嵐の前にこそ静けさは潜む2
太陽が昇るに従って徐々に活気を増していく周囲の気配に導かれ、ヘイは目を覚ました。
くあぁぁ、と欠伸を吐き出した後、丸まって寝ていた体をほぐすように背を伸ばす。
ぶるりと全身を震わせて漆黒の毛並みに付いた露を払い落とすと、ヘイは隣で寝ているカイエンの起床という大仕事に取り掛かった。
「わん、わおん!」
まずは試しに吠えてみる。
しかし、耳元で騒がしくしてみても、一向に目を覚ます気配はない。
昨晩、眠りについた時刻が遅かったこともあるのだろうが、より大きな要因として回復に体力を振り向けているためと考えられる。
なにしろ、昨日の修行は常人ならば死んでいても不思議はない無茶苦茶ぶりだったのだ。
わざと蜂の大群に攻撃させ、それを捌くことで防御の技術を磨くなど、常識外れの奇行には定評のあるカイエンにしても無謀が過ぎる。
今こうして高いびきをかいていられるというのは、霊紋持ちだったとしても驚異的な回復力と言わざるを得ない。
同じ理由に起因して、顔を叩いたり舐めたりといった起こし方も憚られる。
めった刺しにされた顔面は、さすがにたった一晩では腫れが完全に引くというわけにはいかず、痛々しい勲章がいまだ無数に刻まれているからだ。
軽く触れただけでも激痛に襲われるのは必至。この状態で腫れまみれの顔を叩くというのは、慈悲の心が一欠片でもあるならば躊躇ってしまうというものであろう。
さてどうするかと思案していたその時、ふと人の気配を感じ、ヘイは背後を振り返った。
そこに立っていたのはヘイが見たことのない男性であった。
背格好は中肉中背。着ている衣服にはあちこちツギが当たっているものの、逆説的にそれだけ丁寧に扱われていることが伺える。
袖口や裾から覗く手足は体格と比べて重厚感があり、この男性が鍛錬を重ねた武人であることが見て取れた。
脇に片手で抱えた籠の中身は野菜だろうか。収穫直後特有の瑞々しい香りがヘイの鼻孔にも届いてくる。
一方、シュウケイは目の前に広がる光景に眉をひそめた。
昨日、はぐれたという旅の連れを探すために隠れ里を出て行ったカイエンが、いつの間にか里に戻っていたことに驚いているわけではない。
理解できないのはそこから先だ。
なぜそのカイエンは、寝床として与えられた集会場の畳の上ではなく、集会場の玄関先という地べたの上で寝ているのか。
なぜ着ていた道着があちこち破れてボロボロになったうえ、顔面の形が変わるほどに顔を腫らしているのか。
そして極め付けは、隣にちょこんと座り込み、警戒した様子でシュウケイを見据えてくる仔犬であった。
「……ん? 犬ではないのか、そなた……もしや霊獣の仔、ということは、そなたがカイエンの言っていたヘイか?」
「うぉん」
まじまじと観察してみれば、体のあちこちにシュウケイの知る犬とは微かに異なる特徴が見受けられる。試しにカイエンの挙げていた名前を尋ねてみたところ、子犬にしか見えない雷尾の仔は、シュウケイの言葉を理解しているかのように一声鳴いて頷いてみせた。
カイエンやヘイといった名前を知っていることから、どうやらカイエンの知り合いらしいと判断してくれたようで、警戒度も若干ながら下がっているのが感じ取れる。
しかし、たった一日の間に何があったのか。これはカイエンを叩き起こしてでも聞き出す必要があるだろう。
シュウケイは一度集会場の中に入って籠を置くと、入り口を塞いだ状態で寝こけているカイエンの隣に立つ。
何をするのかとヘイが見守っていると、シュウケイはおもむろに右足を持ち上げ、次の瞬間、迷うことなくカイエンの顔面を踏みつけた。
「ぐえっ」
「わふっ!?」
潰された蛙のごとき声を上げるカイエンと、突然の凶行に毛を逆立てるヘイ。
ここまでされてはのんびりと寝ていることなどできず、カイエンは涎を垂らしたまま飛び起きる。
「なんだ!? 何が起きたってんだ!?」
「ようやく目が覚めたようであるな、カイエン」
「ん? ああ、シュウケイか。おはようさん」
鋭い視線で周囲の様子を探らんとするカイエンに、シュウケイは何事も無かったかのように声を掛ける。声を掛けられて初めて気付いたといった雰囲気で挨拶を返しつつ、カイエンはしきりに首をひねった。
「なあ、起きたらどういうわけか顔が妙に痛いんだが、どうしてだか分かるか?」
「さてな。見たところ随分と腫れているようだから、おそらくそのせいではないのか。後で薬でも出してやろう」
直前まで顔を踏み潰していたことなどおくびにも出さず、シュウケイはいけしゃあしゃあと推測を告げるふりをして誤魔化す。
まだ半分ほど納得がいかない様子のカイエンであったが、続くシュウケイの言葉に瞳を輝かせた。
