鬼と墓守1
その日、シュウケイが起床したのは、いまだ太陽が地平線から顔を出す前だった。
雨水を利用した洗面所で顔を洗い、寝起きしている小屋の裏の畑で育てた野菜と、先日狩った獣肉を調理して胃袋に収めていく。
飯の後は小屋の内外を軽く掃き清めると、日課となっている場所へ足を向けた。
三十分程の時間をかけ、途中で野草などを採集しつつ山中を踏破していく。
そうこうするうち、シュウケイは目的の場所へ辿り着いた。
そこは山の中にあるとは信じられない程に手入れの行き届いた空間だった。
下草は丁寧に刈り取られ、野生動物の侵入を防ぐ目的で建てられた板塀にぐるりと取り囲まれている。
そんな空間において、もっとも丁重に扱われているのは、無数に並べられた石であった。
その大きさは、拳ほどのものから人間を上回るサイズまで、形にしても一目見て自然石とわかるものから名のある石工が彫り出したと思われるものまで、実に幅広く多種多様である。
だが、一つとして無造作に打ち捨てられているものは無い。
それはまるで、これらの石こそがこの場の主役だと暗に示しているようでもあった。
そして実際のところ、その見立ては正鵠を射ている。
ここは墓地であり、並べてある石はその全てが墓石であるためだ。
「………………………………」
シュウケイは墓地の入り口で目を閉じると、その場で黙祷を捧げる。
どれくらいの間そうしていただろうか。
黙祷を捧げ終わったシュウケイが顔を上げると、あまりに微動だにしなかったがために墓石の一つと勘違いして留まっていた小鳥達が、慌てて肩の上から飛び立って行った。
溶けるように小さくなっていくその姿を見送り、いつも通りに墓地の掃除に取り掛かる。
一つ一つじっくりと、手を抜くことなく、しかし迅速に。
十年以上、一日たりとも欠かさず続けているだけあって、手際の良さには目を見張るものがある。
そうして全ての墓石の清掃を終えると、シュウケイは再度黙祷してから墓地を後にした。
一度小屋を経由し、向かった先は谷を下りた先にある渓流だ。目的は水汲みと、先日仕掛けておいた川魚捕獲罠の釣果の確認である。
まずは水汲みの方を片付けようと、樽と称しても違和感が無いほどの特大の木桶を抱えて渓流へと足を踏み入れる。
すると、その目の前に一体の溺死体が流されてきた。おそらくはもっと上流のどこかで、足を滑らせるかなにかして川に転落したのだろう。
溺死体はうつ伏せの体勢でシュウケイの視界を横切る様に通過しかけ、しかしシュウケイの目と鼻の先に来た瞬間、不意に引き込まれるようにして水中へと沈みこんだ。
この渓流に人間の死体を引きずり込むような大物がいただろうか?
気になったシュウケイは、川縁から溺死体の沈んだ辺りを覗き込んでみる。
しかし、そこには普段と何ら変わりのない、翠がかった水面があるのみであった。
光の反射が邪魔をするため、川底の深みまで見通すことはかなわない。
見えない以上はここで粘っていても仕方が無い。シュウケイはまだ見ぬ怪魚の捜索をあっさり諦めると、水汲みを再開するべく大桶に手を掛けた。
ごぼごぼ……ざぱんっ
シュウケイが諦めるのを待ち構えていたかのように、突如として水面が騒めくと、水飛沫を引き連れて先程の溺死体が飛び出してくる。
いや、それはもう溺死体ではない。
先程まで完全に脱力しきっていたはずのその人物には、今や目を見張るほどの生命力が漲っていた。
元溺死体は水中からとは思えぬ軽やかな跳躍を見せると、シュウケイのいる川縁に鮮やかに降り立つ。
よくよく見ると、その腕の中にはビチビチと暴れる数匹の魚が抱え込まれていた。
彼はまるで犬猫のように全身をぶるぶると震わせて滴っている水を振り落とすと、そこで初めてシュウメイの存在に気付いたらしく、ぱちくりと目を瞬かせた。
「おっ、あんた誰だ? 何者だ?」
「その台詞、そっくりそのまま返させてもらおう」
「俺はカイエンだ。まあ、旅人ってやつだな」
「……自分の名はシュウケイという。で、カイエンとやら、そなたはこんな所で何をしていた?」
シュウケイの問いに、元溺死体改めカイエンは獲れたて鮮度抜群の渓流魚を掲げ、
「魚を獲ってたんだけど?」
「それは見ればわかる」
「なんだ、分かってるなら聞くなよ」
違う、そうではない。
シュウケイが尋ねたのは、今この瞬間に何をしているかという意味ではない。
十年近くたった一人でこの山に籠り続けていたシュウケイでも、それくらいの行間は読む。しかし、カイエンと名乗ったこの少年の方は大真面目だったらしく、問答は終わりとばかりに魚を焼くための焚火の準備に取り掛かり始めていた。
