3 しゃかいかけんがく(1)
自室から出てリビングに入ると、両親が揃って藍曇に目線を向けた。それから母は心底安堵した顔で、父は涙ぐんで「おはよう」と挨拶をした。
息子一人の無事な帰還を心から喜ぶのだから、全く現状の世界に向かない人たちである。藍曇は内心苦笑いし、「おはよ」と素っ気なく挨拶を返した。
『良い御両親だね。二人の反応は息子である君が大事に思われている証拠だよ』
『そーですね』
『お、照れてるのかい』
『言ってろ』
藍曇は頭に直接響く声にすげない返事を心の中でしていた。すると母が心配そうに「どうしたの?」と声をかけてきた。
「まだ疲れが取れてないなら、寝ててもいいのよ」
「え、あー……寝るほどじゃない、平気」
「人間狩りに遭ったんだろう。平気だと思っても心は傷ついていることもある、大事をとってくれ」
「わーったよ。けど休むのは学校行ってからな! 受験の報告しないとだろ」
このままだと臨時休業に追い込まれかねない。藍曇はそれらしい理由を挙げて、ともかく学校への登校を許して貰いにかかった。今度こそぼんやり突っ立たず、食卓に座るのを忘れずに。
「そうね。でも具合が悪くなったら早退も考えてちょうだいね」
「はいよ。朝飯は?」
やっと普段が装えたようだった。母は心配そうな色は残しつつ、飯一膳とおかずと味噌汁を盆に乗せて出してくれた。父も涙は浮かべたまま、味噌汁を啜り始めた。涙が椀に入って塩辛さが増しそうだ。
まずは一般家庭の様子を観察させるミッションは成功しそうだ。ミリオを宿らせた藍曇は心の中でガッツポーズを浮かべた。すると不意に嬉しそうに笑うミリオの姿が頭に浮かび、それが手を伸ばしてきた。
そのまま脳内ハイタッチ。決まった。
「帰ってきた時ドロドロだったから、随分大変な目に遭ったと思ったけど」
「! あ、おう」
「体の方は問題なくて良かったわ」
「全くだ……体は資本だ、大事にしてくれ藍曇」
慌てて脳内の映像から現実に意識を引き戻し、藍曇は両親の言葉に神妙に頷いた。あれだけ逃げ回って体にも異常がなかったのも、一重にミリオのいた場所に逃げ込めたおかげではある。
ちなみにあの場所、ミリオの母が彼を療養させる為に作った空間だったらしい。無菌室みたいなものらしいが、如何せん治癒した後に出られはするが封印は破れるよう設計されていなかったそうだ。どういうことなのかさっぱりわからないが、ミリオもそうとしか言えないのだと変な顔をしていた。
いやしかし、元隔離されていた張本人にされたというのも若干奇妙だが、ミリオの治療はどれだけの効果があったのやら。藍曇は倦怠感も残らない心身に驚いていた。目の前の食事の香りに腹が痛い程に反応し、昨日夕飯を抜いていたことを今更思い出す。
箸を取ってきちんといただきますを唱え、早速付け合わせと共に湯気の立つ白米をかき込む。空きっ腹に効果は抜群だった。視覚や聴覚の情報は直にミリオも受け取れるらしいが、味覚はどうなのだろう。
『美味しそうだね』
「美味しい?」
「美味いぞ」
ミリオの方に返そうとしてつい口から言葉が出て、はっとする。母もびっくりした顔になっていた。
そりゃ反抗期以降まともに前向きな食事の感想を言ってこなかったのだ、こうもなる。藍曇は心の中でミリオにじっとりとした目線を送った。
『ははは、済まない。母君の言葉に被らせてしまったね』
『確信犯だろお前』
『冤罪、冤罪』
嘘だな。案内途中で適当に放置してやろ。藍曇はひとまずそれを決めてから両親への言い訳を考える。こっちは割と必死だ。
「……やっぱ、運が悪かったらもう食べられなかったんだな、とか思ったら、味わいもひとしおで」
