鬼と墓守2
「おお、凄いな、こりゃ」
薄暗い洞窟を抜け、視界が晴れた時、カイエンの口から飛び出したのはそんな感想だった。
シュウケイに導かれるままに、雑多な植物で入り口が覆い隠された洞窟を通り抜けた先にあったのは、ちょっとした村程度ならば収容できそうな広さの空間だったのだ。
ざっと左右を見渡してみても、他に出入り口らしきものは見当たらない。
三百六十度全方位を岩山で囲まれたこの場所は、さながら天然の隠し砦といったところだろう。
思いがけない光景を目にした興奮で、カイエンのテンションが目に見えて上がる。
そんなカイエンを先導するシュウケイが、気配が付いて来ないことに疑問を抱いて振り返ってみると、トラブルメーカーの少年は洞窟の入り口を隠すように繁茂している蔓を、興味津々で引っ張っていた。
「なるほど。これのおかげで外からは入り口が分からないってわけか。秘密基地みたいで格好良いな!」
「この里の存在を外界から隠している大事なものだ。触るのは構わないが、間違えても傷付けないようにしてくれ」
シュウケイの注意が耳に届いたのか、名残惜しそうに蔦から手を離す。それでも湧き上がる好奇心は抑えきれないらしく、前後左右のありとあらゆる物を興味深そうに眺め回している。
まるっきり子供丸出しな反応をおかしく感じながら、シュウケイは彼を里の一角に建てられた一軒の家屋へと案内した。
かつては里の集会場として使われていたらしいが、シュウケイ以外の人間がいなくなった現在では、二度とその役目を果たすこともなく朽ちるのみだった建物である。
他の家々同様、シュウケイが定期的に補修こそしているものの、住まう者のいなくなった家屋特有の寂寥感と静謐さが染みついている。
「ひとまずここを使ってもらいたい。腰を落ち着ける場所は必要だろう」
「おお、いいのか? サンキューな」
瞳を輝かせながら礼を述べる。
少しでもカイエンとの付き合いがある者が見れば、屋敷中をくまなく探検しようと考えていることが丸わかりだろう。
しかし、それが実行に移されるより早く、シュウケイの一言がブレーキを掛けた。
「では、自分は今から地図を取ってくる。そなたは自分が戻るまで待機していてくれ」
「ん? 地図?」
何のことやらといった面持ちでカイエンが首をかしげる。どうやら見慣れない里の景色に興奮したため、記憶がすっぽりと抜け落ちているらしい。
「そなたの連れを探すという話だ。今、この山には盗賊がうろついているのだろう。そんな所に女性を放置しておくことなどできようか。いや、できるはずがない」
反語を駆使してシュウケイが力説する。
一方のカイエンは、さほど乗り気ではない様子で耳をほじった。
「んー、そんなに気張らなくても大丈夫だと思うけどなー」
「何を呑気な事を。盗賊団の件もあるが、素人にとって山歩きとは想像以上に体力を消耗するものなのだ。念のために聞いておくが、もう一人の連れだというヘイという者が、信頼のおける護衛というわけではあるまい?」
「ああ。ヘイは俺が預かっている子供だ」
ただし、霊獣の、であるが。
意図的にではないが重要な情報の抜け落ちた回答を受け、シュウケイは肩をいからせる。
「尚更問題ではないか! 女性だけではなく、子供を連れて山越えだと!? そなた、何を考えている!」
「おいおい、落ち着けって。イライラするのはカルシウムが足りないからだって、昔、爺が言ってたぞ。さっき獲った魚を食い終わったら、残った骨をやるからそれでも齧って落ち着け」
「落ち着けるか! むしろちょっと腹が立つわ! 魚ならば定期的に摂取している!」
だんだんとカイエンのペースに巻き込まれ始めたらしく、ピントのずれたことを口走るシュウケイ。
その額に薄っすらと青筋が立っているように見えるのは、錯覚ではあるまい。
「大体、どうしてそなたはそのように落ち着いていられるというのだ。その連れも霊紋持ちだとでも言うならば話は別だが――」
