因果はもつれ、絡み合う1
リンカが出て行ってから五分後。カイエンは早くも留守番に飽きていた。
「暇だ……ちょっくら散歩でもしてくるか」
「うぉん?」
何気ないカイエンの呟きに、丸くなって眠っていたヘイがピクリと反応した。片目だけ開けると、何かを尋ねるかのように一声鳴く。
が、すぐに瞼を閉じて再び寝入ってしまった。リンカに半日モフられていたため、相当にお疲れらしい。まだ仔犬であるヘイにとって、眠りというものは抗いがたい誘惑を秘めているのだ。
カイエンは苦笑すると、ヘイの頭を軽く撫で、物音で起こさぬようになるべく足音を抑えながら隠し部屋を抜け出した。
ゆっくり静かに階段を昇ると、あばら家の床板に偽装している出入り口を僅かに持ち上げ、周囲に人影が無いことを確認してから素早く地上へ。
辺りは既に陽が落ちて久しい。ひんやりした夜風が頬を撫でていく感触に、カイエンは目を細める。
このままブラつくのも良いが、こういう夜は星空を見ながらうろつくというのも風情があって良い。よし、そうしようと心に決めるやいなや、カイエンは霊紋による超人的な身体能力を発揮すると、猫か猿のように高々と跳躍し、一息にあばら家の屋根の上へと降り立った。
周りを建物で囲われた街の中では、下手にごみごみとした地上を歩くよりも、こちらの方が間違いなく見通しが良い。案の定、天を仰いでみれば満点の星空がカイエンを出迎えてくれた。
これだけは長年育ったあの山と変わることのない夜空を、吸い込まれそうな気分で眺めていると、押し殺したような小さな足音がカイエンの耳に届いた。
こんな夜更けに誰か出歩いているのだろうか?
東都の中でも、歓楽街の方はいまだに煌々とした灯りが灯っているようだが、貧民街はその類の喧騒とは無縁である。
必然、わざわざこんな場所まで足を延ばす者もまずいない。疑問に思ったカイエンは、狩りをする時の要領で息を殺すと、足音を抑えて屋根の上を移動し始めた。
一般人では心許ない暗闇でも、山育ちのカイエンにとっては、月と星の灯りが出てさえいれば視界には不自由しない。全神経を集中して耳を澄まし、先程拾った足音を追跡する。
どうやら相手も、かなりゆっくりと移動しているらしく、さほど苦労することなく足音の主に追いつくと、カイエンは屋根の上からその姿を覗き込んだ。
そこにいたのは一人の追捕使だった。
平隊員の制服を着込み、片手には安物の提灯を持っている。
仄かに浮かび上がったその顔を見た瞬間、カイエンは砂の塊でも口にしたかのように顔をしかめた。
その追捕使の顔が、どこかで見たような気がしたためである。カイエンが東都にやって来てからまだそれほど日は経っていないが、ガクシンを始めとして追捕使と接する機会は何度もあった。その時に見掛けたのだろうか……?
いくら唸ってみても答えが出ず、仕方なくカイエンは、どうにもすっきりしない心境のまま追跡を続けることにした。
その追捕使は随分と警戒した様子で、前後左右に細心の注意を配りながら歩いていたが、まさか頭上という第五の方向から見張られているとは思いもよらなかったらしく、一度として上を見上げることなく目的地らしき場所で足を止めた。
そこは一般市街と貧民街のちょうど真ん中に建っているような立地で、何らかの店舗らしき建物だった。カイエンには想像の埒外ではあるが、客商売としては致命的に立地が悪い。
わざわざ貧民街に足を伸ばすような真似は、東都の住民であればまずしないためだ。
それはつまり、明確な目的を持った者以外は訪れることのない場所、という意味でもある。
カイエンは腐って脆くなっていた屋根の一部を強引に引き剥がすと、するりと屋根裏に忍び込んだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「うん? 今、何か物音がしたような……?」
「おい、こちらの話を聞いているのか!」
天井の方からガタゴトという音が聞こえた気がして、ふとそちらを見上げた女だったが、目の前で不機嫌そうに怒鳴り散らされ、渋々そちらへ向き直った。
彼女の目の前でふんぞり返っていたのは、平隊員の制服に身を包んだ追捕使であった。額に青筋を浮かべ、己と女の間に挟まっている机を殴りつけながら、噛み付くように喚いている。
街中で見かけたならば殴るか無視するかの二択で済むのだが、残念ながらこんな輩でもクライアントとの連絡要員であるため、せめて上辺だけでも敬意を持って付き合う必要があるのが心底残念でならない。
彼女は気付かれぬよう嘆息すると、かぶり慣れてしまった笑顔の仮面を着け直した。
「ええ。もちろん聞こえていますよ、ミスター。しかし、夜ももう遅い。あまり大きな声を出されては、いつどこで聞きつけられないとも限りません。安普請のせいでご迷惑をおかけしますが、もう少し落ち着いていただけますか」
