東都の一番長い夜3
ゆっくりと意識が浮かび上がり、亀の歩みのような速度で瞼が持ち上がる。
月光に照らされ、揺蕩うような心持ちのまま顔を持ち上げかけ……全身を貫く激痛に瞬時に意識が覚醒した。
「が、はっ!」
痛みで咳き込んでしまったために呼吸が乱れ、それを抑え込もうと身をよじった結果、追加の激痛が神経を焼く。
そんな有様でありながらも、東都の追捕使の頂点に立つガクシンは、目覚めと同時に失神直前の記憶を取り戻していた。
突如東都を襲った謎の霊獣。それを追い返すために御庭番衆のセイゲツと手を組み、霊獣に立ち向かった。だが、霊獣の切り札と目される攻撃を食らい、ガクシンは気絶してしまったのだ。
ではその霊獣はどうなったのという疑問が脳裏をよぎり、指一本動かすことすら億劫な身体に鞭を打って首を持ち上げる。
そうしてまず目に入って来たのは、少し離れた場所に倒れ伏したセイゲツの姿だった。
胸部が規則的に上下していることから息はあるようだが、ガクシン同様に霊獣に敗れたのは間違いあるまい。
それはつまり、霊獣の侵攻を止める者が誰もいないことを意味していた。
「せめて避難指示だけでも出さねば……」
ボロボロの手足を限界まで酷使し、気絶していた間も握り締めていた大槌を杖代わりに立ち上がる。
と、その時である。微かな風切り音を伴って、ガクシンの視界の端に巨大な影が落下した。
影は立ち並ぶ倉庫の一画に突っ込むと、倉庫の屋根と外壁を豆腐かなにかのように容易く押し潰し、一瞬でそこを倉庫跡地へと変貌せしめた。
何事かとガクシンが目を細める中、崩れ落ちた瓦礫の中から倉庫をおしゃかにした原因がぬっと顔を覗かせる。
「霊獣……」
月明かりに照らされ、その姿が露わになる。それは間違いなく、ついさっきまでガクシンが戦っていた霊獣であった。
そこでふと気付く。
今、この霊獣は吹き飛ばされてきたようには見えなかったか。
もしそれが事実なのだとすれば、第二階梯の霊紋持ち二人掛かりでも止められなかった化け物を、文字通り押し返してみせた何者かが存在するということだ。
ではどこの誰がそれを成したというのか?
そんなガクシンの疑問に答えるように、新たな人影が空から降って来たかと思うと、霊獣の目の鼻の先に着地を決める。全身をしなやかに使って衝撃を吸収し、緩慢とも取れる動きで構えを取ったその人物が何者か、ガクシンには最初分からなかった。
夜間のため、照明代わりになるものが月明かりくらいしかなかったこともある。その人物がガクシンの方に背を向けており、顔が確認できなかったことも理由として挙げられるだろう。
だが、そんな理屈など些細と切り捨てるしかない圧倒的な原因が、そこには君臨していた。
簡単な話である。その人影が、到底人間には見えなかったからだ。
手足があり、胴体があり、頭部がある。二足で立ち、その身長は二メテルには届くまい。
つまりは間違いなく人間の姿をしているのだが、ガクシンの目には人間には存在しないはずの部位が確かに幻視されていた。
その部位とは頭部から伸びる一本の角だ。
現実としてその人物に角は無い。だが、そんな理屈など笑い飛ばすかのように、ガクシンの五感、あるいは霊紋持ちとしての第六感が、そこに角があるのだと叫んでやまないのである。
伝承の中にのみ存在するその姿。気付けばガクシンは無意識にその名前を舌に乗せていた。
他者に、世界に、何よりも己自身に怒り続ける破壊の化身。その名は――
「……【鬼神】」
聞こえたはずもないその呟きに応えるかのように、鬼神、いや己に宿る精霊を解き放ったカイエンは、物理的衝撃すら伴う咆哮を撒き散らした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
霊紋持ちが宿す精霊にはいくつかの種類がある。
例えば元素霊、水や雷のように現象そのものの精霊を指す。
或いは付喪霊、長い時を経た器物や特別製の道具の化身とされる精霊である。
そしてカイエンに宿っている【鬼神】、すなわち鬼霊は幻想霊と呼ばれていた。
