鬼哭山の洗礼2
夜の山中は決して静かな場所ではない。
時折吹き抜ける風が木の葉を揺らしていく音、光る目玉を闇に浮かべた梟のホウホウという鳴き声、それに追われる野ネズミが下草の間を駆けまわるカサカサという擦過音。
その中で、ずるずるという衣擦れの音を伴って動く人影があった。
その人影は足音を立てぬように細心の注意を払いつつ、枯れ葉の塊に向かって歩み寄って行く。
やがて足を止めると、人影はゆっくりとしゃがみこみ、目指していた相手に手を掛けた。
ちょうどその時、上空で吹いた一陣の風が月を覆い隠していた雲を押し流し、柔らかな月光を満遍なく大地へと届ける手助けをする。
星明りだけでは影となって見えなかったその人物の顔が、月明かりに照らされてはっきりと浮かび上がった。
人影の正体はリンカだ。口をへの字にきつく結び、うっすらと緊張感を漂わせている。
そしてリンカが手を触れようとしていたのはヘイであった。丸くなってぐっすりと眠る毛玉に触れ、一瞬だけ恍惚した表情でフリーズするが、すぐに正気に返るとゆさゆさと揺り起こす。
「わふぅ……?」
「しー、声を出さないでね」
目を覚ましたヘイが寝ぼけ眼でリンカを見上げる。
リンカはその仕草にハートを撃ち抜かれて悶絶しかけるものの、ヘイを好きなだけ撫で回すという、彼女の人生において最も魅惑的な誘惑すら涙を呑んで振り払い、人差し指を唇に当てる「静かに」のジェスチャーをしてみせた。
普通の犬には人間の言葉など通じないところだが、もちろんヘイはただの犬ではない。霊獣である雷尾の幼体であり、その知能は人間と比較しても決して劣るものではないのだ。
相手の意図を的確に察し、ヘイは鳴き声を上げずに小さく頷いてみせる。
リンカは満足げに微笑むと、いよいよメインディッシュへと取り掛かった。
「カイエン君、カイエン君。起きてくれるかしら」
耳元で小声で囁きながらぐいぐいと体を揺する。ヘイを起こした時と比べると明らかに手荒な扱いなのだが、それでも一向に目覚める気配はない。
「んんん、もう食べられねえ……」
「ここまでベタな寝言だと、呆れを通していっそ殺意すら芽生えてくるわね」
無意識に握りかけた拳を寸前で押し止め、湧き上がる怒りをお腹の底に沈める。
正攻法では到底目覚めそうにないとなれば仕方ない。最終手段の行使を決意する。
そんなわけで、リンカはカイエンの鼻を摘むと、掌で口に蓋をした。
見る見るうちに顔色が赤→青→紫と変わったかと思うと、次の瞬間、カイエンは咳き込みながら飛び起きた。
「ぶっほっ! な、なんだってんだ!?」
「ようやく目が覚めたわね、寝坊助さん」
素早く手を引っ込めたリンカは何食わぬ顔で挨拶をする。カイエンはぶんぶんと頭を振って眠気を飛ばすと、真夜中の星空を見上げ、訝し気な表情でリンカを見やった。
「おいおい、起こす時刻を間違えてるんじゃないか? どう見たってまだ夜中だぞ」
「私だってこんな時間に起きたくはないわよ。夜更かしは美容の大敵なんだから」
「ふむ、意見も一致したことだし、俺はもう一回寝させてもらうとするよ」
「待ちなさい」
落ち葉の布団に再び潜り込もうとしたカイエンを素早く引き止める。
カイエンの恨めしそうな視線をさらりと受け流すと、リンカは一つ咳払いを挟んでからこう告げた。
「誰かがここに接近しているわ。それも、間違いなく敵意を持って」
いきなりの宣告で意味が飲み込めなかったらしいカイエンが首をかしげるのを受け、リンカは小さく嘆息すると両手の人差し指を持ち上げた。
おもむろに指の腹と腹を合わせたかと思うとそれを離す。すると、二本の指の間には糸のようなものが渡されている。
黒一色で構成されたその糸は夜の闇に完璧に溶け込んでいる。わざわざ月明かりにかざしてくれているため何とか存在を認知できるが、星明り程度の光量ではまず見つけられまい。
「これは私が霊紋の能力で生み出した影の糸よ。触っても実体は無いから物を結びつける役には立たないけれど、見ての通り非常に視認しづらいの」
「確かに、暗い所に張られたら見つけられないな、こりゃ」
「そしてもう一つ、この糸にはちょっとした機能があるのよ。この糸に触ったら、どれだけ離れていても私がそれを察知できる、という機能がね」
それはまさしく、影の精霊を宿したリンカだけが扱える糸であった。
加えて、触れたことを察知できるその特性。これがどのような場面で威力を発揮するか、子供でも少し考えれば容易く思いつくだろう。
「何の役に立つんだ、それ?」
残念ながら、カイエンは子供以下だったようだが。
無論、カイエンのこの返答も想定済みだったリンカは、呆れた表情を見せることも無く簡潔に答えを提示する。
「端的に言うならば警報ね。あらかじめこの糸をあちこちに張り巡らせておけば、何かが近づいてこの糸に触れるだけで、私はそれを察知できるというわけよ」
