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錯綜する山中1

 姦しく鳴き交わす小鳥の囀りに、カイエンはぱちりと目を覚ました。

 伸びをしつつ上体をうーんと起こす。

 朝特有の、活気を内包しつつも静寂な空気を胸一杯に吸い込むと、暖機運転中だった頭が徐々に活性化し、巡航速度へと上がっていった。


 ゆっくりと左右を見渡すと、いまだに朝靄に包まれた隠れ里の様子が目に飛び込んでくる。

 それはイコールで、カイエンが屋外で夜を明かしていたという意味でもあった。


 昨晩、案内された集会場の片隅ではどうにも寝心地が悪く、あちこち探し回った結果、最終的に集会場の屋根の上を寝床としていたのである。

 ひんやりした夜気は彼が生まれ育った場所を彷彿とさせ、萎びた煎餅布団などより、よほど心地良く眠りにつくことが出来たものだ。


 そんなわけで屋根の上に立ち上がると軽く体をほぐし、最後に大欠伸をして残っていた眠気をすっかり吹き飛ばすと、カイエンは軽やかな足取りで地面の上へと降り立った。

 そのまま、てくてくとシュウケイの寝起きしている小屋へと歩いていく。


 今日は朝から、はぐれてしまったリンカ及びヘイとの合流を目指すと決めている。

 とはいえ、腹が減っては戦ができぬという故事のある通り、まずは腹ごしらえが先決だ。

 その点についてはシュウケイも織り込み済みであり、朝起きたらまずは食事を受け取りに来るよう、昨日の組手の後に伝えられていた。


 食事の準備にかかる手間など、一人分であろうと二人分であろうとさほど差はない。

 それよりも、食べ物を求めてカイエンが隠れ里中をひっくり返して回る方が、よほど被害が大きくなると予想されたためである。


 そんな訳で、鼻歌交じりでカイエンが小屋の前までやって来ると、丁度シュウケイが中から顔を出したところだった。

 だが、その出で立ちは明らかに異常であった。

 シュウケイがその手に握っていたのは、握り飯のような食べ物でも、鍋のような調理道具でもなかったのである。


 それは棍だ。

 昨日、カイエンと組み手をした際に持ち出してきた棍を、なぜか今この場においても握っていたのである。

 俯いているためその表情を読み取ることは出来ないが、たった一回の組手ですらかなり渋っていたことを僅かでも記憶しているならば、シュウケイが唐突に棍を持ち出してきた時点で違和感を覚え、警戒して然るべきであろう。


 ちなみにカイエンは無警戒に声を掛けた。


「おっす、シュウケイ。おはようさん」


 爽やかに朝の挨拶をする。その声に反応するように、シュウケイはゆらりと顔を持ち上げた。

 血走った目、半開きになった口から洩れる荒い呼吸、昨日は丁寧に束ねられていた髪は蓬髪と化し、人外の化生を彷彿とさせる。

 睨むように己を凝視してくるシュウケイの形相に、カイエンはふとある存在を連想しかける。

 だが、その想像が具体的な像を結ぶよりも早く、事態は動いていた。


「ガアアァァァ!!」


 あまりの豹変ぶりに意表を突かれて硬直していたのは、おそらく一秒にも満たぬ短い間だったはずだ。

 その刹那の間に、シュウケイは棍を振りかぶった体勢でカイエンへと肉薄していた。

 全身から放たれる淡い光を確認するまでもない。霊紋の力で強化された、正真正銘、本気の一撃である。


「ぐっ……ぎっ……」


 咄嗟に反応できたのは僥倖というしかない。

 遠心力のたっぷり乗せられた棍が、ぎりぎりでガードが間に合った右腕を打ち据える。それは今まさに、カイエンが霊紋で強化された脚力を全開まで振り絞り、後方へ下がって一旦距離を取ろうとした瞬間であった。


 結果として、カイエンはそれまで歩いてきた道のりを吹き飛ばされ、逆戻りする羽目となる。

 水切りで水面を滑空する小石の如く、地面に打ち付けられたカイエンの身体は勢いを失うことなく二度三度と跳ね、最終的には曲がり角にあった空き家に激突すると、壁を盛大にぶち破って停止した。


