は渋面を作る。それを見るだけで己が煙たがられているという事実がありありと伝わり、リンカとしては苦笑する他ない。

 しかし、親父の態度などまるで気付いていないかのような雰囲気で手近に置かれていた古書を手に取ると、親父に向かって数粒の大振りな琥珀と共に差し出す。

 親父もこの商売でそれなりのキャリアはあるため、リンカの行動の意味はすぐに察することができた。が、それゆえに渋面の皺が深みを増してしまう。


 一見すれば、売り物として並べられていた古書に売買の意志を示しただけで、至極ありふれたやり取りにも映る。

 しかし、肝となるのは「聞きたいことがある」というリンカの前置きと、古書の代金としては法外に過ぎると即座にわかる支払い額だ。


 これが意味するところは唯一つ、古書の売買という体裁を装った情報料の前払い。

 その意味が分かってしまうがゆえに、琥珀を受け取ることで厄介事の巻き添えになる危険性と手に入る大金を秤にかけ、親父は大いに悩んでいるのである。


 時間にすれば十秒もかからぬ懊悩の後、天秤の針は最終的にリンカの方へと振れた。

 大きな溜息を吐きつつ琥珀を受け取った親父は、本日閉店の札を店頭に掲げると、ガラクタの散らばる店内に引っ込んでくる。

 どさりと投げ出すようにして売り物のLLサイズ安楽椅子に体を預けると、もうどうにでもなれと言いたげな投げやりな口調で恨み言を呟いた。


「畜生め。俺はしがない故買屋で、情報は売り物にしてないんだぞ。どうしてこんな羽目になってるんだろうな……」

「ただの必然でしょ。親父さんは秘密の一端を知る立場にあって、お金と引き換えにそれを売ることを決心した。全て親父さんの選択の賜物よ」


 ぐうの音も出ない正論で親父の弱気を叩き潰すと、リンカは早速尋ねる。


「聞きたいことは一つだけよ。例の鏡をこの店に持ち込んだのが何者か、今度は隠さず教えてもらうわよ」

「……一応、飯の種なんだが……」

「飯の種を売り渡す決断をした。それだけの事でしょ?」


 力ない反論は即座に切り捨てられる。情報料として受け取った大粒の琥珀は、出すところに出せばこの故買屋程度ならば丸々買い取ることすらできるだろう。

 法外ではあるがある意味で適正価格でもあり、あれを受け取った以上は親父に他の選択肢は残されていなかった。


 夜逃げも覚悟することで吹っ切れた親父は、その後はリンカに訊かれるまま、洗いざらい情報をぶち撒けたのであった。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「と、いう事があったわけよ」

「あまり故買屋さんを虐めないであげて欲しいのですけれどね」


 故買屋の親父から必要な情報を引き出した後、その足でリンカが向かったのはキツネの情報屋だった。

 ホウチンには他にも情報屋を営む者はいるが、腕の良さとビジネスライクに付き合えるという気楽さではここが一番だ。


 先日、とある盗賊団から財宝を横取りしたばかりで懐が温かいリンカは、事態打開に繋がるのであれば、文字通り金に糸目はつけないつもりであった。

 金銭はただ溜め込むのではなく、正しく使うことで初めて価値を持つのだということを、リンカは身をもって理解しているのだ。


「失礼ね、虐めてなんかいないわよ。情報と引き換えに適正な額を支払っただけ。もちろん、あなたがこれから売ってくれる情報についても、その価値があると見做せば、それに見合った代金を支払うつもりだから安心して」


 そう言いながら、どこからともなく取り出した大粒の琥珀をキツネの目の前に置く。

 その大きさは故買屋の親父に支払ったものと比べても遜色ない――どころか、上回ってすらいるだろう。


 しかし、そこはキツネも玄人だ。目の色を変えるような無様な真似はせず、落ち着いた手付きで琥珀を取り上げると、拡大鏡で真贋を確認してから再び元の位置に戻す。


「結構です。お払い能力があることは確認させて頂きました。ご用件を伺いましょう」

「相変わらず淡泊ね。そんな調子だと、恋人だって出来ないんじゃない?」

「おや、わたくしの個人情報がご所望ですか。必要とあらば用立てますが、先程の琥珀だけでは不足となる可能性がございますよ」

「興味が無いわけじゃないけど、今日はやめておくわ。それよりもビジネスの話をしたいのだけど」


 リンカが強気に切り込めば、キツネも予定調和のように即座に首肯する。


「照霊鏡を強奪した犯人と、故買屋に売却した者の一致確認でございますね」

「それは裏取りでしかないわ。それだけの情報に大金を払う価値は無いのじゃなくて?」


 即座に打ち込まれる楔に、キツネは慇懃に頭を下げた。


「これは失礼を。確かに仰る通りです。では、他にどのような情報をご所望でしょうか?」


 その言葉にリンカは暫し瞑目していたが、おもむろに口を開いた。


「この間、照霊鏡を強奪したのは南都で一番大きな犯罪組織だって言ってたでしょう。とりあえずその組織について、知っていることを洗いざらい」

「それはまた、なんとも……」


 あまりのスケールの大きさに、さすがのキツネも絶句してしまう。

 今のリンカの発言は、要するにホウチン最大の犯罪組織に喧嘩を売るという宣言に他ならない。

 その言葉の持つ重みは、キツネとてポーカーフェイスで受け流せるほど軽くはなかった。

 ひとまず動揺を飲み込む時間を稼ぐため、YesでもNoでもない回答を口にする。


「組織に関する情報すべてとなりますと、先程の琥珀一つではお代が足りるかどうか……」

「いくら足りないのかしら?」

「そうですね……琥珀でのお支払いであれば、先程の大きさの粒があと五十は必要かと」


 これはキツネからすれば遠回しな拒絶であった。到底支払えぬ金額を提示することで知るべきではない情報を制限させる、情報屋独自のやり口だ。

 だが、リンカはそれすら軽々と飛び越えていく。


「琥珀なら五十と。なら、これで足りるわよね?」


 そう言いながら無造作に机の上に置かれたのは、綺麗に研磨された大粒の紅玉であった。

 単純に大きさだけ比べたとしても、先程の琥珀に劣るまい。それに加えて丁寧なカットが施されており、キツネの言うところの琥珀五十粒の価値があるのは明白だった。


 先に琥珀を見せておいて価値の基準点を作っておき、いざというところでその基準では収まらないものを提示する。特大の情報を要求することであらかじめキツネを動揺させておく手口といい、なかなかに老獪な交渉術といえる。

 ここまで鮮やかに術中に嵌められては、キツネといえども負けを認めないわけにはいくまい。


「…………左様でございますね。かしこまりました。その組織――ハンモンカイについて、わたくしの知る全てをお伝え致しましょう」

「ありがとう……ああ、あともう一つ良いかしら?」


 さもついでのように指を一本立てて見せるリンカ。

 しかし、長いこと情報屋として生きてきたキツネの勘は、これこそが今日のメインに違いないと告げていた。

 南都最大の犯罪組織よりも重要性で上回るであろう質問に、キツネは我知らず呼吸を止める。

 その様子に気付いているのかいないのか、リンカは楽しそうに微笑むと、立てた指をぴょこぴょこと左右に振りつつ問い掛けた。


「そのハンモンカイに、最近外国人が接触した形式は無いかしら。そうね、例えば教国訛りを話していた、とか?」

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