「おお、なるほど。そいつは便利だな!」
膝を打って感嘆を表すカイエンだったが、リンカはにこりともせず話を続けていく。
「カイエン君はさっさと寝ちゃったから知らないでしょうけど、私は広場に通じている通り道に、あらかじめこの糸を張り巡らせておいたの。猛獣対策のつもりだったのだけどね」
「わざわざそんな話を持ち出すってことは、その糸に反応があったってことか?」
肩をすくめてみせるリンカの態度に、ようやく合点がいったらしいカイエンが勢い込んで尋ねる。
神妙な面持ちで、リンカはこくりと首肯で答えた。
「大きさや速度から鑑みて、間違いなく人間がこっちに向かっているわ。人数は十人以上、いや、もっと増えているみたい。間違いなくここを包囲するように近付いている。楽観的に見て、私達を夜襲する気満々といったところね」
「オッケー、事情は理解した。どこのどいつかは知らないけど、要するに、俺達を襲って来るつもりって事だろ。なら、先手を取って叩き潰して――」
「却下よ」
血の気の多いカイエンの提案を、リンカは秒で蹴とばした。出鼻を挫かれ、カイエンが目を白黒させるが、それも無視して指摘する。
「わざわざ私達の居場所を知らせてあげる必要は無いでしょ? 私達は相手が接近してきていることを知っているけど、相手はその事を知らない。このアドバンテージを活かさない手はないわ」
「お、おう。なんか分からんが分かった。となると、どうすればいいんだ?」
澱みなく積み上げられていくリンカの説得に気圧されたように、カイエンはこくこくと頷きながら尋ねる。
リンカは不敵な笑みを浮かべると、自信満々な口調で、
「簡単よ。逃げちゃえばいいのよ」
「えー、一当てもせずに逃げるのかよ。戦ってないのに負けた気がして、なんか嫌だな」
いまいち乗り気ではないカイエンの愚痴に、ちっちっちとこれ見よがしに指を振ってみせる。
「相手の練度も分かってない状況で、こちらから仕掛けるのはリスクが高過ぎるわ。連中の中に霊紋持ちが混ざっていないという保証は無いのよ」
「ぬぬぬ、そう言われれば……」
「第一、人数で勝る相手が包囲を仕掛けてきているのに、真正面からそれに付き合っていたら、命がいくつあっても足りないでしょ?」
「ぐう」
ぐうの音しか出ずにカイエンは沈黙する。
が、切り替えの早さもカイエンの特徴の一つである。自らの頬を叩いて気合を注入すると、その場に勢いよく立ち上がった。
「まあそれでいいや。逃げるならとっとと逃げようぜ!」
「あ、ちょっと待っ――」
リンカの制止は、今度はタッチの差で間に合わなかった。
カイエンにとって逃走とは、イコールで背後を顧みることのない脱兎の如き逃亡を意味している。
その際に重要な要素とは他の何を差し置いても速度であり、霊紋持ちがその最高速を引き出そうと思えば、その身に刻まれた霊紋の力をフル稼働させる必要があった。
要するに、カイエンは霊紋の力を行使してしまったのである。
そして、それの何がまずいかといえば、霊紋が光り輝くという一点に尽きる。
霊紋には、力を引き出せば引き出すほど、その輝きを増すという特徴があった。
昼間であれば気にするほどの事も無い特徴であるが、闇夜に蛍という言葉もあるように、夜間であればその輝きはひどく目立つ。
具体的には、こちらを包囲している連中に居所を教える目印になってしまう程に。
それこそが、ごく一部の例外――例えば、自身を影で包んで霊紋の光を遮断できるリンカなど――を除き、大半の霊紋持ちが隠密行動を苦手としている理由でもあった。
当のリンカとしても、霊紋持ちの桁外れな身体能力にはあえて頼らず、包囲の穴を突いてこっそりと離脱する算段だったのだ。
だが、その目論見は一瞬でご破算となってしまった。
影の糸による警戒網も、包囲していた連中が慌ただしく動き出したことを伝えてくる。
十中八九、今のカイエンの輝きを見つけたとみて間違いあるまい。
当のカイエンもすぐに自分のミスに気付いたらしく、若干ビクついた口調で、
「おりょ? も、もしかして俺、やらかしちまったか?」
「カイエン君の馬鹿ぁーー!!」
心の底から迸るリンカの絶叫が、満天の星空に響き渡った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
背後から迫る足音に意識の一部を割きつつ、横手から襲ってきた敵の攻撃を捌く。
大振りな山刀による斬撃を体を開いて紙一重で躱すと、振り切って隙だらけとなった敵の足元を蹴りで刈り取る。
体勢を崩したところで背中に掌底を打ち込んでやれば、敵は肺の空気を押し出される苦悶の悲鳴と共に、密生した茂みの中へと転がって行った。
「これで五人目、と。次から次に沸いてくるな、こいつら」
