鬼哭山の洗礼1
視界を遮る緑をガサガサとかき分け、道なき道を進みながら、カイエンはいよいよ確信を持って力強く宣言した。
「うん、迷ったな、これは」
「迷ったな、じゃないでしょ!」
そこはかとなく満足げな雰囲気すら漂わせながらの発言に、即座にツッコミが入る。もちろん突っ込んだのは、カイエンが踏み固めて開拓した道を後から付いて来ているリンカである。
丈の高い草木のせいで顔の上半分しか見えないが、ジト目と表現しても過言ではない恨みがましい視線は、間違いなくカイエンに向けられている。
そんな視線を向けられている方のカイエンはといえば、困ったように頬を掻いていた。
「そうは言ってもなあ。さっきからこの辺りをグルグルしているみたいだし、これは迷子確定だと思うぜ」
「そんなことは君に言われなくても分かってるわ。私が怒ってるのは、道に迷ったその原因よ!」
原因。
リンカの言葉の意味を咀嚼するべく、カイエンは暫し前の記憶に思いを馳せた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
順調に進んでいた歩みが止まったのは、彼等が山道を登り始めてから一刻ほど経った頃だった。
山道はかなり荒れており、数年単位で人の手が入った形跡が見当たらない。鬱蒼と茂った梢の葉が陽光を遮り、昼なお暗いという表現がしっくりくるところである。
たとえ地元民しか使わない道だとしても、いくらなんでも荒れ過ぎている。リンカが胸中で膨らみ続ける嫌な予感を弄んでいると、前を歩くカイエンが何かの気配を察知したように立ち止まった。
「どうしたの、カイエン君?」
質問されたことにすら気付いた様子もなく、カイエンは周囲へ鋭い視線を走らせる。
小さな唸り声に視線を落としてみれば、ヘイも全身の毛を逆立てて警戒している。
どうやら近くに何かいるらしい。
リンカも慌てて息を殺すと、そっと辺りを伺った。
どれほどそうしていただろうか。不意に風が吹き抜けたかと思うと樹々を揺らし、ざわざわと葉擦れを振りまいていく。
その瞬間、カイエンはすぐ傍の茂みへと飛び込んでいた。
「ええっ!?」
意表を突かれたのはリンカである。
まさかいきなり置き去りにされるとは思ってもおらず、つい呆気にとられて見送ってしまう。
そんなリンカを我に返したのは、足元で裾を引っ張る感触であった。
言わずもがな、ヘイである。
「わんっ」
「そ、そうね。とりあえず追いかけましょう」
小さく一声鳴くと、カイエンの後を追って茂みへと突入していくヘイ。
その勢いに引きずられるようにして、リンカも小さな後ろ姿に続く。
飛び込んだ先は、一言で表すならば植物の壁だった。
かなり荒れてこそいるものの、なんとか歩けないわけではなかった山道とは一線を画し、人間を拒絶するように繁茂した藪が行く手を遮る。
それでも辛うじて進むことができるのは、少し前を転がる様に走っているヘイの存在あってのことだ。
時折立ち止まり、振り返ってはリンカが付いてくることを確認し、また先へ進む。
明らかに意図して先導してくれているヘイがいなければ、あっという間に立ち往生してしまっていただろう。
そして驚くべきは、この悪路を物ともせずに駆け抜けていったカイエンである。
平地を駆け抜けるのと遜色ない速度で、あっという間にリンカの知覚範囲から消えてしまったのだ。
ヘイを頼りに辛うじて追跡できているが、こと大自然の中というのはとことんカイエン向けのフィールドであるらしい。
そんな突然の追いかけっこが始まってどれ程経っただろうか。
霊紋持ちであるリンカですら息を切らし始めた頃、始まった時と同様の唐突さで植物の壁は終わりを告げる。