とりあえずそんなことを言ってみた。すると、父が突然嗚咽を上げた。さしもの藍曇でもぎょっとした。
「そ、そうだなっ……お前はすぐ消えてしまうから、いついなくなっても、おかしく……ううっ」
「やだお父さん、涙が味噌汁に……気持ちは分かるけど泣かないで」
うわーもっと当たり障り無いもんにしとけば良かった。藍曇は結構後悔した。
『消える、とは? アズミは聖霊のいたずらにでも遭いやすいのかい』
別の方向からも食いつかれた。全部処理しなきゃならねーのかよ、めんどいつーか思念会話に慣れてない奴に難易度の高いこと押しつけやがって。などと藍曇は顔には出さず慌てるが、後悔先に立たずだった。
『神隠しのことならそうだな。昔からよく分からん場所にいつの間にか迷い込んでた』
『やはりか。アズミ、君の体質についても一度話し合った方が良さそうだ。
ついでに準備にも移っておこう。君の食事が終わり次第始めるよ』
まずはミリオがあっさり引いてくれた。出会って大体半日程度だが、空気が読めるのか読めないのか微妙な奴だ。次は父だ。
「いや今回は一日で帰ってきたから。つか、いつもちゃんと帰ってきてるし、俺の体質と今回の事件は無関係だろ」
「そうよ、お父さん。今後はあの辺りも警備が強化されるってニュースで言ってたし、大丈夫よ」
「う、うむ……だが本当に気をつけてくれ、藍曇……お前に何かあったら、ぐすっ」
思ったより楽に片付いた。しかしこうも自然に魔物が監視警戒されるのをミリオに直視させたり、自分の体質について所見を呈されることになったり、予想外に目まぐるしい。箸の先っぽを囓りながら、ちょっと藍曇は思ってしまった。
とりあえず藍曇は食事に戻ることにした。この先ミリオと企んでいる計画が成功することを祈りつつ。
これの成否で全てが崩壊するという訳でもないが、出だしが良い方が何かと気分も乗ってくるというものだ。
***
父が出勤した後、普段はリビングの入り口までの見送りが、本日は玄関先まで見送りになった。ついでに自身には相当無意味な護身用ブザーなどを持たされた。
親心を無碍にするつもりはないが、やり過ぎではないかと感じなくもない藍曇だった。
「そこまでしなくてもよくね?」
「あなたね、ただでさえあなたは心配なのよ? 今日くらいは見送りをきちんとさせてちょうだい」
必要ないと言ってみたが、正面から論破された。あと数ヶ月で息子の体質に付き合って十九年になる相手が言うと重みが全く違った。
ミリオとの計画は実行しやすくなったが、逆に警戒を煽りそうな気もする。藍曇にはどう転ぶのか読めなくなってきた。
「寄り道しないで真っ直ぐ帰ってきなさい」
「買い物あるんだが」
「……今日じゃなきゃ駄目なの?」
今日である必要は無いが、連れに世間の現状を見せるのは早い方が望ましいのです。などと馬鹿正直に話せる訳もないので、「すぐ買わないと売り切れる」と誤魔化した。
「じゃあ、それを買ったらすぐ帰ってきなさい。約束よ」
母のガードが堅い。どうしたもんか。
心底不安そうな顔で頬に手を当てる母を前に、藍曇がそう考えていると、家のベルが鳴った。
「あら、こんな時間に? ちょっと待ってて」
母が素早く居間のインターホンへ駆け寄り、カメラボタンを押した。
乱入などが無ければ、ドアの前にいるのは人間に擬態したミリオである。
あいつ、さっき家のインターホンの変化スキャン機能を見て「何とかなりそうかな」って適当こいてたけど、本気で大丈夫かよ。失敗したら俺家から出られなくなるぞ。今更に藍曇は不安が染み出してきていた。
「……どちら様?」
