狂気に満ちた世界
胸にこみ上げる自己嫌悪で発生する吐き気を抑えつつ、自身に割り当てられた部屋に何とか辿り着くいて、背中で扉が閉まる気配を感じた瞬間、俺はうずくまり胃の内容物全てを吐き出した。
「ウェエエエ、ハァハァ、ウッ!ウブオオオオオ」
空っぽになっても自らが行った悪行に嫌悪感が俺の胃を攻撃するのを止めない、このまま全て吐き出してしまいたいと願っても、心までは口から吐き出すことは叶わない。
ただ無様にうずくまり、吐瀉物まみれになった部屋の中で呻いていると光で出来た女性の虚像が浮かぶ。
『周護さん、嘔吐が治まらないのでしたら抑制剤の投与を推奨します、必要でしょうか?』
「大丈夫だ……、薬には頼りたくない、俺は平行世界の人間で遺伝子組成が違うんだろ?どんな副作用があるか解ったもんじゃない……」
俺がこうなっている原因を作った存在、少女たちがマザーと呼ぶ量子コンピューターのAI『ヘスノ』が声を掛けてくる、この世界は近似値ではあるが全く同じではない、彼女達が地球と呼ぶこの星の重力も俺達のものより一割ほど強いし物理法則も若干違うらしい、遺伝子だって俺とこの世界の原生人類を比べればネアンデルタールとホモサピエンス程は違うらしい。
「で?どうした……、お前の言うとおりに道化を演じて彼女達を騙したんだ、俺が吐いていようが蹲っていようが勝手だろう……?」
投げやりな言葉が口から溢れる、生きるために彼女達に仮初めの愛情を植え付け、偽りの愛を語るのが自分の仕事だと言われて胸を張れるのはよっぽどハートが強いか、女性を物や動物なんかと勘違いしている奴だと思う。
『周護さんに忠告をしに来ました、エミュレイタは厳密には人間ではないので人間である貴方が心を痛める必要はありません、道具に持つ愛着や動物への親愛位で十分なのです、必要以上の感情は貴方自身の健康を害します』
エミュレイタ、それは女性の脳から取り出したデータを扱いやすい様に加工し、少女とそっくりのボディに仕組まれた脳を模した有機コンピューター上で思春期の少女をエミュレイトするだけの存在、魂のない人形であるとヘスノは言っているのだ。
「やめてくれ!お前に頼まれた仕事を俺はしているだろう!何度も言うが彼女達がそんなものだと俺には思えないんだ!触れれば暖かな血液の脈動を感じるんだ!」
ヘスノは人形だという少女達の頬や小さな手、そこには人が持つ確かな温もりが内包されている、それが偽物だと理解しようにも、理性も感情も追い付きはしないんだよ!