「ひとまずは朝飯にすると良い。その後で、昨日の成果について聞かせてもらおう」
「えっ、朝飯があるのか!?」
一瞬で思考が完全に切り替わっている。
想像以上のチョロさに感謝と一抹の不安を抱きつつ、シュウケイは集会場の大机の上に置かれた籠を指差した。
「ああ、今朝畑で収穫してきたばかりの野菜だ。遠慮せず食べるといい。そなたの連れの口に合うかは保証できんがな」
「おん!」
「大丈夫だって。ありがたく頂戴するとさ」
カイエンによる通訳を受け、ヘイの方を見やると、シュウケイの目を真っ直ぐに見つめて尻尾を振ってくる。
その瞳からは、先程と同様に確かな知性の色を読み取ることができた。
一応、カイエンから話だけは聞いていたが、人語を解して意思疎通ができるというのはデマの類ではないらしい。
「それは良かった。改めて、この里は君達の来訪を歓迎しよう」
そう告げると、シュウケイは踵を返して己の小屋へと戻るのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ヘイを預かっていて欲しい」
何の前置きも無く切り出され、シュウケイは何のことかと作業の手を止めた。
今やっているのは繕い物である。長年着回してほつれてきた衣服にツギを当て、補強し直すのである。今回はそれに加えて、カイエンがボロボロにして戻ってきた道着の修繕も引き受けている。
その間、カイエンにはこの里の住人がかつて着ていた訓練着を貸し出している。
作りはこれまで着ていた道着に近い簡素なもので、厚めの生地はこげ茶色をしていた。
「唐突に何を言い出すのだ?」
「頼み事だよ。数日間でいいから、ヘイを預かっていて欲しいんだ」
そう繰り返すカイエンに対し、シュウケイもそれだけでは首を縦にも横にも振ることはできず、重ねて訊く。
「歓迎すると言った以上、この里に滞在するのは認めよう。しかし、そなたが連れて行くことはできんのか? リンカという残りの連れを探すのにも、手は多い方が良かろう?」
至極当然の指摘に、カイエンは「ああー」と声を漏らした。そして思い出したように付け加える。
「そういえば言ってなかったっけ。リンカとは連絡が付いたんだ」
「ほう、それは重畳ではないか」
「そしたら、囮をやってくれって頼まれた」
「……?」
いきなりあさっての方向に飛んだ話題に付いて行けず、つい眉をひそめてしまう。
カイエンにしても、どう説明したものか方針が定まっていないようで、うんうんと考え込むばかりだ。
膠着状態に陥ったのを見かねたのか、ヘイが横からがうがうと口を挟んできた。カイエンはふむふむと頷き、咳払いして話を仕切り直す。
幼獣に指導される男、カイエン。
「えーとだな、俺達がはぐれた理由は説明したよな?」
「聞いている。サバク盗賊団とかいう者達に襲われて、吊り橋を落とされたとか」
「そうそう。で、リンカはヘイと一緒に俺を探していたらしいんだが、途中でその盗賊団っぽい連中を見つけたらしい」
なるほど、そういう事態もありうるだろう。というより、確率的にはそちらの方がよほど高いはずだ。
盗賊団と名乗るからには、それなりの規模で活動しているに違いないからである。
盗賊団の人数の方が明らかに多い以上、かち合う可能性はあちらが高いに決まっている。
「で、そいつらの会話を盗み聞きしたんだが、連中の目的はこの山にある鬼の財宝だって話だった」
「鬼の財宝とな?」
思わずおうむ返しに尋ねてしまうシュウケイ。物心ついてからずっと暮らしている山であるが、そんな大層な物があるなど聞いたこともない。
先代から伝えられた諸々の記憶を思い返してみても、財宝という表現に相応しい代物には心当たりが無かった。鬼という方はともかくとして。
「まあ、実際に有るか無いかは関係ない。連中は有ると信じて、山中を虱潰しに探し回っているらしい。そのうち、この近くにも来ると思うぜ」
「そうか……貴重な情報に感謝しよう」
「いいって。こっちだって、随分と世話になってるしな。話を戻すと、リンカはそこでヘイと別れて、連中に探りを入れに行った」
「馬鹿な! 女性が一人で盗賊団を偵察するだと? 何を考えているのだ、そのリンカという者は!?」
自然と声を荒げてしまう。
霊紋持ちだという話を聞いてはいるが、カイエンの言葉を信じるならば武術の心得は無いという。
それにも関わらず単独で大規模な盗賊団を偵察するなど、無謀の誹りを免れまい。
顔を合わせた事も無いその人物の思考がまるで理解できず、シュウケイは混乱した。
追い打ちをかけるように、カイエンは告げる。
