反攻の狼煙1
地を蹴り、壁を跳び越え、屋根の上を疾走する。
黒尽くめの人物の後を追うカイエンは、軽々とした身のこなしを見せて、東都イタミを駆け抜けていた。
それは先を行く人物も同様で、先程カイエンを助けた技といい、霊紋使いであることに間違いはあるまい。
追っ手を撒くため、時に進路を変え、時に水路を跳び越え、風の如く走り続けることしばし。東都の「石の長城」近く、つまりは外壁に近い場所までやって来て、ようやく黒尽くめの人物はその速度を緩めた。
「こちらだ、付いて来い」
有無を言わせぬ口調で告げ、先導して歩き出す。
どうやらここは貧民街と呼ばれる地区らしく、華やかな東都の大通りとは打って変わり、すえた匂いや生々しい血の跡が五感に不快感を訴えかけてくる。
さすがのカイエンも、人の営み特有の汚物の匂いに一瞬だけ顔をしかめるが、すぐに黒尽くめの人物の後を追って歩き出した。
そこから更に入り組んだ路地を進み、やがて到着したのは、今にも崩れそうなあばら家であった。
黒ずくめの人物は、蝶番が半分取れ掛けている扉を丁寧に開けると、振り返ってカイエンを中に誘う。普通の人間であれば多少なりとも躊躇するシチュエーションであるが、カイエンは尻込みする素振りもなく屋内に足を踏み入れた。
中は想像通り、これでもかというくらいに荒れ果てている。当然のごとく家具の類などがあるわけがなく、剥がれた壁板からは隙間風が吹き込み、溜まった埃と澱んだ空気をかき混ぜていた。
こんな殺風景な場所に連れてきてどうするつもりかとカイエンが振り返ると、黒尽くめの人物は丁寧に扉を閉めた後、慎重に床板の一枚に手を掛ける。
次の瞬間、滑らかな手さばきで床板を捲り上げた。
「おおっ!」
カイエンは思わず声を漏らす。
床板を捲り上げたといっても、力任せに破壊して剥がしたわけではない。最初から、開閉するように作られた隠し扉があったのだ。巧妙に偽装されていた床の下を覗き込めば、そこには地下室へと通じる階段が黒々と口を開けていた。
「すげえ仕掛けだな! 初めて見た!」
「いいからさっさと来い」
興奮するカイエンを促し、黒尽くめの人物が階段を下って行く。いつの間に点けたのか、その手には灯りの灯った蝋燭を持っていた。
仄かに揺らめく蝋燭の灯りが、しんと冷えた壁に二人の影を茫洋と映し出す。周囲の闇に溶けるように滲んでいく影を横目に見ながら進んで行くと、やがて突き当りの扉が見えてきた。
地上のあばら家の扉と違い、磨かれた木材と補強用の金属で構成されたその扉は、ここから先こそがこの建物の本丸であることを、否が応にも理解させる。
ごくりと唾を飲みこむと、カイエンは扉をくぐった。
その途端、犬のそれにも匹敵しうるカイエンの嗅覚に、微かな香りの痕跡が引っ掛かった。
幾つもの花と草の匂いを混ぜ合わせた、鼻孔をくすぐるかのような香りには憶えがある。この香りを嗅いだのは確か――
「リンカ?」
ふと浮かんだ名前を呟いた瞬間、黒尽くめの人物の肩がびくりと震えた。ぎこちない動作で振り返ると、若干上擦った声で言う。
「だ、誰だ、それは」
「いや、おまえリンカだろ?」
「知らんな、そのような美女の名前」
「嘘つけ。大体、リンカが人の名前だなんて、あいつを知らない奴が分かるもんか。あと、この部屋に残っていた臭いと、リンカが使っていたシャンプーの臭いが同じだった。だから間違いない」
「女性の匂いには口を出すなって言ったでしょっ――あ」
反射的に抗議の声を上げ、あっさりと馬脚を露す。
ここまで鮮やかにバレてしまえば諦めもつくのか、観念したように小さく指を振ると、全身に纏わりついていた黒い何かが、潮が引くようにその面積を減らしていく。その代わり、見覚えのある顔が現れた。
つい先日、カイエンに護衛を依頼した、歴史研究者を名乗るリンカである。