「あ、リンカは霊紋持ちだぞ」
「…………………………」
流れる沈黙。気まずい緊張。
沸騰していた頭が一気に冷える感覚に苛まれながら、シュウケイは喉の奥から確認の言葉を絞り出した。
「すまない、ちょっと空耳が聞こえたようだ。すまないが、もう一度言ってもらえないだろうか。そなたの連れの女性、リンカという方が何だと?」
「おいおい、大丈夫か? だから、リンカは霊紋持ちだって言ったんだ。あと、ヘイは雷尾っていう霊獣の子供だぜ。って、おい、どうしたんだ?」
こちらを案じるカイエンの声が遠く聞こえる。
緊張の糸をまとめて一気に断ち切られ、シュウケイは膝から崩れ落ちていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ぼっ、ぼっ、ぼっ
びっ、びっ、びっ
拳が空を穿ち、蹴りが風を切る音が静かに響く。
カイエンは今、寝床として提供された集会場の真ん前で、日課である拳法の修行を繰り広げていた。
カイエンが編み出した九鬼顕獄拳は、カイエン自身の中に宿る幻想霊の力を模倣したものだ。
無数にある型の一つ一つに意味があり、それらの型を反復することで、型に込められた術理を体に馴染ませる意味を持つ
勿論、それだけが修行ではない。
型稽古が終われば次は一人組み手だ。実戦を想定して繰り出される無数の拳撃で、カイエンの目にだけ映る仮想の敵手と熾烈な攻防を繰り広げる。
やがてカイエンが拳を止めた時、中天を若干通過していた程度だった太陽が、赤々と燃えながら地平線の下に身を隠そうとする時刻となってしまっていた。
つい熱中してしまったが、半日近く体を動かしているとなれば、さすがのカイエンも疲労を覚える。乱れた呼吸を整えながら振り返ると、こちらに向かって歩いてくる人影がちょうど目に飛び込んできた。
この隠れ里にいるカイエン以外の人間といえば一人しかいない。
その想像通り、カイエンの目の前までやって来たのは、この隠れ里唯一の住人であるシュウケイであった。
「どうだった、見つかったか?」
「否だ。そなたが流された河の上流を見てきたが、そなたの言うような風体の者達は見当たらなかった。おそらく、森の中に身を隠したのだろう」
カイエンの言葉に、シュウケイは首を横に振って応じる。
このやり取りから察せられる通り、シュウケイは単独でカイエンの連れであるところの一人と一匹を捜索に出ていた。
本来ならばカイエンが捜索に出るのが筋なのだろうが、試しにこの山の地図を見せたところ、まったく地図が読めないという重要な事実が明らかになったため、二次遭難の可能性を考慮してカイエンの出番は先送りとなったのである。
ちなみにこの事態を受け、カイエンに課せられた今日のノルマは、隠れ里の周囲の地形を頭ではなく体で記憶し、遭難してもここまで帰って来られるようになることだった。
頭脳労働は無理でも動物的直観を発揮させる方向ならば活路があるのではというシュウケイの読みは正しく、カイエンはたった一日でこの周囲の匂いや植生を把握しきっていた。
そして思っていた以上にあっさりとノルマが終了したことで逆に時間が余り、これ幸いとばかりに拳法の修行をしていたというわけである。
「それにしても、そなたは拳法家だったのだな……」
「ああ、言ってなかったっけか? 九鬼顕獄拳って言うんだぜ」
何故か苦虫を噛み潰したような視線を向けるシュウケイに対し、カイエンは視線に込められた感情に気付く素振りもなく、喜々として答える。
あまりにも無邪気なその態度に、シュウケイは一瞬唇を噛むも、すぐに何事も無かったような静かな声音で言い捨てた。
「ふん、拳法など所詮は、力を求めるだけの浅ましい心根の発露に過ぎん。そんなものをいくら修めたところで、無用の争いの火種になるのが関の山といったところだ」
「そういうシュウケイも、何かの拳法を修めているみたいに見えるぞ。それなのに拳法が嫌いだなんて、変な奴だな」