「くそ、ひどい目にあった」


 もうもうと舞い上がる埃をかき分けながら、自身が空けた穴から外へ飛び出してくるカイエン。たった今盛大に吹き飛ばされたとは思えない程にピンピンとしているが、それには種も仕掛けもある。


 接触の瞬間に後方へ跳んだため、偶然にも衝撃の大半を逃がすことに成功していたのだ。

 それでも痺れの残る右腕の状態からして、仮にまともに受け止めようとしていれば、間違いなく腕の骨が砕かれていたことだろう。


「一体全体、何だってんだ? まさか昨日の組手の続きか?」


 無い知恵を絞って考えるが、無論答えなど出るはずがない。

 ともあれ、今必要なのは思索ではなく対処だ。カイエンは全身に霊紋の力を行き渡らせると、棍を振り抜いた体勢のまま、遠方よりこちらの様子を窺っているシュウケイに対して声を張り上げた。


「おい、どういう事情があるかは知らないけどな、そっちがその気ならこっちもやってやるぜ。そう簡単に倒せるとは思ってくれるなよ!」

「オオオォォッ!!」


 返事は大気諸共に鼓膜を揺さぶる咆哮であった。

 ビリビリと全身を打つ衝撃波が周囲へと広がり、驚いた小鳥達が一斉に飛び立つ。

 数多の羽ばたきが上空を埋め尽くす中、今度はカイエンの方から間合いを詰めにかかった。


 撓めたバネを弾くような急加速で、カイエンとシュウケイの間にあった空間があっという間に食い潰される。

 正面からの激突は避け、蛇行して後方へ回り込もうとするカイエン。その目論見を潰さんと、シュウケイは薙ぎ払うように片手で棍棒を振るう。


 腰の高さを狙ったその一閃に対して、カイエンが選択したのは回避でも防御でもなく、更に一歩踏み込むことだった。

 加速の勢いを殺さぬまま、倒れ込むような前傾姿勢に移行する。いや、さすがにそこまでの前傾姿勢でバランスを保つのは無茶だったのか、咄嗟に突き出された両手が、顔面が擦れる直前で先に地面へと接触した。


 その様子は、一見すればバランスを崩して倒れ込んだようにも見える。

 しかし、それは実態とは大きくかけ離れていると言わざるを得なかった。

 カイエンの霊紋が輝きを増す。地面に突き立てられた両手の五指に力が籠り、両足で踏ん張った時と同様、あるいはそれ以上にガッシリと大地を捉えたのだ。


「九鬼顕獄拳、獣鬼の型」


 告げると同時、カイエンは四肢を地面につけたまま、さながら猛獣の如き挙動でシュウケイへと襲い掛かっていた。

 立ち上がって来るのを待ち構えていたシュウケイの迎撃は、二足歩行を放棄するというカイエンの戦法によって水泡へと帰す。


 もしも立っていれば避けようのないタイミングだったはずだった牽制攻撃も、極端な低重心であるこの体勢では首をやや傾けるだけで躱すに容易い。

 四つん這いでありながらも普段となんら遜色ない、この体勢こそが本来の姿なのではと錯覚するほどにキレのある動きで難なく迎撃を掻い潜ったカイエンは、その勢いのままシュウケイの足元へ攻撃を繰り出した。