リンカはぷんすかと頬を膨らませ、
「あー、もう反則でしょ。気付かれないようにわざわざシャンプーも変えたのに、部屋に残っていた匂いで気付くとか」
八つ当たり気味に毒づく。これにはカイエンも困ったように頬を掻いた。
「いきなり反則とか言われてもなぁ。そっちこそ、どうして助けてくれたんだ? ってか、霊紋持ちだったのかよ。わざわざ俺に護衛を頼まなくても、紅巾党の連中くらいなら一人で切り抜けられたんじゃないか? あと、歴史研究家って霊紋持ちがなっても大丈夫なのか?」
「いっぺんに聞かれても答えられないわよ。質問には答えてあげるから、ひとまず座りなさい」
矢継ぎ早に浴びせ掛けられる質問を、柳の如く軽やかに受け流す。部屋の中央に置かれたソファの片側に腰を下ろすと、机を挟んだ向かいのソファに座すように指し示した。
カイエンが促されるままにソファに座り、早速初体験のふかふか具合を堪能していると、唇をペロリと舐めて湿らせたリンカがおもむろに切り出した。
「さてと、それじゃあ手早く説明するわね。どうして君を助けたかと言うと……まあ、成り行きね。偶然イタミ城の近くで君を見かけて、声を掛けようとしたらいきなり追捕使と戦い始めるのだもの、目を疑ったわ。さすがにガクシン隊長相手では分が悪そうだったから、隙を見て割って入ったのよ」
「嘘つきは閻魔に舌を抜かれるぞ」
すらすらと答えたリンカの言葉を、カイエンは一言で切って捨てた。リンカはすっと目を細める。
「あら、どうして嘘だって言い切れるのかしら?」
「爺が言ってたんだ。人を助けて何の見返りも求めない奴は、根っからの聖人君子か、腹に一物抱えた詐欺師だけだって。あんたは絶対に聖人じゃないから、詐欺師の方に違いない」
薄い笑みを浮かべて尋ねるリンカに対し、カイエンは失礼千万な理由を堂々と告げる。
普通ならば怒って然るべき場面だが、リンカは逆に興味深そうに頷いた。
「なかなか面白い意見ね。端的だけど含蓄があって私は好きよ、そういう考え方」
「誤魔化すなよ。さっきだって、俺が呼んでも最初は知らないふりしようとしただろ。本当に偶然だったなら、わざわざ俺にまで正体を隠す必要は無いはずだ。それなのに誤魔化そうとしたってことは――」
「偶然ではなく何らかの目的があって君を助けた、と。うん、正解。理屈は滅茶苦茶なのに一発で見抜いてくるなんて、野生児の勘って恐ろしいものね」
カイエンの言葉を引き取り、リンカは満足したようにうんうんと頷く。
いきなり己の嘘が看破されたというのに、悪びれた様子を微塵も感じさせないその態度だけは、泰然自若とした大物の風格が漂っていた。
「お察しの通り、私はある目的で君を見張っていたわ。当初の予定では見張っておくだけだったのだけど、万が一にも君が追捕使に掴まると色々と不都合なことになるから、あそこで介入させてもらったというわけね」
「ある目的ってのは一体全体なんなんだ? 俺が捕まると不都合って話についても、何がどう不都合なのか、まるで心当たりが無いぞ」
カイエンが指摘をすれば、リンカは人差し指を唇に当て、ウインクを飛ばしてきた。
「それはもちろん、カイエン君のお師匠様を紹介してもらって、『天の角、地の翼』について教えてもらうために決まっているじゃない。カイエン君が捕まっちゃったら、他の誰が君のお師匠様の居所を知っているというのよ」
「……そいつも嘘だな」
「あ、やっぱり分かっちゃった? まあ、質問には答えるとは言ったけれど、嘘を吐かないとは約束してないから、そこは勘弁して頂戴」
「そう言われればそんな気もするな……ん? じゃあ、質問に答えるって言葉自体が嘘って可能性も……んん?」
何が嘘で何が本当やら区別がつかなくなり、疑問符を浮かべて首をひねるカイエンの様子に、リンカはくすりと笑みを零した。
