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鬼vs鬼1

 にわかに空がかき曇ったかと思うと、桶をひっくり返したような激しい雨が降ってきたのは、シュウケイが墓地を一通り見回り終えた頃だった。

 雨具を持って来れば良かったかと言葉にせずに呟きながら、シュウケイは手に持った棍に視線を落とした。


 これを持ち出して来ていたことに気付いたのは墓地に到着した後だ。十年前は当たり前のように毎日これを振り回し、己の技を磨くのに没頭していた。

 とある件以来、ずっと小屋の片隅で埃をかぶっていたのだが、カイエンとの組手で久方ぶりに引っ張り出して以降、片時も離さずに持ち歩いていた頃の感覚が蘇りかけている。

 その名残のせいか、墓地の見回りに向かうにあたって気付かぬうちに手にしていたらしい。


(これが未練というものか。自分の事ながら滑稽だな)

「わう?」


 棍を見つめたまま動かないシュウケイの様子を不審に思ったのか、ヘイが覗き込むように顔を見上げてくる。

 またも己の内に沈み込みかけていたことに気付き、シュウケイはハッとした。


「っと、すまぬな。そなたはどこか雨宿りできる木陰にでも入っているといい。自分はもう少し雨に打たれていたいと思う」


 そう呼びかけると、一見すると仔犬にしか見えない霊獣の幼子は、つぶらな瞳でシュウケイをしかと見据えて首を横に振った。

 相性の都合か、シュウケイにはヘイのテレパシーによる意思疎通は行えない。それでも、言わんとしていることを仕草から読み取ることは可能だ。

 深く考えるまでもなく、ヘイがシュウケイの提案を断ったことは一目瞭然だった。


 さすがにその理由までは読み取れなかったが、ともかくヘイの意志を確認すると、シュウケイはやれやれと言いたげにふうと息を吐く。


「カイエンに似てそなたも強情な類のようだ。似ているから共にいられるのか、あるいはともにいたからこそ気質が似通ったのか……まあ、どちらでもいい話か」

「わんっ! うぅー、わうっ!」


 文句でも言いたげにヘイが吠えたてる。残念ながらヘイのテレパシーを受信することができないシュウケイとしては、何を伝えようとしているのかまるで分からず、眉をひそめることしかできなかった。


「気を悪くしたならば謝罪しよう。すまんな、こういう雨の日は昔のことを思い出してしまい、言葉を選ぶのが難しくなってしまうのだ」


 そう言うとシュウケイは立ち並んだ墓石へ目をやった。

 無数に屹立するそれらの中から、最も新しい一つに視線が吸い寄せられる。

 あの日を彷彿とさせるこの雨のせいか、握った掌中で存在を主張する武骨で懐かしい棍のせいか、あるいは己の内に眠る精霊の疼きによるものか。

 ともあれ、シュウケイは知らず知らずのうちに、あの日の記憶を掘り起こしていた。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「はっ、はっ、はっ……」


 息が荒い。

 目まぐるしい速度であらゆる光景が背後へと押し流されていく。

 それはシュウケイが森の中を疾走しているためだ。物心ついてからずっとこの山で暮らしているシュウケイにとって、本来は見慣れている筈の光景である。


 しかし、そんなシュウケイでも通ったことの無い道がある。

 それはこの山を下りる道だ。一度たりとて山から出たことの無いシュウケイにとって、下山ルートを駆け下るのは初めての経験だった。


 折悪しく大粒の雨が降り始め、慣れない道を全力で駆け抜けるシュウケイを濡れ鼠へと変えていく。

 火照った体を冷やしてくれる代わりに、視界を奪って足元をぬかるませてくる雨のため、シュウケイの心だけが逸って飛んでいきそうだ。

 そんな足元の定かでない心地を感じ始めていたシュウケイであったが、長い下り道を踏破しきった先に待っていた光景を見た瞬間、そんな心境は一瞬で吹き飛んでしまった。


 血だ、血だ、血だ!

 紅い液体が降りしきる雨に滲み、土の上へとゆっくり拡散していく。

 その血の源は、シュウケイにとってこれ以上ない程近しい人物であった。


「師匠……!?」


 掠れた声が喉をついて出る。

 間違いない。眼前に倒れ伏し、今も真っ赤な命の水を噴き出し続けているのは、シュウケイの師匠であった。

 よろよろと近づいて手首を取り上げる。


 師匠は蟻の這うような速度で顔を上げ、絞り出すように何かを口にしたようだったが、激しく降りしきる雨音にも邪魔をされ、よく聞き取ることができなかった。

 そして伝わらなかった言葉を遺言とし、ゆっくりと瞼を閉じると息絶えた。


 シュウケイはしばらくの間、黙って師匠の手を握り続けていた。

 やがて雨が血を洗い流し、握っていた手からあらゆる熱がすっかり抜けきった頃、幽鬼のようにふらりと立ち上がると、師匠の手を取った方とは逆の手に持っていた棍を突きつけ、錆びついた声を発したのだった。