 指を曲げ、猛獣の爪を模した掌底。足首を狙った拳撃という世にも奇妙なそれを、シュウケイは棍を足の代わりに差し出すことで辛うじて防ぐ。

 霊紋持ち同士の戦いに相応しい、素晴らしい反応速度であったが、だからこそ次の一手に対応することは叶わなかった。


 それは獣の狩りではよく見かける戦術だ。爪で獲物の動きを封じ、牙でもってとどめを刺す。シンプルでありながら洗練された殺しの身のこなし。

 カイエンが取った行動も大別すれば同様で、掌底を放った右手で棍を掴み、その動きを一瞬ながらも封じ込むと、返す刀で相手の腕に噛み付いたのである。


「グガァァァ!!」


 噛み付かれたシュウケイが驚愕と苦痛の入り混じった絶叫を上げる。

 拳法とは大抵の場合、人間を仮想敵の第一位に置いている。それゆえ、人間であるはずのカイエンが獣同然の動きをする事態に対処しきれなかったというわけだ。


 予想外の攻撃に混乱した様子のまま、それでも噛み付いている敵を振りほどこうと躍起となるシュウケイ。

 まずはカイエンの胴体に向かって蹴りを放つも、これは巧みに身をひねられてしまい、芯で捉えることができない。

 ならばとばかりに棍から片手を離し、噛み付いているがために動かすことのできないカイエンの横っ面に向けて、渾身の力で拳を叩き込んだ。


 さすがに霊紋で強化されている拳撃を顔面で受けるつもりはさらさら無いらしく、カイエンは噛み付いていた腕をあっさりと離すと、シュウケイの拳を紙一重で躱し、振り払おうと振り回される腕から更に距離を取った。

 喰い千切ることの叶わなかったシュウケイの腕を恨めしそうに見つめ、舌打ち交じりで罵る。


「ちっ、随分と硬い肉をしてやがる」

「ふん、これでも鍛えているものでな。そう容易く自分の肉をくれてやるわけがなかろうよ……」


 まさか返事があるとは思ってもおらず、カイエンはぱちくりと目を瞬かせた。

 吃驚した様子で一言、


「あれ? もしかして意識が戻ったのか?」

「失礼な。意識なら最初からずっとあったぞ……」


 憮然とした顔でそうは言うものの、顔面を蒼白にさせ、何かに耐えるようにきつく目を瞑りながら言ってもまるで説得力が無い。

 しかし、カイエンはそれを指摘することはなく、その代わりに戦う前によぎったイメージについて問い合わせた。


「シュウケイ、一つ聞いてもいいか。あんたの宿している精霊は何だ?」


 いきなりの本丸に踏み込む質問に、シュウケイが眉を歪める。

 僅かな逡巡の後、彼が口にしたのはカイエンの問いに対する答えではなく、それをはぐらかすものだった。


「さてな。自分もまだまだ未熟な身ゆえ、この体に宿る精霊の本質を掴むには至っておらん」


 第一階梯の霊紋持ちであれば、模範的な回答であったことだろう。霊紋の力を身体強化にしか用いることのできない第一階梯では、どんな精霊を宿しているかを理解している者は少ないし、その意味も薄いからだ。