「ふふ、それじゃあ一つだけ大サービス。正直に話しちゃうけど、君の部屋の鍵を盗んでイタミ城の中に置いてきたのは、何を隠そう私だったのよ!」
「おお、そうだったのか! 凄いな、あんた。あんな城に忍び込めるなんて。さすが霊紋持ちってことか」
自分を嵌めた相手の手腕を褒め称えるカイエン。てっきり怒って突っかかってくるかと予想していたため、リンカは一瞬だけ拍子抜けした表情を見せるが、カイエンのペースに巻き込まれてはかなわないと、小さく頭を振って思考を切り替えた。
「私以外の霊紋持ちでは、乗り込むことは出来ても忍び込むことは難しいでしょうね。なにしろ、私が宿しているのは影の元素霊だもの。こそこそ隠れたり目を眩ませたりするのは、私の専売特許みたいなものよ」
リンカの言葉を証明するかのように、足元に蟠っていた黒が不意に立ち上がる。手品でも見ているかのように、それは人間や動物、道具の形状に次々と変わっていくと、最後はリンカの姿を完全に覆い隠してしまった。
霊紋持ちの身体能力に加えて自在に影を操るこの能力があれば、なるほど城にすら潜入可能というリンカの言葉も頷ける。
「それはともかく、肝心なのはどうして私がそんな事をしたか、よ」
「そりゃもちろん、修行のためだろ。霊紋を駆使して警戒厳重な城に忍び込む。良い訓練になりそうだぜ」
「違うからね? というか、まさか君もやろうとか思ってないわよね!? ちょっ、ウキウキしないで!?」
思い立ったが吉日とばかりに立ち上がるカイエンの服に縋りつき、リンカは必死に押し止めた。カイエンが渋々ソファに座り直すと、心の底から安堵の溜息を吐く。
「まったく、もう。私が君に追捕使の嫌疑を向けるなんて細工をしたのは、東都の安寧を守るためよ」
「あぶねい?」
「それじゃ逆よ。以前にも話したでしょ、今の東都の状況は異常だって」
「言ってたな、そういえば。確か、御庭番衆が何回も紅巾党を取り逃がすのは妙だ、って話だったか」
記憶の底をほじくり返したカイエンの言葉に、リンカは力強く頷くと、ぐいっと身を乗り出してきた。
「その通りよ。ここからが本題なのだけれど、私が東都中を調べて得た情報を統合させたところ、東都内に紅巾党を手引きしたのも、本来は中央所属のはずの御庭番衆を東都まで引っ張り出してきたのも、どうやら同一人物の仕業みたいなのよ。カイエン君にも理解しやすく言い直せば、今回の件は全てその黒幕が糸を引いているわ」
「ほうほう、そいつは随分と回りくどい奴がいたもんだが……あんたが俺を罠に嵌める理由にはならないんじゃないか?」
カイエンが疑問を述べると、リンカは胸を張って答えた。
「君は囮よ」
「囮?」
「囮というよりも友釣りかしら。ともかく、今回の黒幕は相当に周到な人物よ。普通、これだけ大掛かりな計画を実行しようとすれば、大抵どこかに綻びが生まれるものよ。そこさえ突けば計画全体が瓦解するような、致命的な綻びがね。でも、この件に関してはそういった隙がどうしても見当たらないのよ」
どことなく悔しそうに唇を噛みしめ、リンカは言葉を紡ぎ出す。
「だから発想を変えたの。綻びが見つからないならば、作り出せばいい。綿密に練られた計画であればあるほど、想定外の事態に直面すれば呆気なく崩れるものよ。仮に、計画の修正に乗り出してくるようであれば、そこから尻尾を掴むことだって可能となる。そして想定外の事態として、君以上の適任はいないわ」
にじり寄るかのように身を乗り出し、カイエンの両手を取って懸命に訴えてくるリンカ。その圧倒的な熱意に対し、カイエンは躊躇なくうざったいなぁという視線を向けた。
だが確かに、状況を引っ掻き回すトリックスターを求めるのであれば、ことカイエンに勝る役者はいるまい。霊紋という反則気味の武力を保持していることはもちろんだが、世間知らずの野生児という、当の本人が一番自覚し難い特徴こそが、その動向を予測することを困難にしている。