こういう時、頭ごなしに相手を否定するのは簡単だが、それでは余計な怒りを買うだけとなる。肝要なのは、自分が味方であると認識させ、自発的に行動を変えさせることだ。そのための手段として、下手に出るというのは費用対効果の面から言って最上だった。
なにせ、ちょっと頭を下げてやるだけで、相手が勝手にこちらの都合のいいように振る舞ってくれるのだ。
こういった馬鹿を掌の上で転がす事こそ、この仕事の一番の醍醐味であると、彼女――紅巾党が東都に潜伏させている、諜報員兼連絡員の女は感じていた。
紅い髪留めでくくられた長髪を色っぽく流し、しなを作りながら身を寄せるようにして囁く。
案の定、妖艶に微笑まれた追捕使の男は一瞬だけ鼻の下を伸ばすと、それ以上怒鳴ることなく椅子に深々と背を預けた。
「まあいい。それよりも貴様達は、いつまで仔犬一匹程度に時間をかけているのだ。あの方は寛容だが、これ以上の計画の遅れは許されんぞ」
鼻息荒く男が告げる。連絡員の彼女から言わせれば、虎の威を借る狐以外の何物でもない滑稽な姿だが、ことこの件に関しては紅巾党側の管理不行届きが原因であるため、大人しく頭を下げるしかなかった。
申し訳ありませんでしたと神妙に謝罪してみせ、せめてもの意趣返しとばかりに世間話を振ってみる。
「そういえば、本来ミスターがお越しになるのは一昨日の予定でしたが、急に別の方が代理で来られて少々騒ぎになりかけたのですよ。急用ができたためと伺いましたが、どのようなご用件だったのですか?」
「ぐ、そ、それは……ええい、黙れ! 貴様らにそれを教えてやらねばならん道理は無い!」
一瞬返答に詰まり、次いで顔を真っ赤に染めて誤魔化しにかかる。
どうやら触れられたくない話題のようだが、東都で諜報員をやっている彼女にとっては、実は既知の情報に過ぎなかった。
「失礼致しました。ミスターの役割は、我々とクライアント殿を結ぶ重要極まりないもの。そんな重要なお役目を、どうでも良い私事で放り出すことなどありえるはずがない。きっと、より優先すべき事案があったのでしょう」
微笑みながらそう言ってやれば、追捕使の男は面白いように顔色を目まぐるしく変えた。
そして彼女は知っていた。彼が一昨日姿を現さなかった理由。それは入都の検問時に田舎者から小銭を巻き上げるという小遣い稼ぎが、よりにもよって清廉潔白で知られるガクシン隊長に露見したため、これまで懲罰房に押し込められていたからであると。
イタミ城への侵入者が出たとかで、追捕使達が蜂の巣を突いたような騒ぎになっている隙に懲罰房から解放されたのだろうが、そんな人物を繋ぎに使わなくてはならない辺りが、現在のクライアント殿の苦境を物語っている。
そんな思考を頭の片隅で流しつつ、目の前の男の百面相で溜飲を下げた彼女は、咳払いをすると唐突に話題を切り替えた。
「ミスターに一つ、重要なお願いがございます」
「何だ、いきなりかしこまって」
何やら雰囲気が変わったのを感じ取ったのか、追捕使の男が警戒の視線を向けてきた。
その小心者っぷりに内心で苦笑を零しつつ、外見からは一切それを悟らせぬまま、彼女はそのお願いを口にした。
「風の噂では、拳法家がイタミ城への侵入を試み、それを捕縛するべく追捕使の皆様方には非常招集が掛かっているとのこと、相違ございませんか?」
「そ、そうだな。詳しい報告までは受けていないが、そういう話は聞いている」
正確には、懲罰房の近くを歩いていた追捕使達の話を盗み聞きしていただけなのだが、見栄を張って肯定する。男が頷くと、彼女は一つ頷いて続けた。
「実はその拳法家なのですが、我々が懸命に探している計画の『鍵』を握っている可能性があります」
「な、なんだと!?」
思いもよらぬ告白に、驚いた追捕使の男は椅子を蹴倒して立ち上がっていた。
対する彼女はつとめて冷静に、これまで伏せていた情報を開示する。
「『鍵』の逃亡が発覚した直後、我々の手の者達が一度、『鍵』の発見に至っていたのです。しかし、ある一人の拳法家が我々の前に立ちはだかり、結果として『鍵』を逃がしてしまうこととなりました」
「たった一人の拳法家に邪魔をされた、と?」
「その通りです。そして、イタミ城への侵入を試みたとして、街中で手配されている拳法家こそ、我々の邪魔をしたあの男に相違ありません。あのカイエンとかいう拳法家が――」
「カイエンだと!?」
その名前を出した途端、追捕使の男は我知らず悲鳴を上げていた。紅巾党の連絡員である女が怪訝な表情を向けてくるが、そんなことすら気にならぬほどに、彼の思考は恐怖と怒りに塗り潰されていた。
思い出すのも忌々しいが、彼の小遣い稼ぎが発覚し懲罰房に押し込められるきっかけとなった者の名前が、そのカイエンに他ならないのだ。ここまでくると因縁めいたものすら感じ、追捕使の男は人目も憚らず歯噛みした。
「そう言うわけでして、そちらで掴んでいるカイエンの情報を提供して頂きたいのです。無論、これは『借り』になると認識しています」