神話や伝承、口伝によって形作られた人間達の想像力が生み出した精霊と考えられているが、ある学説によれば神話伝承で語られる存在そのものであるともされ、時に卵が先か鶏が先かという議論にも発展する。
そんな幻想霊であるが、これを宿す霊紋持ちにお目に掛かることは滅多にない。
その最大の理由が自我の侵食だ。
人間的な意味での自我が極端に薄い精霊達の中にあって、幻想霊だけは例外的に対話すら可能な意識を持っていた。
そんな精霊が宿るということは、自身の中に別の魂が同居することを意味する。そのためか、幻想霊を宿した者の精神は精霊の影響を受け続けることにより、遅かれ早かれ崩壊して人間としての形を失ってしまうのである。
カイエンも今、雷尾と戦いながら、鬼霊のもたらす自我の侵食にも同時に抗っていた。
「があぁっっ!!」
喉奥から絞り出された自分のものとは思えない雄叫びに突き動かされるように、カイエンは二十メテルあった間合いを一呼吸で踏破すると、足、腰、背中と全身を連動させてショートアッパーのように拳を振り上げる。
対する雷尾も真上から叩き付けるように爪を振るい、中間地点で激突する。
拮抗は一瞬。押し勝ったのは、信じられないことにカイエンの方だった。
ガクシンの大槌とすら互した雷尾の攻撃を、力任せに弾き飛ばす。勢いを殺せず転倒する雷尾の頭上から、一切の躊躇が無い踵落としが振り抜かれるが、雷尾はぎりぎりで身を捻るとこれを回避し、素早く起き上がると距離を取った。
そんな雷尾の行動を、カイエンは追撃をかけることなく見逃した。
その不合理な行動は、決して警戒や戦略からくるものではない。いわば、カイエンが自我の侵食に抗っている副産物であった。
幻想霊持ちの第二階梯は、霊紋持ち自身が幻想霊の能力を自在に振るうことを可能とする。それは幻想霊にまつわる伝承を再現できるという強力な能力であるが、その分だけ自我の侵食が激しくなるという諸刃の剣でもあった。
そして【鬼神】とは闘いそのものの具現だ。決して消えることの無い怒りの炎に突き動かされ、ありとあらゆるものを打ち壊し、叩き潰し、引き千切ると伝えられている。
当然、鬼霊を宿すカイエンの意識もそれに引きずられ、目の前の霊獣を破壊し尽したいという衝動にさいなまれていた。しかし、雷尾がヘイの母親であるならば、それを殺すという選択肢はありえない。
雷尾に対抗するには鬼霊の力を解放する必要があり、解放しすぎれば破壊衝動に自我を持って行かれる。一歩踏み外せば必ずどちらかが死ぬ綱渡り。カイエンは先程から、紙一重のバランスでもって、渡り切るには細すぎる綱の上で曲芸じみた戦いを続けているのである。
「さあて、そろそろ十分経つ頃か。とっとと戻って来てくれよ」
意識を保つため、あえて思っていることを逐一言語化する。カイエンの習得している自我の侵食に対抗する技術の中でも、簡単で効果の高い方法である。
ただしそれでも、カイエンという存在の砂時計の砂が、ぐんぐんと減っていくのが実感できる。
ちなみに修業時代では、第二階梯を維持し続けられたのは最長でも十五分だった。
今日は最長記録を更新することになりそうだ。
カイエンがそんな胸中を言語化しようとした瞬間、雷尾が全身から雷を放出し始める。
どうやら相手も退く気は無いらしい。
更なる闘争の予感に、全身を満たす鬼の気配が濃密さを増す。体中に横溢する活力と魂を削り取らんとする苦痛。それら二つに同時に晒されながら、カイエンは苦笑を浮かべると緩く握った拳を持ち上げた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ヘイ君!」
隠れ家に戻ってきたリンカが勢いよく扉を開け放つと、ばたばたとした足音で目を覚ましていたヘイが、目を丸くして見つめ返して来た。
あまりの愛らしさに頬擦りしかけるが、辛うじて残っていた理性がそれを食い止め、リンカは真剣な表情で語り掛けた。
「これから君の兄弟を助けに行くわよ。そうしないとカイエン君が危ないわ」
「わをん」