「えーと、ヘイから聞いた伝言によると、連中の集めたお宝を横からかっさらうつもりらしいぞ」
「…………もしや、火事場泥棒の類か、その者は?……」
普通の人間であれば、盗賊団を相手に回して考えることといえば、逃げるか抗うかの二択である。それをまさか、盗賊団から金品を奪おうと画策するとは。
はっきり言って堅気の発想ではない。
「いや、本人曰く歴史研究者だ」
「失礼な事を言うようで申し訳ないが、計り知れない胡散臭さであるな」
「ああ、俺も常々そう思ってる」
心の底から同意するように深く深く頷くカイエン。
ならば何故同行を許しているのか。そう問い詰めたい衝動に駆られるが、さすがに本題からずれ過ぎたらしく、再度ヘイの指導が入った。
「わふっ、わおん」
「おっと、そうだった。で、ここでやっとあいつからの伝言に繋がるんだが、連中の目を引き付けるために俺に囮をやって欲しいって話らしい」
そう言って結ばれた話にシュウケイは呆れかえる。
カイエンだけでも常識外れだと思っていたのだが、どうやら旅の連れも負けず劣らず破天荒な人間らしい。
類は友を呼ぶのか、あるいは朱に交わって赤くなってしまったのか、判断はつかなかったが。
そして同時に、唐突なカイエンの頼み事の理由について、シュウケイはようやく納得を得ていた。
「なるほど。囮を務めるとなれば、盗賊団と鉢合わせる可能性も自然と増す。そんな危険な場所にヘイを連れていくわけには行かない、というわけか」
「いや、俺の修行に付き合わせてばかりだと暇だと思ったからだけど?」
せっかく理解できたと思ったのに、カイエンはあっさりとシュウケイの言葉を否定する。
零れかけた溜息を気合で飲み込み、シュウケイは確認した。
「修行だと? 囮ではなく?」
「囮だぞ。そのために修業するんじゃないか」
自信満々で何を当然と言わんばかりの口ぶりだが、その内容は支離滅裂である。
一縷の望みをかけ、カイエンの隣に行儀よく座っているヘイを見やる。
だが、頼みの綱も諦観の意を込めて首を横に振ってきた。シュウケイにも理解できる、お手上げの意思表示である。
心中に広がる絶望感に抗いながら、微かに残った義務感に突き動かされて尋ねた。
「すまないが、どうして囮を務めるにあたって修行という発想になるのかが、まるで理解できなかった。説明を求めても良いだろうか?」
「仕方ないなあ」
修行する→強くなる→盗賊達が注目する。
自信満々に語られる謎理論の直撃を食らい、とうとうシュウケイの精神が瓦解した。
俗に、理性が理解を拒んだとも言う。
「……ああ、そうだな。そういうこともあるかもしれないな」
何だか色々なものがどうでもよくなった。そんな捨て鉢な気持ちで呟く。
そんな姿を納得してもらえたと勘違いしているらしく、カイエンは上機嫌で再度シュウケイに頼み込んでくる。
「そんなわけで、俺が修行をしている間、ヘイを預かっていて欲しいんだ。感触は掴んだから、二、三日もあればものにしてみせる」
「……好きにするといい。むしろ、そなたを相手にするより気が楽かもしれん」
後半は何を言っているのか理解できなかったが、とりあえず了承は取り付けた。カイエンにとってはそれで十分だったらしく、ぺこりと頭を下げて感謝を伝える。
拒む理由も無いためシュウケイは小さく頷くと、おもむろに立ち上がった。
「自分はこれから見回りに向かう。ヘイよ、早速だが付いてくるか?」
「わうん!」
相性の問題か、シュウケイ相手では雷尾の能力を応用したテレパシー会話はできないようだが、ぶんぶんと尻尾を振って頷く仕草を見れば、肯定の意を汲み取ることは容易い。
「それじゃあ、ヘイのことをよろしく頼むわ」
「ああ、任されよう。まあ、どう考えてもそなたの方が危険なのだがな。修行と囮を同時にこなすのだろう?」
シュウケイの指摘にカイエンはぽんと手を打った。どうやら全く気付いていなかったようである。
「そう言われりゃそんな気もするな! まあ、どうにかなるさ。そういや、見回りって言ってたけど、どこに行ってるんだ? 一応、ヘイも連れて行くんだったら、どこに行ったかくらいは知っておきたいんだが」
「……初めて会った時に言ったな、自分は墓守だと。墓守が見回る場所など決まっている」
がらりと戸を開け、逆光に目を細めるカイエンに背中越しに答える。
「墓守が見回るのは墓所以外にありえぬよ。何処の誰とも知れぬ盗賊団が闊歩しているならば尚更の事、自分は自分の務めを果たさせてもらうとしよう」
力強く言い切るシュウケイの頬を、湿り気を帯びた風が撫で始めていた。
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