ざざざざっと下草を踏みつける音を引き連れながら飛び出すと、そこは奇妙に開けた空間であった。
まるで天然の決闘場のようなその場所で、一人の人間と一頭の獣が対峙している。
人間の方はカイエンである。
白と黒の腕輪をはめた両腕をゆるりと持ち上げ、眼前の獣との間合いを測っている。
獣の方は鹿だ。
ただし、尋常の鹿ではない。
刃物のように鋭く尖った角を持つ、剣鹿と呼ばれる種類の鹿である。
興奮した様子でぶるりと角を振るわせれば、掠めた枝が半ばから斬り飛ばされて地に落ちる。
切り口を確認するまでも無く、そこいらの鈍らよりも切れ味は上であることは一目瞭然であった。
加えて、特筆すべきはその大きさだ。
つい先日、ロザン皇国は東都イタミに来襲した霊獣である雷尾。それには一歩劣るものの、一般的な剣鹿のサイズを優に二回りは上回っている。
明らかに常識の範疇を越えた体格である。
「まさかとは思うけど、これって霊獣だったりするの?」
「いや、まだそこまでじゃない。成りかけって奴だな」
意図せずリンカの口をついてでた疑問を、カイエンは目の前の敵から視線を外すことなく否定した。
精霊を宿した獣である霊獣には、大きく分けて二つのタイプがある。
雷尾のように種として精霊と共生し、生まれながらに霊獣である種類と、人間と同様に後天的に霊獣に成るものだ。
後者において、まだ霊獣には至っていないものの、通常の獣の境界を踏み越えかけている存在。それが成りかけである。
人間であれば第一階梯の霊紋持ちに該当するだろうか。
そんな成りかけである剣鹿が、カイエンに向けて突きつけるように自慢の角をかざしてきた。
敵意も露わな雄々しい立ち姿は、どこからどう見ても、刺々しい戦意に満ち溢れている。
「カイエン君、もしかして戦う気?」
「俺が、というよりあちらさんが、だけどな。相手も選ばず喧嘩を吹っ掛けてくる、成りかけにはよくいるタイプだな」
売られた喧嘩なら買ってやるとばかりに、獰猛な笑みを口元に浮かべる。
それを開戦の合図と受け取ったのか、頭を低く下げた体勢のまま、剣鹿は最初からトップスピードで突っ込んできた。
ざんっ
空気を切り裂く冷たい音が鼓膜に届く。一片の遊びも、そして躊躇も駆け引きも無く振り抜かれた角は、しかしカイエンの体を捉えることなく空を切っていた。
角が接触するその直前、カイエンは爆発的な脚力でもって地面を蹴ったかと思うと、剣鹿が角を振り上げても届かない高みまで一気に跳躍したのである。
頭上に伸びていた枝を掴むと、曲芸を思わせる身の軽さで枝の上まで体を持ち上げ、カイエンは真下の光景を観察した。
狙いを外した剣鹿の角は、周囲の藪をすっぱりと切り払った後、闘技場に生えていた立木の一本に食い込んで止まっている。
剣鹿は苛ついた様子で頭を振り回し、食い込んだ角を樹の幹から抜くと、血走った眼差しでカイエンを見上げてきた。
降りて来いと催促するかのような荒い鼻息に、我知らず苦笑が漏れる。
「元気な奴だな。よっぽど暴れ足りなかったとみえる。ま、典型的なお山の大将ってところか」
あのガタイと抜群の切れ味を誇る角があれば、天敵であるはずの狼や熊であっても撃退は容易だろう。
加えて成りかけともなれば、命のやり取りまで至るような相手と巡り合うことは稀なはず。人間風に言うならば、強敵に飢えているといったところか。
だからこそ、山を登って来たカイエンへ殺気を飛ばし、ここまで呼びつけたのだ。
「安心しろよ。今その自信を圧し折ってやるさ」
そう嘯くと、足元の枝を揺すって反動をつけ、華麗に地面へと帰還する。狙い通りの位置に着地したことを確認すると、カイエンは剣鹿の方へと向き直った。