唐突に過ぎる台詞だったが、リンカの慌てぶりから緊急事態ということを感じ取ったのか、ヘイは神妙な顔で頷き小さく吠える。
その様は、まるでヘイが「すぐに行こう」と促しているように聞こえる。いや、実際にそう言っていることがリンカにも理解できた。
幼体とはいえヘイも霊獣である。その知能は人間のそれと比較しても決して劣るものではない。そして先天的に雷の精霊を宿している雷尾は、己の意志を電波に乗せて飛ばすことを可能としていた。
距離の制限や受信側との相性もあるが、言語を介さずに相手の脳へ直接に意思を伝えるこの方法であれば、人間であるカイエンやリンカともコミュニケーションが可能となる。
ともあれ、リンカが抱き抱えればヘイは腕の中で大人しくなる。
それを確認すると、リンカは全速力で目的地に向かって移動を開始した。
荒事が苦手とは言いながらも、そこはリンカも霊紋持ちである。建物や運河を軽々跳び越え、大型の宿が立ち並ぶ目抜き通りへと直行する。
その一画、カイエンに告げられた宿の前に降り立つと、ちょうど中から物々しい格好をした男達が出てくるところだった。遠目からでも、彼等が一様に赤い布を額に巻いていることが見て取れる。
言わずもがな、紅巾党である。
まるで雷尾の襲撃を察知して行動を開始したかのようなタイミングだが、種を明かせばなんということはない。港で襲撃に遭った交易船の乗組員の中に、紅巾党のメンバーが潜んでいただけの話だ。
交易都市である東都に潜入するにあたり、彼等は交易船で密航するという手段を取っていた。そして密航を確実に成功させるため、幾人かが交易船の乗組員として雇われていたのだ。
雷尾の襲撃により避難させられた乗組員達の中にも当然のように紅巾党が紛れ込んでおり、そこから雷尾襲来の情報を得ると、急いで東都を脱出するべく行動を開始していたのである。
入手した情報をいち早く活用しているとも評価できる彼等であったが、その結末は残念なことにリンカと遭遇するというものだった。
「なんだ、おま――」
誰何の声を上げることすら許されず、顔面を陥没させた先頭の男が崩れ落ちる。
霊紋持ちの身体能力を持ってすれば、油断している相手を一撃でKOするなど容易いものだ。
突然の奇襲に対応できない残りの連中も、リンカのテレフォンパンチの前に続々と沈んでいく。
あっさりと無力化を完了させると、リンカは全身を影で覆い隠して宿の中へと踏み込んだ。
どうやら宿中が紅巾党の拠点と化していたらしく、次から次へと赤布を巻いた連中が姿を見せるが、隠密を得意とするリンカに気付く者は誰一人としておらず、悠々と目的の部屋番号の扉まで到達した。
「さあヘイ君、乗り込むわよ!」
「わふっ!」
小声で突入を告げると、辛うじてリンカにだけ聞き取れるほどの大きさで鳴き返す。
掛かっていた鍵を力任せに破壊すると、リンカは素早く扉の内側へ体を滑り込ませた。
中は一見すると物置のようで、人の気配は感じられない。それでも油断なくリンカが辺りを伺っていると、抱き抱えていたヘイがもぞもぞと暴れ出した。
「どうしたの、ヘイ君?」
「わふっ、わふっ」
腕の中から飛び出すと、部屋の奥へと小走りに駆けていく。慌てて後を追ったリンカが目にしたのは、手足と首を頑丈な鉄の鎖で縛められ、駄目押しとばかりに狭苦しい檻の中へ押し込められた、ヘイと瓜二つの仔犬――いや、雷尾の幼体の姿だった。
おそらくは満足に餌も飲み物も与えられていなかったのだろう。その毛並みからは艶が失われ、見るからにぐったりとした様子である。
「ひどい……」
見るに堪えない有様に、思わず絶句してしまう。
ヘイはそんな兄弟の傍らまでとことこと歩み寄ると、その身を案じるかのようにくぅんと鳴いた。
その鳴き声で意識が戻ったのか、微かに目を開けると、兄弟の姿を確認して安心したようにか細い声で鳴き返す。が、体力が尽きたのかすぐに目を閉じてしまった。
「待っててね、すぐ出してあげるから」
幸いなことに、檻も鎖もすぐ傍に鍵が放置されていたため解錠は容易い。
丁寧に檻の中から拾い上げると、リンカは部屋の片隅に積み上げてあった毛布で二頭を包んで抱き抱えた。