女の言葉に思考が引き戻される。いまだに腸が煮えくり返ってくる思いがするが、紅巾党でも奴を追っているというならば都合が良い。
少しでも奴に復讐できる可能性が上がるならば、多少の追加投資にも応じるべきだろう。
「分かった。私の一存では決定することはできないが、必ずあの方に伝え、許可を得られるようにしてやろう」
「おお、さすがミスター! あなたのような理解のある方と繋がりを得られ、我々としても嬉しく思っております」
破顔して礼を述べる紅巾党の女。話がまとまり、両者が自然と握手を交わしかけた、その瞬間――
ばがんっ
轟音と共に天井の一画が崩れ、瓦礫と埃が部屋中に降り注いだ。
「何事だ!?」
混乱し、驚愕の声を上げる追捕使の男と、隠し持っていたナイフを素早く抜き放ち、油断なく周囲を警戒する紅巾党の女。
そんな両者の前に、舞い上がる埃の向こうから姿を現したのは、二人がたった今話題に上げていた人物だった。
「よお、その話、もうちょっと詳しく聞かせてくれよ」
獰猛な笑みを湛えながら、カイエンは気楽な口調で話し掛けるのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「っ!」
カイエンが姿を現した直後、真っ先に判断を下したのは紅巾党の女だった。
選択したのは戦闘ではなく逃走。これまでに集まっている情報に拠れば、この少年は東都最強と呼ばれるガクシンとすら真っ向から渡り合い、逃げ切ってみせた実力者だ。
武の腕前は護身術をかじった程度でしかない彼女では、どう足掻いても太刀打ちできる相手ではない。
戦っても勝ち目がないのであれば、残る選択肢は逃走しかない。
何とかこの場さえ切り抜ければ、夜闇に乗じて身を隠すこともできるだろう。
加えて、楽観的な予想かもしれないが、追捕使の男もカイエンとなにやら因縁があるようだった。もしかすれば、囮くらいにはなってくれるかもしれない。
そんな淡い期待は、彼女が逃走経路に選んだ窓の手すりに手を掛けるより早く終了した。
「おっと、逃がさないぜ」
瞬間移動でもしたような唐突さで、カイエンが目の前に出現する。一般人の動体視力では、霊紋持ちの移動速度を目で追うことは到底出来ないためだ。
その速度に内心で驚愕しつつ、追捕使の男はどうなったかと視線を走らせてみれば、鳩尾にいいのを一発もらい、苦悶の声すら上げられずに崩れ落ちるところだった。
最後の抵抗とばかりに持っていたナイフを投擲するが、影が翻ったかと思うとナイフはカイエンの手で受け止められており、逆に投げ返されたナイフは彼女の頬を薄皮一枚の正確さで切り裂くと、刀身全部が埋まった状態で部屋の壁に突き立った。
まるで相手にならない。
大人と子供以上の実力差を痛感させられ、彼女はゆっくりと両手を挙げる。
「ふう、降参するわ。命だけでも助けて欲しい、という要求は受け付けてもらえるのかしら?」
「あ? 別におまえを喰う気なんかないぞ。俺の知りたいことを話してくれれば、それでいい」
力比べ以外での殺し=食糧確保であるカイエンの思考を、このやり取りだけで理解したわけではないだろうが、どうやら命だけは助かりそうだと安堵に胸を撫で下ろす。
だが、僅かに気を抜いた……抜いてしまった彼女は、目の前の少年から突如放出された圧迫感に、胸が潰される錯覚を見た。
「……ッ、カハッ!」
息苦しさという生理的な反応が、止まっていた呼吸を思い出させる。
紅巾党の諜報員兼連絡員として、これまで裏社会での脅迫の類には多少の心得があった彼女だが、今浴びせられた殺気と比べては、それらの経験が児戯にしか感じられなかった。
それも無理はない話である。
裏社会で使われる脅しとは、所詮は相手を屈服させ、こちらの要求を通すための“手段”――要するに交渉の一形態でしかない。対してカイエンのそれは、生存を掛けた野生のそれなのだ。相手の威圧にわずかでも飲まれれば、あとは他者の餌となる未来しかない。
特に、霊紋持ちであるカイエンの威嚇ともなれば、覚悟の無い者がさらされれば、それだけで心臓が停止しかねないほどの圧力を持っていた。
完全に心を折られた彼女では、カイエンからの質問に嘘を吐いたり、或いははぐらかしたりという選択肢を思いつくことは出来なかった。
尋問と呼ぶには抵抗が無さすぎたが、カイエンはいくつかの質問をした結果、事件の概要がおぼろげながら見えてきた気がした。
細かい部分までは把握しきれなかったが、事態の解決に必要な情報さえ集まれば、後は些末な問題である。
満足げに頷くと、カイエンは放心状態の二人をその場に放置して外に出る。
すぐにでも動きたいところだが、調査を頼んだ以上、一度はリンカと合流すべきだろう。
そう考えて踵を返しかけた時、荒れ狂う精霊の気配が夜の静寂を駆け抜けたのだった。
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