 そう考えれば、シュウケイの回答はありふれているとすら評価できる。

 だが、カイエンはその答えを真っ向から否定した。


「嘘だな。あんたの強さは第一階梯をとうに超えている。間違いなく、第二階梯に至っているはずだ」

「そこまで言うならば、そなたも当然、第二階梯なのだろうな?」

「ああ、そうだ。訳あって、精霊の力をこの場で見せるわけにはいかないんだけどな」

「ふん、そなたが第二階梯だというならば、己の精霊を他人に明かすことは愚策だということくらいは知っておろう」


 霊紋持ち同士、それも第二階梯同士の戦いともなれば、単純な実力以外に精霊の相性が結果に大きく影響する。

 そのため、よほど有名な人物でもない限り、宿している精霊の種類を秘めるのは霊紋持ちの暗黙の了解となっていた。

 シュウケイの指摘は、それに反するのかという問い掛けであった。


「まあ、そんなに知りたければ、先にそなたの精霊を明かすくらいの誠意は見せてもら――」

「ん? 俺の精霊が知りたいのか? 俺が宿しているのは、鬼の幻想霊だぞ」


 遠回しに拒絶しようとするシュウケイ。その言葉を遮ってカイエンがいきなり暴露する。

 シュウケイはたっぷりと時間をかけてカイエンの言葉の意味を咀嚼した後、大きく息を吸いこみ、声を裏返らせた。


「はあぁぁ!? そなた、自分が何を言って……いや、幻想霊、しかも鬼だと!?」


 狼狽、困惑、混乱。そんな表現がしっくりくるほど、目に見えてシュウケイが取り乱す。

 カイエンが霊紋持ちの常識に真っ向から反し、宿している精霊を開示したことに驚いたのか。それとも宿しているのが、稀少中の稀少とされる幻想霊であることに驚いたのか。


 おそらくはその両方なのだろう。それほどカイエンの告白は、霊紋持ちの常識からすればショッキングな内容だったのである。

 ただし、当のカイエンは期待の籠った眼差しをシュウケイに向けてワクワクしていた。


「さあ、俺の精霊は明かしたぞ。次はそっちの番だ」


 あまりにもあっけらかんとした物言いに、逆にシュウケイの方が唖然となってしまう。

 確かに、先に明かせば教えるとは言いかけたが、あれはいわば方便だ。まさか本当にカイエンの方から宿している精霊を開示するとは、露ほども考えていなかったのである。


 とはいえ、形式上はここでシュウケイの宿している精霊を明かさない場合、カイエンを謀ったことになってしまう。

 それだけはシュウケイ自身の誇り、いやシュウケイが誇りとする存在に誓って犯すわけにはいかない。

 そんな思考を再確認し、苦渋を滲ませながらも頷く。


「……わかった、そなたは誠意を見せたのだ。それに応えぬは恥以外の何物でもない」

「おお、さすがシュウケイだ。そんで、あんたの宿しているのはなんて精霊だ?」


 抜群の食いつきを見せるカイエンを片手で押し止め、シュウケイは咳払いをすると告げる。


「うむ、それを知りたくば、そなたの連れを見つけてくることだ」

「?」


 一体何を言っているのかと言いたげなカイエンの視線に、シュウケイはできるだけ表情を動かさぬよう努める。


「自分の精霊についての情報は、そなたが下山する際に餞別としてくれてやろう。つまり、自分の精霊の正体を知りたくば、そなたの連れを探すことに注力するのが一番ということだ」

「えー、なんか狡いぞ。今すぐ教えてくれよ!」

「こうして人参をぶら下げられた方が、そなたも探索に気合が入るだろう。それに何度でも言わせもらうが、宿している精霊の正体など、そう軽々しく明かすべきではない」


 まるであっさりとばらしたカイエンを責めるような口ぶりである。

 ともあれ、シュウケイの取った選択は先延ばしであった。

 いずれ明かすのだから謀ったわけではなく、然るべきタイミングでもって伝えようという言い訳だ。

 詭弁と取られても仕方ない面はあるが、今この場に必要なのは絶対的な正しさではない。


 それでも、しばらくは食い下がっていたカイエンだったが、頑として首を縦に振ろうとしないシュウケイにとうとう根負けしたらしく、弁当代わりの干し肉を受け取ると、渋々とリンカとヘイの捜索に出発していく。


 シュウケイはその背中を見送り、カイエンの姿が隠れ里の出入り口である蔦の向こうに消えたところでようやく息をついた。

 よろよろとした足取りで小屋の壁に背を預け、ずるずると崩れ落ちるようにへたり込む。

 カイエンの前ではなんとか虚勢を張り通すことができたが、全身を襲う虚脱感で今にも倒れる寸前だったのである。


 ふと自身の手に目をやってみると、そこには見慣れた己の掌があった。

 だが、ついさっきまで、この手は彼の意識に逆らって動いていたのだ。カイエンに噛み付かれた衝撃で束縛が弱まり、なんとか振り切ることができたが、たったそれだけで体力をほとんど使い果たしてしまうほどに強力な支配力だった。

 それだけ強力にシュウケイを支配しうる存在とは一体何なのか。問うまでもなく、見当はとうの昔についている。


「侵食が早まったか? ……昨日の組手、いやカイエンの影響と見るべきか……?」


 急激な変化の理由としては他には思いつかない。そして、それを補強するに足る情報は、先程カイエン自身から告げられていた。

 思いもよらぬその名を思い返し、吟味するように言の葉に乗せる。


「……まさか鬼霊とは……これも因果というものか……」


 シュウケイの呟きは、誰に届くことも無く朝靄に溶けた。

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