身のこなしを見ればそれくらいは分かると指摘すると、シュウケイは虚を突かれたように黙り込む。
明らかに気まずい雰囲気が漂うが、残念なことにカイエンに不足している基礎的な社会技能の一つこそ、場の空気を読むことであった。
要するに、一切の空気を無視して、特大の爆弾を投げ込んだのである。
「折角だし、俺と一勝負してくれよ。あんた、結構強いんだろ?」
「っ、断じて御免だ。自分はもう、拳法などと関わるつもりはない!」
きっぱりと拒絶し、くるりと背を向けて歩き出す。
普通の相手ならば、ここまで強く言えば多少なりとも遠慮くらいはするものだが、残念なことにカイエンには、その類の常識は通用しなかった。
「ちょっとくらい良いだろ、減るもんじゃないしさ」
「ほんの練習組手だって。たまには使わないと、折角習得した技が錆びたら勿体ないぞ」
「戦ってくれよー、くれよー、くれよー」
自分の小屋に帰ろうとするシュウケイの周りをぐるぐると回りながら、しつこく勝負を要求する。
無視し続けるシュウケイが自分の小屋に辿り着いた頃には、地面に寝そべって手足を振り回すといった具合に、その有り様はもはや駄々っ子同然となっていた。
この様子では、放っておけば一晩中騒ぎ続けるだろう。さすがにそれはご免被りたい。
根負けしたことを自覚して、シュウケイはひどく大きくて長い溜息を吐き出した。
「はあ…………ええい、やかましい奴だ。そこまで言うならば一回だけ相手をしてやる。それで我慢せよ」
「よっしゃ! やった、試合だ、試合だ!」
今泣いた烏がもう笑ったというやつか。地面の上に四肢を投げ出してジタバタさせていたカイエンが、即座に飛び起きガッツポーズを決める。
驚くほどの変わり身の早さを披露した少年に、小屋の前で待つように告げると、シュウケイは中に入り、一番奥に立てかけられている得物を手に取った。
シュウケイの相棒は頑丈そうな棍であった。
全長は2メテル近くあり、身長180セテル弱のシュウケイが持つと、頭一つ分突き出して見える。
基本は木製だが随所を鉄で補強しており、強度と打撃力を兼ね備えた武器であることが一目で見て取れる。
シュウケイが棍を抱えて小屋を出ると、カイエンは一歩も動くことなくシュウケイを待ち受けていた。
その立ち姿からは、先程までの子供っぽさなど微塵も残さず消し飛んでおり、カイエンから発せられた無言の気迫が、薄くたなびくように漂っている。
これまでの世間知らずっぷりを払拭するかのような精悍な顔付きを見れば、なるほど腕に自信ありというのも頷けた。
いつの間にかそんな論評を下している自分自身に気付き、シュウケイは顔に出すことなく苦笑してしまう。
とうに捨て去ったはずの武術の道だったが、火種は燻ったまま、今なおシュウケイの中に深く根ざしていたらしい。その事実を他ならぬ自分自身によって突きつけられ、嫌悪と共に郷愁も覚えたのだ。
そんなシュウケイの心中など気付く訳もなく、カイエンは緩やかに腰を落とし、左手を掌底に、右手に拳を握ると、稽古とは思えぬほど戦意の漲った眼差しで声を張り上げた。
「用意は良いか?」
「ああ、無論だ。一手教授してやろう」
「お手柔らかに頼むぜ!」
嬉しそうに応じると、カイエンは大地を蹴った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
下段に棍を構え、まずは様子見といったシュウケイに対し、カイエンは緩やかに蛇行して側面から襲い掛かった。
棍はあらゆる武器の原形となったとも伝えられる古い武器だ。
その特性は殺傷力ではなく、様々な局面に対応できる汎用性の広さにある。
槍のように突くことも、薙刀のように払うことも、剣のように打つこともできるのだ。
刃のついた武器と比べて破壊力が落ちるという欠点も、霊紋持ちの力で振るえば補うは容易い。
そして、カイエンの突進に対するシュウケイの回答は払いだった。
びゅんっ!