「さあて、かかってこいよ。遠慮はいらないぞ」
くいくいと手招きするその仕草の意味が通じたかは定かではないが、カイエンの要求通り、再び剣鹿は突進を掛ける。
その瞬間、カイエンは背後に聳える一本の立木を両腕で抱え込んだ。
「ふんぬっ」
気合一閃、カイエンの全身を淡い光が包み込む。
光の正体は、カイエンの皮膚の上で踊るように揺らめく紋様だ。
これこそが霊紋。精霊を宿し、常人を超える力を発揮する霊紋持ちたる所以である。
全身に満ち溢れる霊紋の輝きを注ぎ込み、カイエンは立木を抱えた両腕に力を集中させる。
見るからにどっしりと根を張った立派な大樹であるが、力比べの相手が霊紋持ちでは分が悪かった。
ずぼっ
湿った土を撒き散らしながら、根っこごと樹木が引っこ抜ける。
そして引っこ抜くやいなや、カイエンは背後に迫った剣鹿の角に向けて、抱えた立木をぶん投げていた。
ぶおん
突進する剣鹿にそれを躱すことなどできるはずもなく、鋭利な角が立木へと突き刺さる。いきなり頭部にかかった想定外の衝撃に、剣鹿はバランスを崩して横転した。
横倒しとなった体勢をどうにか立て直そうともがいてみるものの、頭から一本丸ごと樹を生やしているとなれば、立ち上がることすら容易ではない。
そんな剣鹿のすぐ傍らへ、カイエンは余裕を持って歩み寄る。
「約束通り、おまえの自信を圧し折らせてもらうぜ、鹿」
不敵な宣言と共に放たれた手刀は、もがく剣鹿の角を側面から直撃すると、澄んだ音と共に粉々に砕いたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
回想を終えたカイエンは、納得したように鷹揚に頷いた。
「分かった。あの鹿のせいだな」
「いや、カイエン君のせいだからね?」
打てば響く速さで突っ込むリンカ。
カイエンは不満そうに唇を尖らせる。
「えー、喧嘩売って来たのはあいつの方からだぜ。殺気飛ばして挑発してきたんだからな」
「買ったのはカイエン君じゃない。まあ、放っておいたら向こうから襲い掛かって来ただろうから、戦ったこと自体についてはとやかく言わないわ。でも、何も告げずに走りだしたせいで帰り道が分からなくなったのは、どう考えてもカイエン君が原因でしょ」
ぴしゃりと指摘すると、カイエンはしばらく考え込んだ後、頭を掻いた。
「あー、そう言われればそうかもな。悪いな、巻き込んじまって」
自分に非があると感じれば、素直に認めて謝罪する。これだから憎めないのがカイエンという人物の美徳でもあり、同時に厄介な点でもある。
リンカは諦めの嘆息を吐き出すと、深呼吸して茹った頭を冷却させんと試みた。
「ふう……まあ、別に構わないわ。どのみち、ヘイ君の行く先があたしの居場所なわけだし」
「なんか最近、ますます執着がひどくなってないか? ぶっちゃけ、ちょっと不気味なんだが……」
「うるさいわね。で、これからどうするつもり?」
「どうするって、何をだ?」
質問の意図がまるで通じていないらしく、カイエンがおうむ返しに問い返す。
とはいえ、それも予想された反応だったのか、リンカは特に目くじらを立てることなく、あっさりと懸念点を口にした。
「そろそろ陽が落ちるわよ。どこかで野営できる場所を見つけないと」
「野営? 寝るならそこらへんで寝ればいいんじゃないのか?」
「カイエン君はそれでいいかもしれないけど、私は嫌だからね。朝起きたら狼に齧られてましたなんて、笑い話にもならないわ」
「はははっ、そいつは傑作だな」
「笑い話じゃないって言ってるでしょ」
腹を抱えて爆笑するカイエンの眉間に、バヂンという破裂音と共にデコピンを炸裂させる。
額を押さえて悶絶しているカイエンを視界から外すと、リンカは思案気に呟いた。