本当ならばゆっくり休ませてやりたいところなのだが、今この瞬間ばかりは時間が勝負なので耐えてもらうしかない。
「少しだけ我慢していてね。すぐお母さんに会わせてあげるわ」
「おおっと、そいつはさすがに見逃せないねえ」
下卑た声が耳を打つ。咄嗟に振り向きかけるが、背後から首元に突きつけられた刃物の感触に動きを止めざるをえない。
リンカが身を竦ませると、背後の人物は己の優位を確信した声音で得意げに言い放った。
「その犬っころを移動させようと来てみれば、まさかこのタイミングで紅巾党に手を出してくる馬鹿がいるとは。おまけに、どれだけ探しても見つからなかったもう一匹を連れて来てくれるなんて、気前が良いにもほどがあるぜ、あんた」
「あらそう。じゃあ、気前ついでに忠告してあげるわ。私が一人でここまで乗り込んできたと思っているのなら大間違いよ。今剣を引けば見逃してあげるけど?」
リンカの台詞に、その紅巾党員は面白いジョークを聞いたとばかりに引き攣った笑い声をあげる。
「くひひひっ。おいおい、ハッタリかますならもうちょっと知恵を絞ってくれよ。もし護衛がいるなら、こんな簡単にあんたの背後を取らせてもらえるわけがないだろうが」
「信じる信じないはそちらの勝手よ。まあ、嘘だと思うならあなたの真上を見てみることね」
「真上だぁ?」
こんな狭い部屋の中で真上を見ても天井しかあるまい。そう思いながらちらりと上方へ視線を向けた紅巾党員の目に映ったのは、天井付近にわだかまる黒々としたナニカであった。
「んなっ!?」
「さて、あなたは生き残れるかしらね?」
リンカの声が冷たく響いた瞬間、そのナニカから手足のようなものが生えたかと思うと、タコやイカの触腕のような不規則な動きを見せ、紅巾党員に向かって鋭く突き出された。
「くそっ!」
毒づきながらも後ろに跳び退き、咄嗟に剣を振るう。振るわれた剣は黒々とした手足と接触し――切り捨てることも弾き返されることも無くただすり抜けた。
「馬鹿なっ!?」
驚いている暇も無く、ナニカの手足が紅巾党員の顔へと叩き付けられる。思わず彼は目をつぶり……きっかり十秒後、想像していた衝撃が襲ってこないことに気付いてこっそりと目を開けた。
気付けば部屋の中には彼一人だけが立っており、彼に襲い掛かって来た謎の影も、彼が追い詰めていたはずの侵入者も、幻のように消え失せている。
天井から襲ってきたように見えたナニカが、まさかリンカの霊紋によって操られていたただの影だとは知る由も無く、彼にできたのは狐か狸に化かされたかのように、ぽかんと呆けることだけだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
雷尾の幼体二頭を抱えたリンカが現場に到着した時、待ち受けていたのは想像の埒外としか言いようのない光景だった。
「だらぁっっ!!」
「がうっ!!」
地面すれすれまで頭を下げ、真横に大きく開いた咢で相手を一呑みにせんとする雷尾。間近に迫る必殺の喰い千切りを、上顎を左手、下顎を右手で抑えることで受け止めるカイエン。
雷尾の全身からは絶え間なく雷撃が迸り、がっぷり四つに組み合っているカイエンの全身を焼いているはずなのだが、当のカイエンは痛みを感じる素振りも見せずに両手を逆時計回りに九十度回転させた。
「!?」
九十度+九十度=百八十度。強引に捻られた頭部の後を追うように雷尾の巨体がバランスを崩し、天地逆さまとなって倒れ伏す。
驚きのあまり目を白黒とさせる雷尾の横っ面に、真横から振り抜く軌道でカイエンの蹴りが炸裂すると、カイエンの背丈を軽々と上回る雷尾の巨体は軽々と空を駆け、東都の代名詞ともいえる「石の長城」へと激突した。
ばぢゃん
生物がぶつかった時特有の重く湿った音が響き渡り、壁にもたれるようにして雷尾が地面へとずり落ちる。
頭を振りながら立ち上がりはしたものの、脳が揺れたらしく足元が覚束ない。
そこへ畳みかけるべく、カイエンは両脚に力を込めると跳躍した。霊紋の力を乗せた踏切は、助走無しにも関わらず二十メテルはある両者の距離を瞬く間に跳び越える。