「カイエン君、そんな所で立ち止まっていると追いつかれるわよ」
「わんっ!」
「おう、分かった。すぐ行く」
リンカとヘイの呼び声に返事をすると、カイエンは身を翻して先行する二人を追う。
カイエンの不注意によって謎の襲撃者達に見つかった後、リンカが決断したのは強行突破という選択肢であった。
すでに発見されてしまった以上、こそこそ隠れる意味は無い。かといって、あと何人いるかも分からない敵をちまちまと一人ずつ相手にしていては、気力の消耗も馬鹿にならない。
ここはひとまず退いて、態勢を立て直すのが上策という考えだ。
幸いにも、二人と一匹が突撃をかけた包囲の一角には霊紋持ちはおらず、カイエンの手に掛かれば至極あっさりと突破口を開くことは出来た。
だが、本当の戦いはむしろそこから始まった。
獲物に逃げられたことに気付いた敵は、諦めるどころか逆にしつこく追いすがり、先程のように足止めを目的とした襲撃もすでに二回受けている。
そのしつこさから鑑みて、どうやらこちらを逃がしてくれるつもりは一切無いらしい。
そんなわけでカイエンとリンカ、そしてヘイは、星明りだけを頼りに夜の山中を駆け回っていた。
ちらりと振り返ってみれば、松明の数が一気に増えたようにも見える。最初は奇襲のために灯りを消していたようだが、気付かれた以上は堂々と襲って来る腹積もりらしい。
と、その時である。
樹林地帯を抜けたのか、視界を遮るもののない岩場が一行を出迎える。
このまま真っ直ぐ突っ切りたいところであるが、夜目の利くカイエンは岩場の先が崖となって途切れている事をはっきりと見て取っていた。
崖はかなりの幅があるため、霊紋持ちの身体能力であっても対岸に飛び移るのは容易ではないだろう。
ちなみに崖下を覗き込めば、ごうごうという音と共に急流が水飛沫を上げていた。崖を飛び越えることに失敗すればあそこに落ちるわけだが、間違っても好き好んで飛び込みたい光景ではない。
「さーて、ここからどうするかね……」
「カイエン君、あっちに橋があるみたいよ」
揺らめく松明の灯りが着々と追いすがりつつある背後を気にしていると、リンカが袖を引っ張りながら下流側を指し示した。
指差された辺りに目を凝らしてみれば、確かにそこには、橋らしき影が黒々と浮かび上がっている。
「あれを渡りましょう。渡った後で橋を落としてしまえば、連中も追ってはこられない筈よ」
リンカの提案に頷く時間も惜しみ、その橋に向かって疾走する。
近くまで寄ってみると、架かっていたのは、橋は橋でも吊り橋であった。
幅はぎりぎり詰めれば成人男性が二人並べるかどうかといった程度でしかなく、すれ違うのも難しそうだ。
細々とではあるもののかなり頻繁に人の手が入っているらしく、こんな辺鄙な山の中にあるにしては、パッと見た限り致命的な劣化や損傷は見当たらなかった。
「これなら十分使えそうね。さっさと渡っちゃいましょ」
「わぉん」
リンカの台詞にヘイが同意の鳴き声を返し、一人と一頭は急いで橋を渡り始める。
そう、橋を渡ろうとしたのは、一人と一頭だけだった。
「カイエン君?」
対岸まであと少しといったところまで来た時、最後の一人がついてくる気配の無いことに気付き、背後を振り返る。
すると、カイエンは吊り橋の半ばに陣取り、リンカに背を向けていた。
それはつまり、追っ手と対峙する方向を向いているという意味でもある。
「悪いな、リンカ。どうにもやられっ放しってのが気に食わないんでな。一発でいいからガツンとかまさせてくれ。ここなら回り込んでくる奴もいないだろうし、別にいいだろ?」
獰猛な笑みを浮かべてカイエンが頼み込む。
自分勝手で我儘なようでいて、その提案には一考の価値があった。森の中では数で押されると防ぎきるのは困難だったが、見晴らしのいい吊り橋の上であれば、一対一でカイエンを突破しない限りはリンカやヘイに危害を加えることはできないからだ。
真っ向からの戦いに応じてくれるのであれば、ここで追っ手の戦力を削る、あるいは撤退に追い込める可能性は十分にある。
危険な賭けではあるが、決して分の悪い賭けではない。
一瞬でそう算盤を弾くと、リンカは渋々といった様子で溜息をついた。
「ふう、分かったわ。そこまで言うならば任せるわよ。その代わり、きっちり片をつけてよね」
「おう、任せとけ」
本当に状況を理解しているのかと疑いたくなるほどに気安く、カイエンは拳を上げて応じる。
その時、カイエンが戦う姿勢を見せるのを待っていたかのように、木々の間で蠢いていた灯りが接近してきた。
松明を掲げた男達が、吊り橋の袂からほんの少しの距離を置いて立ち止まる。
睨み合うカイエンと男達。
ここに来て、逃走劇は闘争劇へと変貌しようとしていた。
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