「あー、カイエンとやら?」
「なんだ? あ、これは俺の朝飯だからな。やらないぞ」
魚を背中に隠し、威嚇のようにぐるるると唸り声を上げるカイエン。
人間というよりも人型の獣と会話している錯覚に陥りかけたシュウケイだったが、すぐにその適切かつ誤った思考を脇に追いやると、先程より一段低いトーンで問い掛けた。
「魚の話ではない。自分が訊きたいのは、そなた自身のことだ」
「俺の事だって? 俺の話なんて聞いても、たいして面白くないと思うけどな」
「楽しい、楽しくないではない。そなたがこの山の平穏を脅かすものか否か、それを見極めることは自分の責務であるためだ」
シュウケイが強い口調で言い放つと、ようやくカイエンの方もシュウケイに興味を抱いたらしく、まじまじと顔を見返してくる。
「平穏ねえ。よく分からんが、この山に入ってからはそんな驚くような事はしてないぞ。せいぜい、成りかけの剣鹿を返り討ちにしたり、イカス髪形をした盗賊団の霊紋持ちと一騎打ちしたり、そいつに吊り橋ごと河に叩き落されたくらいだな」
指折り数えながら申告するこれまでの行状に、シュウケイは思わず目を丸くしていた。
大した事ないどころか波乱万丈だったためだ。
もしこれが日常茶飯事だと言うのならば、この少年はどこぞの冒険譚の主人公か何かに相違あるまい。
加えてカイエンの台詞の中には、シュウケイが聞き逃すことができないものが混ざっていた。
「盗賊とな……?」
「ああ、そうだ。名前は確か、サバ、サバ……何て言ったっけ?」
「自分に尋ねられても答えられるわけがなかろうが。ともあれ、そなたはそのサバなんとかいう盗賊団に追われていたと。念のため聞いておくが、そなたには盗賊団と何らかのつながりはあるまいな?」
詰問口調で尋ねるも、カイエンはその質問の意味が良く呑み込めなかったらしく、こてんと首をかしげることで答える。
「つながりってのはどういう意味だ?」
「……そなたが盗賊団の一味ではないか、という確認だ」
自分で言っておきながら、シュウケイはその可能性はまず無いと推測している。
そもそも本当に盗賊団の一員ならば、わざわざ盗賊の話題を出す意味が無い。最初から何の変哲も無い旅人を演じていればいいのだから。
そして、そんな理屈よりも遥かに雄弁に、これまでのカイエンのありとあらゆる言動が、この少年の破天荒さを物語っていた。
盗賊団とて、最低限ではあるが社会性を持った人間達の集まりである。とてもではないが、この非常識の塊であるカイエンが属すことが出来るとは思えない。
そんな的確かつ失礼極まりない推論を立てられているとはつゆ知らず、カイエンは憤慨した様子で抗議してきた。
「俺が盗賊だって? そんなわけないだろ、あんたの目は節穴なんじゃないか?」
「……すまない、確かに自分が不躾だったようだな」
憤り方にも不自然な仕草は見当たらない。どうやら本当に偶々、盗賊と遭遇しただけらしい。心のメモにひとまずシロと書き込みながら、シュウケイは頭を下げる。
カイエンは粘着質なタイプではないようで、「分かってくれりゃいいさ」とあっさり謝罪を受け入れた。
「しかし、随分と大変な目に遭ったようだ。先程の失言の詫び代わりというわけではないが、山を下りるのならば、自分が道案内をしてやっても良いが?」
親切心半分、厄介払い半分といったシュウケイの提案に、カイエンは少し悩む素振りを見せた後、小さく首を横に振った。
「あー、悪い。ありがたい申し出なんだが、まだこの山でやり残したことがあるもんでな。それが片付くまでは、ちょっと」
想像に反して断られたシュウケイの視線に、一滴の疑惑が溶かし込まれる。
盗賊団が潜んでいるというこの山に、彼は一体どんな用事あるというのだろうか。話次第では、シュウケイが自らに課している役目において、この少年を排除しなくてはならないかもしれない。
それを見極めるためにも、シュウケイは更に踏み込んで尋ねざるを得なかった
「そなたがやり残していることとは何なのだ? 内容によっては手伝えるかもしれんぞ」
「いやあ、実は旅の連れとはぐれちゃったんだよな、これが。だから、まずはあいつ等を見つけてやらないといけないと思ってるんだ」
あまりにも軽い調子で告げられたその返答を、たっぷり十秒はかけて意味を咀嚼した後、シュウケイは裏返った声を上げていた。
「はあ!?」
