エピローグ
雷尾の襲撃から更に一晩明けた翌朝、カイエンは眼前に聳える「石の長城」を見上げていた。
たっぷり食って丸一日ぐっすり寝たおかげか、あるいは霊紋持ちの人知を超えた回復能力か、あれだけの激闘を繰り広げたにも関わらず、傷は体を動かすのに支障ないレベルまで癒えている。
体が動くようになったのならば、カイエンが東都に留まる理由は最早無くなっていた。
爺との約束は“世界を見て来る”ことだ。ならばまた旅に出るのも悪くはあるまい。
思い立ったら即実行をモットーとしているわけではないが、一度そうと決めれば後は身軽なカイエンのこと、準備らしい準備をするまでもなく旅支度を整えると、意気揚々と押し込まれていたリンカの隠れ家を後にする。
そして東都の出入りを担っている大門の前まで来ると、見覚えのある顔がカイエンを出迎えた。
「やあ、カイエン君。待っていたよ」
その男は東都の追捕使を束ねているガクシンであった。
トレードマークである大槌こそ背負っているが、その格好は見慣れた制服姿ではなく、カジュアルなシャツとパンツを粋に着こなした私服姿である。
カイエンの視線に気付いたのか、微笑を浮かべるとシャツを詰まんでみせる。
「傷病扱いで今日は非番なのさ。だからこうして、君を待っていられたのだけどね」
どうということも無さそうに告げるが、カイエンの記憶が正しければ、この男は雷尾によってこんがり焼かれていたはずである。それがたった一日で出歩けるまでに回復したというのだから、その回復力はカイエンに負けず劣らず人間離れしていると言えよう。
そこでふと、もう一人雷尾に焦がされていた者がいたことを思い出す。
あれは確か……
「御庭番衆のセイケツだったっけか?」
「それはきっとセイゲツ殿のことだろう。彼女なら今は大忙しだよ。何しろ匿名の通報があって、紅巾党の暗躍も霊獣の襲来も、すべてルントウ様、いやルントウが糸を引いていたというのだからね」
一瞬だけ苦い顔を作るが、すぐに元の好青年の笑みを浮かべる。
「半信半疑、いや、九割方悪質な悪戯だと思っていたのだけれど、同封されていた計画書には真に迫るものがあった。試しに裏を取ってみれば、計画書通りの物証やら証言、状況証拠がわんさか出てね。御庭番衆の権限を持って、今日付けで東都所司代は解任されたよ」
「ふーん、よく分からないがそうなのか。でも、なんでそんなことをわざわざ俺に言うんだ?」
訳が分からないといった表情で首をかしげる。するとガクシンは、目を細めてカイエンの顔色を窺うように凝視してきた。
が、腹芸の類など想像すらしたこともないカイエンに腹の探り合いを仕掛ける愚を悟ったのか、頭を振ると早々に白旗を上げる。
「ここ最近、色々なことがあったからね。理解不能なことがあれば君を疑う癖がついてしまったようだ。もしかしたら君が通報者なのではと邪推してしまったが……どうやら私の勘違いだったらしい」
ガクシンの推測は惜しい所で的を外していた。
匿名の通報とは、何を隠そうリンカの仕業だった。ヘイを巻き込んだ報いを受けさせると息巻いて、一番話が早くて融通が利かない断罪者を探した結果、セイゲツの名前が出たというわけである。
丸一日眠っている間の出来事だったため、当然カイエンがそんな事情を知るはずも無い。
雷尾と戦う直前の会話に至っては完全に記憶から抜け落ちているため、適当な相槌を打つことしか出来ず、ガクシンから見ても実に自然な受け答えとなっていた。
「ところで、これから君はどこに向かうのかな?」
「目的地かー。そういや、特に何も考えてなかったな。んー、飯が美味いところかなあ」
行き当たりばったりを余すところなく体現するカイエンの返答に、ガクシンは苦笑を漏らすと、掌に収まるほどの金属製の板を取り出した。
若干の丸みを帯びたその板には、東都の紋章と崩された文字が彫り込まれている。
達筆すぎるその文字を読み取ることができず、カイエンが疑問符を浮かべていると、その様子に気付いたガクシンが簡単に説明してくれた。