「そなた、己が何をしたか理解しているな」


 疑問形を取ることなく断定する。

 突きつけられた方はといえば、ギラギラとした光をその双眸に宿し、研いだ刃物のような剣呑さを加味して吐き捨てた。


「兄弟子様よぉ、その歳で耄碌したわけでもないだろうに。俺が俺の意志で何を成したかなんて、見れば一発で分かるだろ。わざわざ問うなんざ、愚問の極みってもんだ」


 そう嘯く弟弟子は、こげ茶色で厚手の道着を身に纏い、たった今己の師を刺し殺したばかりの短刀をこれ見よがしに左右へ振ってみせる。

 反省や悔恨を一切感じさせないその物言いに、シュウケイの心のどこかで、とても巨大でひどく不気味な何かがぞろりと蠢いたような感触を覚えた。

 しかし、今はその感覚を追及するよりもやるべきことがある。シュウケイは頭を振ってその感覚をあえて無視せんと努めた。


「なぜ殺した!? 師匠は自分達にとって唯一の身内、我らはたった三人だけの家族ではないか!?」

「そいつだよ」


 込み上がって来る衝動を抑えること能わず、シュウケイは嗚咽交じりの詰問を撒き散らす。対して弟弟子は、いっそ冷ややかとさえ言えるほどに無感情に返答してのけた。


「その考え方が昔から気に食わなかったんだよ。ご先祖様が昔何をやらかしたのか、俺はそんな事は知らねえ。知らねえのに『この山を出ることは禁忌』の一言でこんな所に縛り付けて、親でも兄弟でもない相手を家族と呼ばされてきたんだ。イカレてて、あまりにイカレきってて、頭がどうにかなっちまいそうだったよ」

「……そなた……そんなことを…………」

「だがな、そいつも今日で終いだ! 一応は育ててもらった恩があるからな、俺はあんた達には黙ってこっそりと山を下りるつもりだったんだ。なのに、どこでどうやって嗅ぎ付けたんだかは知らないが、先回りして待ち伏せてやがったんだ。そして、俺を見て何て言いやがったと思う?」


 凝縮し、圧縮し、精製された狂気を言葉の節々からじくじくと滲ませながら、弟弟子は凶喜の形相を浮かべて呪詛混じりの言葉を紡いでいく。


「『家族から禁忌破りを出すわけにはいかん。破りたくば、儂を殺して家族の縁を断ち切ってみせよ』だぜ? くははっ、ありがてえ、まったくありがてえよ。自分から俺に殺されたいってんだ。おかげで心残りも消えてすっきりさせてもらったぜ!」

「なるほどな……ならば最早、遠慮は不要ということか!」


 これ以上は聞くに堪えず、シュウケイは弟弟子の言葉を遮ると、その喉元目掛けて鋭い突きを放つ。

 だが弟弟子は予期していた動きでそれを躱すと、短刀をもう一振り抜き放って両手に構え、狂気に濁った瞳でシュウケイを睨み付けた。


「おいおい、人間相手の殺しはご法度じゃなかったっけか」

「どの口がほざく。既にそなたは、家族でもなければ人ですらない。飢えた狼に等しい害獣よ。ならばせめてもの手向けに、自分がきっちりと駆除してくれる」

「はっ、腰抜けかと思ってたが、なかなかどうして言ってくれるじゃねえか。餞別代りにこんなものをくれるとは、詰まらねえ奴だと思ってたのは俺の見込み違いだったな。誤ってやるぜ、兄弟子様よ!」