間合いに飛び込んだカイエンの頭部を薙ぐように一閃。しなりを利用して威力を増した横殴りの打撃が、目にも止まらぬ速度で打ち込まれる。
舌打ちする暇も惜しみながら、カイエンは地に転がる様にしてそれを回避した。
威力の乗っていない牽制程度の迎撃ならば受け止めて懐に飛び込んでいたところだが、見るからに武器の特性を十分に活かしている上に、シュウケイの全身に蠢く霊紋の輝きがこの一撃にはただの牽制ではすまない威力が込められていることを雄弁に告げていたのである。
さすがにそんなものをまともに受けるほど、カイエンは驕ってはいない。
地面を転がるカイエンを追い掛けるように、今度は棍の先端が突き込まれてくる。
つい昨日、槍のチョウコツとの戦いで味わった攻撃と同質であったが、昨日とは状況が異なっていた。
速度だけならばチョウコツの方が速いだろう。突きという点の攻撃を、壁の如き面の攻撃とするあの速度は、思い出すだけでも脅威である。
だが、その威力は間違いなくシュウケイの方が上だ。左右に頭を振って際どく回避するたび、地面を穿った棍の先端部が抉り取った土砂を撒き散らす。
何よりも特筆すべきは、シュウケイの攻撃はその全てに流れが通っている事だった。
力に任せて武器を振り回すのではなく、確固とした戦術を持って一手一手追い詰めるように武器を振るってくるのである。
それを証明するように、初手の薙ぎ払いからここまで、シュウケイの動きには一切の遅滞や逡巡が見られなかった。それはつまり、カイエンが一撃目を躱すのも、追撃の突きをこうして辛うじて回避できているのも、全てシュウケイの掌の上ということを意味している。
「こんにゃろ!」
直接戦っているカイエンがその事に気付けぬはずもなく、翻弄されながらも逆転の機を狙い続け、避けた突きの数が十を超えたところでとうとう勝負に出る。
息を止め、集中力を振り絞り、棍の動きを注視する。
見るべきは突きつけられた先端部ではない。自在に棍を操ってみせているシュウケイの手元、そしてシュウケイ自身だ。
しなりを利用して放たれる突きを、軌道を見極めてから受け止めることはまず不可能。
ならば攻撃の軌道を予測するしかない。
そのためにカイエンは、棍という一点だけではなく、それを振るうシュウケイを含めた全体を薄く広く注視した。
踏み込み、視線、手元のひねり。
それら全てを俯瞰するように感じ取り、カイエンの本能がある一点に向けて収束される。
「ここだっ!」
霊紋の力を込めた掌底で横殴りに眼前を打つ。
ドンピシャのタイミングで突き出された棍にジャストミートし、軌道を逸らされた突きが通常よりも深く地面へと埋まった。
好機だ。
掌底を放った反動を利用し、蹴り上げるように体を回しながら立ち上がる。
真下からの蹴撃こそのけ反って回避してみせたシュウケイであったが、長柄武器共通の弱点として、懐に入られた際の取り回しの悪さだけはいかんともしがたい。
曲芸じみた身のこなしで立ち上がったカイエンは、シュウケイが見せたほんの僅かな隙目掛けて、起き上がり様の勢いを乗せた回し蹴りを叩き込んだ。
がしん
まさかそれが受け止められるとは。
受け止めたのは勿論、シュウケイの振るう棍である。先程までとの違いは、シュウケイが棍の中央部から先端三分の一ほどの位置を握り、まるで剣のようにそれを振るったことだ。
あの一瞬、長柄武器の間合いでは捌ききれないと判断したシュウケイが、握りの位置を変えることで、槍の間合いから剣の間合いを持つ武器へと変貌させたのである。
まさしく変幻自在。棍という武器の特性をいかんなく発揮しているといえる。
追撃をかけようとするカイエンの機先を制し、シュウケイは大きく跳び退ると、最初と同様、下段に棍を構える。
対峙する両者の姿は、奇しくも戦いを始める直前と瓜二つだった。
唯一の違いは、先程までは辛うじてここまで届いていた夕日の斜陽が、完全に宵闇へと置き換わっていることくらいである。
どれほどそうして対峙していただろうか。一分か、十分か、あるいは十秒に満たぬ間か。
短くも濃密な睨み合いの果てに、シュウケイの取った選択は構えを解くことだった。
「ここまでとしよう」
「んなっ!?」
あっさりと告げられた戦闘終了に、カイエンは声を裏返らせる。
先ほどの攻防の中で、何かを掴んだ感触があったのだ。ここでやめるのは納得がいかない。
しかし、カイエンの言葉にならない文句など、シュウケイには全てお見通しだったらしく、霊紋を不活性化させると有無を言わせず、
「陽も落ちた。これ以上やれば、殺し合いの領分にも入りかねん。これは稽古なのだろうに」
「うぐ、そう言われると……」
シュウケイの技の冴えに触発され、途中から稽古であることをすっかり失念していたカイエンは呻き声を漏らす。
普段通りなカイエンのポンコツぶりに、シュウケイは小さく笑みを零すと、どこかさっぱりとした表情で告げた。
「そなたは受けが弱いようだ。防御というものはただ防げばよいというものではない。防御を持って敵の防御を崩し、翻って自らの攻撃となす。それができてこそ真の防御である。その点では、最後の一撃だけは及第点に値しよう」
「なるほど。いい事を聞いたぜ。ありがとな!」
己の弱点を指摘され、不貞腐れるのではなく感謝する。この少年はどこまでも拳法に真摯だった。
眼前の光景に、シュウケイは知らず知らずのうち、胸中に堆積していた鬱屈感が薄れているのを感じてしまう。
どこか懐かしいその感覚は、もはやかつてを思い出せぬ程、久しく忘れ去っていたものだった。
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