「これは東都追捕使隊長の名に於いて、君という人物が東都の平和に貢献したことを称える勲章となる。もしこれから先、訪れた街で追捕使と揉めることがあれば見せると良い。決して無下にはされない筈だ」
「ふーん、くれるって言うなら貰っておくよ。あんがとな」
「なに、東都の平和が保たれているのは、全ては君の活躍に拠るものだ。むしろ、この程度しか報いることのできない自分が恥ずかしいくらいだよ」
相変わらずどこまでも好青年である。
あまりにも真面目な態度に、カイエンも呆れたように肩をすくめた。
「以前、あんたの生き方が不自由に見えるって言ったこと、憶えてるか?」
「ん? ああ、そういえばそんなこともあったか。あそこまで真っ直ぐに指摘してくれる者は少ないのでね、いっそ心地良いくらいだったよ」
「ちょっと訂正するよ。あんたの生き方は、俺にはどうしても不自由に見える。でも、多分、下手に自由な生き方よりもずっとあんたらしいぜ」
想像もしていなかったカイエンの言葉に、驚きのあまりガクシンは目を見開くが、その内容を噛みしめると、どこか嬉しそうに微笑んだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
カイエンは東都から伸びる一本の大きな街道を進んでいた。
各地から東都へ続いている街道は数多くあるが、その全てが最終的にこの一本へと合流し、東都へと至るのだ。
逆に、東都から離れていくほどにこの街道は分岐し、一本一本は細くなっていくのである。
天気は快晴。吹き抜ける風も心地良く、絶好の旅日和と言えるだろう。
のんびりと歩を進めるカイエンを、幾台もの馬車や隊商、旅人達が追い抜き、すれ違っていく。
やがて、街道の最初の分かれ道に差し掛かった時、そこで待っていた人物にカイエンは眉をひそめた。
「リンカか? こんな所でどうしたんだ、暑気当たりか?」
「そんなわけないでしょ! カイエン君を待っていたのよ」
ピントのずれたカイエンの問い掛けに、力一杯ツッコミ返したのは、誰であろうリンカであった。
旅支度を完璧に整え、頑丈な葛籠に詰められた荷物に腰かけ、ぶらぶらと手持無沙汰に両足を揺らしている。
朝、リンカの隠れ家を出た際には姿が見当たらなかったため、別れの挨拶くらいはしておけば良かったとカイエンは思ったものだが、まさかこんな所で待ち伏せていたとは思わなかった。
「待ってた? 俺に用事があるなら、おまえの隠れ家で話をすれば良かったんじゃないか?」
心底疑問といった表情でカイエンが尋ねると、リンカは少し困ったように視線を逸らす。
「えーとね、実はカイエン君に用があるのは、私じゃなくて彼女なのよ」
「彼女?」
リンカの視線を追ってみると、街道脇に生えている巨木に向いている。この街道の分岐点ごとに植えられているらしく、遠くからでも目に付きやすいことを第一義としているためか、上背だけでなく青々と生い茂る葉が天井のように頭上を覆い、黒々とした木陰を旅人へ提供している。
その木陰がふと揺らめいたかと思うと、黒々とした影が盛り上がり、その中から巨獣が姿を現した。言うまでもなく、先日イタミを襲撃した雷尾である。
こちらはさすがに完治とは行かずダメージがまだ残っているようだが、その瞳には先日の怒りに濁った色はすでになく、カイエンのよく知る野生動物特有の澄んだものであった。
「よう、あんたか。確かに、あんたが俺に用事だっていうなら、街の外で待ち伏せするしかないよな」
「がうう」
十年来の友人と出会ったかのように気楽に話しかけると、雷尾は少しかしこまった雰囲気で頷いた。
「で、待っている間に騒ぎにならないように、リンカに頼んで影に隠れていた、と。あんたもあんたで律儀な性格してるな。あ、いや、こっちの話だ。気にすんな」
「うぅー、がうっ!」
先程別れたばかりのガクシンの姿が一瞬ダブって見えるが、どちらとも面識があるのはこの場ではカイエンだけだ。
ぱたぱたと手を振ることで何かを尋ねて来たらしい雷尾への答えとすると、改めて本題を切り出す。
「わざわざ俺を待っていたって話だけど、用件を教えてもらってもいいか」
「ぐるぅ……」
なにやら困ったような唸り声を上げる。すると、その足元から二頭の毛玉が転がる様に飛び出して来た。