「問答無用!」


 吠えると同時に全力で棍を振るう。ますます強くなる雨の中、シュウケイの全身が霊紋の発光により、薄暮の中に仄かに浮かび上がった。

 とはいえ、それは応じる弟弟子も同じこと。共に第一階梯の霊紋持ちであり、その実力は限りなく伯仲している。


 目まぐるしく攻守が入れ替わり、防ぎきれなかった攻撃がその身をかすめる度、道着の切れ端と共に両者の鮮血が舞い上がる。

 互いに手の内を知り尽くした者同士、戦いはいつまでも続くかに思われた。

 しかし、その均衡は突如として崩れる。


「ゴアアアアッ!!」

「!?」


 シュウケイの咆哮に押されるようにして、弟弟子の身体が大きく弾き飛ばされたのだ。

 完璧に受けきったと思っていた弟弟子は何が起きたのか理解できぬまま、いきなりスピードとパワーが跳ね上がった兄弟子を呆然と見やった。


 そんな急変の中にあって、シュウケイの心は凪いだ水面のように平らかだった。

 しかし、それは穏やかであることを意味していない。

 シュウケイの心を占めていたのは、ただただ純粋なまでの怒りだったのである。


 言葉を交わしているうちは浮かんでは消えていた疑問や葛藤が、武器を打ち合わせていくたびに削ぎ落とされていく。

 そうして錬磨され、純化されていった果てに残っていたのは、理屈や心情などを置き去りにした、ただひたすらに純粋な弟弟子への怒りのみ。

 そしてそれこそが、シュウケイの内に眠る精霊を呼び覚ますきっかけだったのだ。


 その正体を、シュウケイのみが直感的に、ゆえに正しく理解していた。

 己に宿っていた精霊の正体。それはありとあらゆるものに対して怒りをぶつけ、破壊してのける忌まわしき存在。鬼の幻想霊であると。


 もしもシュウケイの心が平時であれば、その恐ろしさに恐怖を抱き、自らを強く律して決して暴走させまいとしただろう。

 だが、怒りのみに支配された今のシュウケイにとっては、自らがどうなるかなど些末な問題に過ぎなかった。

 あるいはそこまで行きついたからこそ、鬼が顕現したともいえる。

 そんな心の赴くままに、シュウケイは棍を振り下ろした。


 ヂンッ


 鍔迫り合いの形が保たれたのは一瞬のみ。いつの間にか圧倒していた膂力に任せ、シュウケイが受け止められた棍を更に押し込むと、耐えかねた短刀の刀身がとうとう砕け散る。

 くるくると宙を舞う破片が地面に落ちるより早く、棍が振るわれると弟弟子の身体へと吸い込まれていく。


 都合五回。あまりの速度で振るわれたため、その風圧でもって降ってくる雨粒をすべて外へ押しやりながら、棍が弟弟子の肉と骨を無残に破壊する。

 ゆっくりと崩れ落ちる相手に向け、とどめとばかりに脳天へ向け全霊を込めた突きを繰り出すと、弟弟子は辛うじて指の先に引っ掛かっていたもう一本の短刀でそれを防ごうと試みる。

 が、それはあまりに儚い抵抗だった。僅かに軌道を逸らすにとどまり、繰り出された突きは弟弟子の右目ごとその頭蓋を砕いてのけた。


 どちゃあ、という音を立てて弟弟子の身体が泥の上に投げ出される。もはやシュウケイは追撃をかけようとはしない。その必要が無いからだ。

 その代わりに、戦いの間中ずっと放置されていた師匠の遺体を抱き上げると、真っ白な怒りに塗り潰される寸前だったシュウケイの理性は、最後に別れの言葉を絞り出した。


「さらばだ、かつての弟弟子――いや、ロウハよ。いずれ地獄の底でまた会おう」


 それだけ告げると、シュウケイは遺体を抱えて山へと帰った。その日から三日三晩、家族を二人同時に失った悲しみの哭き声が山中に響き渡る。

 その後、この戦いを目撃していた近くの村の老人の証言により、この地は新たな名前で呼ばれるようになる。

 鬼の哭く山、鬼哭山と。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「いや、過ぎた話だったな」


 二度と思い返すことはあるまいと思っていた過去を語ってしまい、シュウケイはふと我に返ると恥ずかしそうに口を閉じた。

 聞き役に回っていたヘイは何かを言いたげに、しかし言葉にできないことがもどかしそうに唸っていたが、意を決したようにシュウケイに飛びつき、その体をよじ登って肩まで登頂を果たすと、シュウケイの頬を優しく舐めてくる。


 言葉など通じなくとも伝わって来るヘイの思いに胸を打たれ、シュウケイは両目から溢れそうになる熱いものをこらえることができなかった。

 意地で声だけは堪えたままそっと涙する。

 幸いというべきか、零れる端から雨とともに流れ落ち、それと同時に心まで少しだけ軽くなったように感じられた。


 どれだけそうしていただろうか。シュウケイはふと何者かの気配を感じ取った。

 雨宿りする場所を求めて猿でも紛れ込んできたのだろうか。

 そう思いながら振り返ったシュウケイの視界に、一人の人物が映り込む。


 両手に巻き付けた無数の鎖。右目を覆うおどろおどろしい眼帯。辺り構わず撒き散らされる殺気。

 当時の面影などどこにもない。それでも、シュウケイには目の前の男が何者か、一瞬で理解できた。


「そなた…………!?」


 まるでたった今思い出していた過去から悪夢が抜け出して来たかのような錯覚に捉われる。

 そんなシュウケイの姿から何を感じ取ったのか、男は抜き身の刀身を思わせる凶的な笑みを口元に浮かべた。


「久しぶりだなあ、兄弟子様、いやシュウケイさんよ。十年前のお礼に来てやったぜ」


 鎖縛のロウハは、そう言って嗤った。

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