「あまり贅沢を言うつもりは無いけど……焚火ができるだけの空き地は欲しいところね……」
「わふっ!」
「おかえりっ、ヘイくーん!」
「っわん!?」
突如降臨した癒しの化身に、直前までの深刻そうな空気を即座に放棄し、リンカはだらしなく口元を緩めて抱き着いていた。
思考時間ゼロ秒。脊髄反射のなせる業である。
いきなりモフられたヘイの方はというと、唐突なハグに吃驚したらしく、大慌てでリンカの腕の中から脱出すると、未練がましく伸ばされる腕をかいくぐってカイエンの背後へと身を隠してしまった。
「ああっ、ヘイく~ん……」
「リンカも懲りないなあ。一日一回はやらかしてるんじゃないか、それ」
涙目で崩れ落ちるリンカと呆れた表情でそれを眺めるカイエン。どうもリンカは、ヘイが絡むとポンコツ化が酷くなるきらいがある。
それはともかく、カイエンは足元に身を擦りつけて来るヘイを抱え上げると、視線を合わせて質問した。
「で、どうだった?」
「わんっ、わわんっ」
「お、そうか。じゃあ頼むわ」
カイエンの言葉にこくりと頷くと、カイエンの手中から地面に降り立ったヘイは、体長の半分ほどもありそうな尻尾をふりふりを揺らしながら、おもむろに歩き出す。
カイエンとリンカは、ヘイの後を追って再び藪をかき分け始めた。
ガサゴソ
「ねえ、カイエン君」
「ん、なんだ?」
ガサゴソ
「ヘイ君はどこに向かっているのかな?」
「さっきヘイが言ってたぞ。聞いてなかったのか?」
「てへへ、実はヘイ君の愛らしさに見惚れてしまって聞き逃しちゃって」
ガサゴソ
「……あんた、ヘイが絡むと本当にダメダメだな。さっき退治した剣鹿の匂いを追ってもらったんだよ。あいつが寝床にしていた場所なら、俺達がお邪魔しても十分な広さがあるはずだからな」
ガサゴソ
「うーん、仕方ないか。もう日も暮れそうだし、今日はそこで妥協するしかないわね」
「嫌なら、一人で好きなところに行っても良いんだぞ」
「そうやって私とヘイ君を離れ離れにしようという魂胆ね。その手には乗らないわよ!」
ガサゴソ ガサゴソ
「……………………」
「なによ、その『相手するのが面倒だ』とでも言いたげな目は」
「いや、まさしくその通りなんだが――っと、着いたみたいだな」
気付けば無限に続くかと思われた藪は途切れ、一行は拓けた空間へと辿り着いていた。
剣鹿と戦った空間より、更に二回りは大きいだろう。これならば広場と呼んでも差し支えあるまい。
「へえ、想像していたよりもまともじゃない」
リンカは今日の寝床を見分しつつ、剣鹿が寝ていたのであろう広場の中央へと歩み寄る。すると、その爪先にこつんと何かがぶつかった。
拾い上げてみればそれは黒い塊で、リンカが少し力を込めると粉々に砕ける。
そして指先に残った破片の感触には覚えがあった。
「これは――焚火の燃え残り? ということは、人がいたということだけど……」
どう考えてもここは正規の登山道ではない。樵か狩人が休憩した跡かもしれないが――
「カイエン君はどう思う?」
振り返りながら問い掛ける。
するとカイエンは、掻き集めた落ち葉の中に潜り込み、寝息を立てて熟睡していた。
早い、あまりにも早すぎる。
出鼻を挫かれた格好のリンカは、一瞬イラっとして叩き起こそうかという誘惑に駆られるが、なんとか深呼吸して心を落ち着けることに成功した。
「……まあ、いいでしょう。今日のところはおとなしく寝かせてあげるわ。でも、明日はこうはいかないわよ」
誰と戦っているのか分からないリンカの宣言は、夜の山中に空しく響いたのだった。
面白いと思って頂けたら、評価・ブクマをポチってもらえると励みになります。