「あれ、聞こえなかったか? だから、旅の連れとはぐれ――」
「聞こえている! どうしてそんな大事なことを最初に言わなんだ!? あまつさえ、悠々と魚獲りに興じるとはどういう了見だ!?」
それまでの落ち着いた様子が嘘か幻に思える様な剣幕で怒鳴りつける。
それに対しカイエンは、困った様子で頬を掻いた。
「吊り橋は完全に落とされてたから、俺の連れがすぐに盗賊団の連中と鉢合わせすることは無いと思ってさ。ヘイにしろ、リンカにしろ、結構しぶといからそこまで心配しなくても大丈夫だろうし」
「そういう問題ではない! しかも、ヘイとかいう者はともかく、リンカという方は名前からして女性ではないか! 女性がこんな山中ではぐれていると知って、どうしてそこまでのんびりと構えていられるのだ、そなたは! リンカ殿が不安がっているとは思わないのか!?」
「あいつが不安がる、ねえ……?」
ちょっと想像してみる。
その瞬間、背筋を通り抜けていった怖気に、カイエンが即座にその想像を中断していた。
どう考えてみても、カイエンが崖から落ちた程度であたふたするタマではない。それどころかストッパーがいないのをいい事に、これ幸いとばかりに思う存分ヘイを撫で回しているかもしれない。というか、そっちの方がリアルにありそうだった。
そんな想像をして勝手にげんなりするカイエンの態度をどう受け取ったのか、シュウケイは業を煮やした様子でつかつかとカイエンに歩み寄ると、むんずとその首根っこを掴み上げた。
「ここでグダグダ話していても埒が明かん。ひとまず自分が拠点としている地まで付いて来い。そこならば、この山を隅から隅まで網羅した地図がある。それを元に善後策を練ろうぞ」
「お、おう、分かった」
有無を言わせぬ圧力に、カイエンはこくこくと首を振る。最近はリンカという押しの強い人間と旅の道行きを共にしているためか、この手のタイプに正面から反発しても意味が薄いということは身を持って理解しているためだ。
ここはひとまず、長いものに巻かれておくべきだろう。
そう算段を立てると、カイエンは手早く内臓の処理を終えた魚を回収すると、急ぎ足で沢を登って行くシュウケイの後を追った。
人間サイズの桶を持っているとは信じられない程、シュウケイの身のこなしは軽い。油断すればカイエンが置いて行かれそうになるほどだ。
土地勘があるという理由も勿論あるだろうが、もっと根本的な理由に思い至り、カイエンは前を行くシュウケイの背中に声を掛けてみた。
「なあシュウケイ、もしかしてあんたも霊紋持ちなのか?」
「も、ということは、やはりそなたも霊紋持ちだったようだな。まあ、成りかけや他の霊紋持ちと一騎打ちをしていると聞いた時点で想像はついていたが」
道なき道を踏破していく速度をまるで落とすことなく、シュウケイが肩越しに答える。
だが、その後ろ姿からは他の霊紋持ちならば多少は持ち合わせている、尖った気配がまるで感じ取れなかった。
それはつまり、シュウケイは精霊の気配を完璧に抑え込んでいるということだ。例えるならば、何気ない呼吸音ですら他人に聞こえないように押し殺しているに等しい。
精霊を宿す者から見れば、極めて不自然な在り様と言わざるを得なかった。
カイエンの中に、シュウケイへの興味がむくむくと頭をもたげてくる。
そして、いついかなる時でも最短距離を最速で駆け抜けるのが、カイエンという人物の生き様であった。
「俺の事はいろいろ話したけど、考えてみたら俺はあんたの事を何も知らないんだよな。そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか?」
今回のような不意の遭遇であれば、ど直球に正面から聞いてしまうのが何よりも手っ取り早い。
躊躇も物怖じもせずに尋ねれば、何かを思案したのか返答こそ一拍遅れたものの、意外にも簡単にシュウケイは応じる。
「……いいだろう。お互いの視点を合わせておく事にはそれなりに意義がある。自分がそなたについて質問した以上、そなたもまた自分へ問うがいい」
どうにも古臭くて迂遠な言い回しだが、とりあえず好きに質問しても良いらしい。カイエンは少し考えた後、とりあえず一番大きな質問を投じてみた。
「シュウケイ、あんたは何者だ?」
「……ただの墓守に過ぎんよ。時代に取り残された、な」
押し殺したようなシュウケイの声音には、かすかに苦渋が滲んでいた。
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