極め付けは、その存在がこれまで全く知られていなかったという点だ。どれだけ用意周到に策を練ろうとも、知らない要因を計画に組み込むことは不可能であろう。
それを証明するかのように、東都を訪れたカイエンはその初日にして、紅巾党と御庭番衆という今回の件で重要な位置にいる者達と、特段の自覚も無いままに対立関係に立ってみせた。
駄目押しとして追捕使からも狙われるようになった今、時と場所を選んで立ち回れば、カイエンを追う三者をまとめてかち合わせることも可能だろう。
そのためには、ガクシンに敗れて追捕使に捕縛されるという展開は好ましくない。わざわざ追捕使をけしかけておきながら、最後の最後で妨害した理由について、リンカはそう説明した。
すべて聞き終えた後、カイエンは呆れたように口を開いた。
「あんたも随分と回りくどいやり方をするなぁ。俺から見れば、あんたの言う黒幕って奴といい勝負だぜ」
「正面から殴り合うのみが解決法じゃないというだけよ。そんなわけだから、カイエン君にはしばらくこの隠れ家で過ごしてもらうわ。ああ、食事はこちらで手配するから心配しなくていいから。紅巾党と御庭番衆の方にはそれぞれあと少しで接触できそうだから、そっちの下準備が終わり次第、カイエン君には――」
「ちょっと待った。どうして俺が、あんたの指示に従わないといけないんだ?」
唐突に待ったをかけるカイエンの一言に、リンカは何を言っているんだと言いたげな視線を向けた。
己に向けられる訝し気な視線を気にも留めず、カイエンは気楽な口調で宣言する。
「助けてもらったことには感謝するけど、きっかけを作ったのもあんただって言うなら、その件に関しては貸し借り無しだ。あんたが俺を使って何を企んでも自由だけど、俺だって俺の好きにやらせてもらうぞ」
「……ここは東都の平和を願う私の心意気に打たれて、君から協力を表明してくれる場面じゃない?」
「そんな予定は無い。その言葉だって嘘かもしれないしな。それに言っただろ、旅は俺のペースで行きたいって」
「……やっぱりそうなるわよね。そのブレないところが、カイエン君らしいと言えばらしいのかしら。ちなみにこの隠れ家から出たら、街中どこにいても追捕使が追いかけてくると思うけど、逃げ切る勝算はあるの?」
リンカに自信のほどを尋ねられ、カイエンは大きく頷いてみせる。
「逃げる時には足跡の一つや二つ消せないと、とてもじゃないが甲鱗狼の群れと鬼ごっこなんてできないからな」
カイエンの返答に、リンカはこめかみを押さえてしまう。基準が違い過ぎて物差しにならなかったからだ。
それでも一縷の望みをかけ、どうにか引き留めようと画策する。
「私の策に協力してくれるなら、私がこれまで集めてきた『天の角、地の翼』の調査結果について、教えてあげても良いけど?」
思いつく限りで唯一、食いつく可能性のある餌をぶら下げてみる。だが、カイエンはその提案をすげなく断った。
「別にいらないよ。調べるなら俺自身で調べるし、爺の口振りじゃ、見つけられなくたって別に構わないって雰囲気だったしな」
「……ふう、仕方がないわね。ま、制御しようとして抑えられるタマじゃないのは知っていたことだし、下手に私がコントロールしない方が黒幕の読みも外せる、か」
強引に理屈をひねり出し、自分を納得させようとする。しかし、
「一番の理由は、あんたが信用ならないから、なんだけどな」
「そんな!? 私が何をしたっていうの!」
「俺を罠に嵌めてガクシンと戦わせただろ。あと、説明するとか言って嘘ばっかりついたな。それから――」
カイエンが指折り数え上げると、リンカは口笛を吹いて目を逸らすのだった。
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