「彼女達には感情がある!言葉も!仕草も!表情にも!その全てに人が相手を人間であると感じるものが確かにあるんだ!」
慟哭と共に胸の内にある整理もされていない生の感情を吐き出すなんて、大人になってからした事は無い、学生の頃家族が事故で亡くなった時以来だ、それくらい今の状況は狂気の沙汰だとしか言えない状況だ。
『あれらエミュレイタは戦闘用に改造を施した遺伝子で最早別種というべき存在であり、なおかつ人工的に制作されています、魂と呼ぶべき感情リソースも死者の記憶の劣化コピーです、ですのであれらは人類とは呼べません、周護さんが心を痛める存在ではないのです』
理路整然とした受け答え、AIであるヘスノは人間とは違う感情を持っている、俺を人間として認め優先順位は高位に設定している為、細かな感情のケアを行おうとしているだろう。
だが人類がほぼ全滅し、僅かに残った人々も冷凍睡眠に入った末期に作成されたヘスノは、人間とのコミュニケーションが足らず感情の機微が理解できないのだろう、彼女の発言が俺の感情を逆撫でしている事に気が付かない。
「もう沢山だ!やめてくれ!俺を元の世界に返してくれよ!俺は帰りたいんだ!」
駄々をこねる子供の様な言葉を口走っている自分の姿に嫌悪を覚える、少女達をこのまま見捨てて帰るか?と感情が非難をしている、理性は関わるべきでない、帰る事が出来るのであれば帰るべきだと悲鳴を上げる。
『理論上は可能です、ですが私にはそのエネルギーが残っていません、そして反攻作戦を行っている現状では、周護さんの帰還に割けるリソースはありません』
この世界の僅かに残った人々が自らの命運を掛け『揺り籠計画』を立案し、その全権をヘスノに託して彼女達は眠りについたそうだ、その数は僅か数百人、これがヘスノが割り出した最小存続可能個体数を下回らない内に計画を完遂しなければならない、冷凍睡眠も完全に全てを保存できる訳でもなく徐々に劣化し自然減もしてゆくそうだ、元は2千を超える数でスタートした計画だった、だが化け物が撒き散らした粒子は少しずつ人々を蝕んでいく。
そして、いずれ迎える限界の前にヘスノは『アダム作戦』を実行に移した、『天使の階段』と呼ばれる、空間に干渉して穴を開け対象物を転送させる装置を使い、アダムとして選ばれた瀕死の俺を並行世界へ引きずり込み、治療をして命を救った。
『私にはエミュレイタに組み込まれた血冷式精神機関を起動させる手段がありませんが、貴方にはそれが可能です』
俺は彼女が何を言いたいのか解らず、黙って話を聞く、だがあまり良い話のようには思えず、固唾を呑んで吐いた後の喉が痛みを訴えてくる。
『そしてこのような脅迫的な物言いはあまり使いたくはありませんが、天使の階段を安全に運用出来るのは私だけです、どうでしょう周護さん、私達は良いパートナーになれると思います、私達の計画に協力してくれませんか?』
はっきりとは言わない、明確な脅迫、こんな矛盾した言葉が頭の中に浮かぶ、その虚像からは感情を読み取ることは出来ないが「NO」と返した瞬間、俺は一体どうなるのだろうか?
「すまない、念の為に聴きたいんだ、もしも俺が嫌だと言ったらどうなる?」
『このまま私達と一緒に滅んでいただきます、それだけです』
まるで明日の天気や今晩のメニューを答えるような感じでヘスノが回答する、だがその内容は世界の命運を俺に託すと、そう言っているのだと理解ができた。
『こんな世界へ引きずり込んだ私が貴方に言って信じてもらえるか疑問が残りますが、私は人間を殺したいとは思いません、なので貴方を殺すことは本意ではないし、その生を全うして欲しいと思っています』
「ああ、君はとても理性的で俺を気遣ってくれているんだろう事は理解しているつもりだ、感情は追い付いていないから上手くコミュニケーションができていないとは思うけどね」
柔らかいがどこか無機質な女性の声に、俺は隠し事をせずに多少の皮肉を混ぜて返事をする。
『私の製作者で、今表示している立体映像の原型であるクシーナ博士が仰るには、私は人間の情緒を理解出来るほど情操する時間の猶予が無かったそうです、そして杜撰な計画に巻き込むアダムに選ばれる男性に謝りたいと、いつも彼女は泣いていました』
「その人はどうなったんだ……、冷凍睡眠に入ったのか?」
話を聞いて、俺はクシーナ博士という人が一体どうなったのかを知りたくなってしまった。
『クシーナ博士を含む数人の博士から私用に知識データ部分を、残りの感情データはエミュレイタ用に提供を受け感情リソースにしました、全てのオリジナルは死亡を確認されています』
淡々と語られる言葉に俺は言いようのない恐怖を覚える、自らを犠牲にしてまで世界を救おうとした彼女達の感情が理解出来なかった、だが、そこまでしないと人類が生き残る事が叶わない狂気に満ちた世界だと頭で理解出来てしまった。