「おっ、ヘイか。無事に母ちゃんに会えて良かったな。そっちはお前の兄弟か。元気みたいで良かったな」
「わふっ!」
カイエンが声を弾ませる。東都での戦いは、カイエンにとってはヘイのためだったと言っても過言ではない。自分の努力が無駄ではなかったことを実感できるのは、カイエンにとっても間違いなく嬉しい出来事なのだ。
二頭を抱え上げて語り掛けると、リンカは目を丸くする。
「え、もしかしてカイエン君、見分けがつくの?」
「何言ってるんだよ、全然違うだろ。ヘイの方が歯並び良いじゃん。でも、尻尾はお前さんの方がしゅっとしてるな。将来、美人さんになるぞ」
どうやらカイエンにとっては、いまだに爪や牙、尻尾があった方が、見分けがつきやすいらしい。
ともあれ、ひとしきり再会を喜び合った後、カイエンはこてんと首をかしげた。
「でも、なんでまだこんな所にいるんだ? てっきり、母ちゃんと一緒に山に帰ったとばかり思ってたんだが」
「わふっ、わふっ!」
「えっ!? 俺に付いて行く? 本気か!?」
ヘイの返答に、カイエンは思わず目を丸くしていた。思わず声が裏返るが、周りを見てみれば驚いているのは自分だけだ。どうやら思いつきで言い出したわけではないらしい。
「あんたもそれで良いのか? ヘイ達を連れ帰るために、わざわざイタミまで出て来たんだろ?」
「ぐるるぅ」
「可愛い子には旅をさせよって、こりゃまた、随分と器が大きいことで」
感心と呆れがないまぜになった口調でカイエンは呟く。その呟きをどう受け取ったのかは不明だが、雷尾はそれだけ告げるとくるりと背を向けた。
カイエンの頭にしがみついている我が子を一瞥するが、すぐに視線を切ったかと思うと、尻尾を器用に使ってもう一頭を背中の上に掬い上げる。
最後に優しく鼻を鳴らすと、今度こそ後ろを振り返ることなく駆け出した。
怪我をしているとはとても信じられない速度で、木立の奥に消えていく後ろ姿が完全に見えなくなった頃、カイエンはヘイを地面に降ろすと再び街道を歩きだす。
が、五十歩ほど進んで街道の分岐点まで達したところで立ち止まる。
振り返ってみれば、葛籠を背負ったリンカがヘイの隣に並び、にこにこと笑顔で付いて来ていた。
「もしかして、あんたも俺と一緒に来る気か?」
「カイエン君、それは自意識過剰というものよ」
「お、おう。なんだ、そのナントカかじょーって」
びしりと鼻先に突きつけられた指先にたじろいでいると、リンカはにこりと微笑んでみせた。
「私はヘイ君に付いて行くのよ。まあ、そのヘイ君はカイエン君に付いて行くつもりみたいだけれど」
それはつまり、カイエンの旅に同行するという意味ではなかろうか。常識人ならばそんなツッコミを入れているところなのだが、生憎とカイエンにはその手の能力が著しく欠如していた。
「ふーん、そうなのか。まあ、それならそれで好きにすればいいよ」
「そうそう、そんな訳だからお構いなく。あ、ところでこれからどこへ向かうのかしら?」
お構いなくと言いながら早速詮索してくるリンカに対し、カイエンはあっけらかんとした口調で言い放った。
「さあ?」
「さあって……要するに、行き先は決まっていないというわけね。世界を見て回るという君の目的からすれば、ロザン皇国内なら央都か南都辺りかしら。思い切って外国に出るなら、ここから一番近いのは教国になるけど――」
「なら、全部見て回ろうぜ。別に急ぐ旅でもないし、俺にとっちゃどこも同じ未知の場所だ。ひとまず、その央都ってのを目指すってことで」
「わんっ!」
方針と呼ぶにも大雑把に過ぎるカイエンの言葉だが、ヘイは楽しそうに賛同の吠え声を上げ、リンカもやれやれと肩をすくめつつ、旅立ち特有の高揚感を秘めた表情で頷く。
こうして彼等は歩き出す。
旅は道連れ世は情け。袖振り合うも多少の縁。縁あって集ったこの者達が、果たして如何なる道を歩むのか。
それを知る者がいるとすれば、それは運命の精霊くらいのものだろう。
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