その勢いすらも乗せて、カイエンは空中で拳を振りかぶった。これを脳天に打ち下ろせば、長く激しいこの戦いにも決着が付くだろう。
だが、雷尾の眼はまだ死んでいない。そのためにも、揺れる視界をどうにかせんと取った選択は、なんとカイエンへ背を向けることだった。
背後から飛び掛かってくるカイエンの存在など思考から抜け落ちたかのように、雷尾は大きく頭を反らすと、次いで真っ直ぐに振り下ろす。
その先にあるのは、当然ながら「石の長城」だ。雷尾がかましたのは、要するに頭突きである。
雷尾ほどの霊獣が全力で頭突きをすればどうなるのか。その威力は推して知るべし。
破壊不能と称される石壁に放射状の罅が走り、突き抜けた衝撃が抉られた長城を激しく揺るがせる。
そして、揺れた脳を逆方向に揺らし返すことでふらつきを抑え込んだ雷尾は、頭突きで切った傷口から溢れた血で片目を塞がれながらも、残ったもう片方の目でカイエンの挙動をしかと捉えることに成功していた。
その瞳がギラリと輝いたかと思うと、雷尾は全身全霊を込めて尻尾を振り抜く。
強靭さとしなやかさを併せ持った雷尾の尻尾は、爪や牙と並ぶ――あるいはそれ以上の威力を秘めた強力な武器でもある。
威嚇の時とは比べ物にならない速度で振るわれたその一撃に対し、カイエンができたのは辛うじてガードを差し挟むことだけだった。
「う、お、おぉ――!!」
真横から真上へ。ベクトルが力尽くで捻じ曲げられる。
常人ならばあまりのGで内臓が飛び出していたことだろう。霊紋持ちとて無事とは言えず、軽々と「石の長城」の上まで跳ね上げられたカイエンは、石壁の上に築かれた通路に落下すると、その場に血反吐を吐き出した。
それでもすぐさま立ち上がる。ガードに回した左腕は肩から外れていた。応急処置的に押し込んでおくが、この戦いの間はもう使えまい。
残った右腕だけで構えを取ると、それを見越していたかのようなタイミングで雷尾が壁の上へと這い上がって来た。
互いに互いの間合いの内で向かい合う。ともに満身創痍。次の一撃を入れた方が勝つ。
直感的にそれを理解し、両者は最後の激突に向けて霊紋を振り絞る。
息を飲む音すら憚られるほどの静寂。あれだけの激闘の果てにあるとは思えないほどの静けさが両者を包み込んでいる。
そんな動の中の静を打ち破ったのは、地平線から差し込んだ一筋の朝日だった。
長い長い夜に終わりを告げる陽光に触発されるように、全身を弓の如く引き絞った雷尾が突進する。片目が塞がれているため細かい狙いをつけることができず、全身に稲妻を纏っての体当たりである。とはいえ、その突撃は到底片手で凌ぎきれるものではなく、狭い壁の上では身を隠す場所も無い。
ゆえに、カイエンが選んだのは回避でも防御でもなく迎撃だった。
「九鬼顕獄拳、阿修羅の型・震」
とん、と足元を踏みつける軽い音が耳を打つ。霊紋持ちが全力で踏み込んだ音にしては小さ過ぎる。音が小さいということは、衝撃がより深くまで浸透したという意味だ。
びきっ、ばがんっっ
連鎖するように不吉な音が響き渡った次の瞬間、雷尾の頭突きによって先程刻まれた罅の箇所が突如として崩壊した。
崩壊は即座に拡大し、あっという間に東都の誇る「石の長城」の一角が崩れ去る。
そして足場の崩壊は、雷尾の突進に水を差すには十分すぎる楔となった。
最後の一歩を刻むべく踏み込んだ四足が宙を掻く。転倒こそ免れたものの、慌てて体勢を立て直そうとするその隙に、カイエンは拳の間合いへと侵入していた。
「九鬼顕獄拳、阿修羅の型・極」
掌底を形作る拳、それを支えるカイエンの右腕が突如として肥大化する。
赤黒く引き締まった肌、刃物と見紛うばかりの鋭く尖った爪、太さに至っては小柄な人間の胴体ほどもあろうか。
これこそがカイエンの切り札である。宿している精霊を、霊紋持ち本人の肉体を使って顕現させる。鬼の力を模倣した九鬼顕獄拳の最果ての一つ。
霊像のような精霊の影ではない。触れることが可能な、実体としての鬼の腕だ。
破ッ!!
地鳴りのような轟音を引き連れて、鬼の腕が振り抜かれる。
咄嗟に展開された雷の鎧すら紙の如く引き裂いて、破壊を司る腕が雷尾の胴体へと突き刺さった。
威力が余すところなく浸透した感触。一拍置いて、思い出したかのように雷尾の身体が撥ね飛ばされる。
流星のように雷の尾を引きながら、霊獣は東都の外に広がる木立の中へと落下した。
樹々を巻き込み地面を抉り、その巨体が一筋の破壊痕を刻んでいく。
もうもうと巻き上がった土煙がおさまった時、雷尾はぐるりと白目を剥いて気を失っていた。
その様を長城の上から見下ろして、カイエンは勝利の雄叫びを上げるのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
誰もが一晩の騒動が決着したと感じる中、それに逆行するように動く者があった。
カイエンである。
血走った目で雷尾を睨め付けると、長城の上から飛び降り、一歩また一歩と歩み寄っていく。
何をするつもりかと目を凝らせば、カイエンはいまだ鬼の腕に変じたままの右腕をゆっくりと持ち上げていった。
鬼にとっての闘いの終わりとは、どちらかの死によってしかありえない。要するに、雷尾にとどめを刺すつもりなのだ。
とうとう雷尾の目の前まで到達すると、カイエンは噛み締めるように拳を握り込み――
「待ちなさい、カイエン君!」
耳に届いた絹を裂くような声に、今まさに振り下ろさんとしていた拳が停止する。
肝心なところを邪魔されて苛立つ様子も露わに、カイエンは声の方へと振り返った。
朝靄の中、そこに立っていたのはリンカだった。ヘイとその兄弟も、毛布にくるまれたまま、しっかと抱き抱えられている。
リンカは眉を吊り上げると、滅多打ちにするように叱りつけた。
「カイエン君、もう勝負はついたでしょ! これ以上ヘイ君達のお母さんを傷つけたりしたら、絶対に許さないわよ!」
「がぁ、うぁ……」
普段ならば適当に聞き流している叱責の声に、【鬼神】に意識の殆どを持って行かれているカイエンは、暴力によって返答せんとする。
雷尾に向けていた拳が向きを変え、目障りな女と小動物を叩き潰すために振るわれる。
だが、躱そうともしないリンカの眼前数セテルで、圧倒的な暴威を示すはずの右腕はぴたりと停止してしまった。
「ヴぁ……!?」
何が起きたのか理解できない様子のカイエン、いや【鬼神】。しかし、向かい合うリンカとヘイには、その理由など尋ねるまでも無く分かりきっている。
僅かに残ったカイエンの意識が、最後の最後で鬼に抗っているのだ。
「カイエン君、いつまでも寄生している鬼ごときにいいようにされてるんじゃないわよ。ヘイ君をお母さんに会わせてあげるんでしょ?」
語り掛けながら歩み寄れば、【鬼神】は怯えたように後退る。しかし、リンカは更に踏み込んで【鬼神】の傍らに立つと、ヘイを両手で抱え持って差し出した。
差し出されたヘイは躊躇なく【鬼神】の肩に飛び乗ると、その頬をぺろりと舐め上げる。
たったそれだけのことだったが、カイエンと【鬼神】の綱引きを逆転させるには十分な一押しだった。
突き出されていた鬼の腕がみるみる間に元のサイズに戻り、表情の半分は【鬼神】のまま、しかし残りの半分は間違いなくカイエンのそれとなる。
カイエンは重たげに頬を緩めると、半分しか自由にならない顔に苦笑を浮かべてみせた。
「よう……迷惑を掛けたみたいだな……」
「まったくよ。ヘイ君のためじゃなければ、絶対に御免だからね」
「相変わらずだな、リンカは……っと、預けていた腕輪があるだろ……あれ、はめてくれないか?」
「ん、構わないわよ」
リンカは軽く頷くと、別れる際に預かっていた白と黒の腕輪をカイエンの腕に通す。
その途端、カイエンからいまだに漏れ出ていた鬼の気配がすっと遠ざかったかと思うと、【鬼神】が残っていた残り半分の表情にもカイエンが帰還した。
「さて、これでいいのかしら――って、うわわわっ」
リンカが驚いたのは、不意にカイエンが身体を預けてきたためだ。
突然の行動に文句を言ってやろうとリンカはカイエンの顔を覗き込み――小さな寝息を立てているのを見て取ると、仕方ないなあとでも言いたげに口元を緩める。
「お疲れさま。これは貸しにはしないでおいてあげるわ」
祝福するように降り注ぐ朝日の中、リンカの呟きは宙に溶けていった。
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