母が怪訝な表情で画面を見つめている。これまた傍目には見破られたのか違うのか分かりづらい反応だった。
「母さん、ちょい見せて」
もう自力で確かめた方が早い。藍曇もインターホンへ近づき、半ば強引に母の横から画面を覗き込んだ。
そこには、小柄なぽっちゃり体型に黒髪の少年が、扉の前で所在なげにしている姿が映し出されていた。
「あー……まく、も、だっけ」
藍曇は危うく本名を呼びそうになって、適当に決めていた偽名でぎりぎり誤魔化した。母がスキャンボタンを押しながら「知ってる人?」と藍曇に振り向く。
マジでこいつ最先端の変化スキャンすり抜けてやがる。ミリオに内心驚愕しながらも、藍曇は母に頷いた。
「昨日の襲撃の時一緒に逃げた仲間」
「そうなの? あら、那川さんと同じ学校の制服ね」
「おう。魔物捲いた時山入ったって言ったろ。そこで帰りの道違うから住所交換して、無事に帰れたか確認し合う約束してた」
信用されるかギリギリで怪しい説明だが、今の所母と擬態したミリオを会わせられる道は他に思いつかなかった。
世界各地にて不意打ちで起きる魔物による災害に際し、居合わせた人員がSNSアカウントや連絡先を交換しておくことは珍しくない。逃げる時にも周辺情報をやり取り出来るし、万一行方不明などになった場合、SNSなら拡散、連絡先なら一応の安否確認と家族などへの連絡が行える。
とはいえ、家の住所とは、余程親しい相手でもなければ普通は交換しない。いくら魔物という非常事態であっても、後々のリスクが連絡先だけより高いからだ。どちらかが魔物にマーキングされていた、などともなれば、安否を確かめに行くのは一網打尽にされる危険度が跳ね上がりもする。
藍曇とミリオの賭けだった。制服でそこそこ近所である可能性を示唆しつつ、藍曇の体質というイレギュラー要素などに母が引っかかってくれることを期待した、なかなかの綱渡りだ。
「……」
母が画面の向こうの少年と、藍曇を見比べる。まあ疑問が残って当然とは思うが、藍曇は内心かなりヒヤヒヤしていた。
駄目か? いいのか?
「ちょっとお話していいかしら? まだ登校まで時間あるわよね?」
「あー、おう」
よく分からないが、母はインターホンのマイクに「もしもし」と話しかけた。そこで擬態したミリオがびくっと顔を上げ、「はい」と返事をした。
演技なんだろうか。ミリオはなかなか調子の良い部分があるので、ノリでやらかそうと不思議ではないが。藍曇は思いつつ、母が「少々お待ちください」とマイクへ残し、玄関へ向かうのを追った。
チェーンを外して鍵も開け、扉を母が押し開く。ミリオは扉の前で、緊張した面持ちで直立していた。
「息子から、昨日一緒に行動したとお伺いしていますが」
「あっ、はい! あの、藍曇君は……」
「はい、無事です。お会いしますか」
母の顔を一生懸命見上げる小柄な少年は、無事の一言と共に母が藍曇を呼び寄せると、安堵の色を顔に浮かべた。演技なのか、第一関門を突破した喜びなのか、いまいち藍曇には判断がつかなかった。
まあ、どうにしろ母との顔合わせは成功したのだ。悪くはなかろう。藍曇は母の後ろからひょっこりと顔を出し、ミリオの擬態姿を眺めた。
あれと同一人物だとは、まさか誰も思うまい。身長が三分の二程度になった代わりに身幅が三割ほど増し、くりっとした茶色の眼以外は全て小ぶりにまとまっている。顔も輪郭が丸く、しかもふっくらとした頬肉がついている。
黒いストレートの短髪に覆われた丸っこい頭まで、藍曇のイメージそのままだった。まあ、今のミリオの姿は藍曇のイメージをトレースしたから当然と言えばそうなのだが。その少年が、藍曇の想像していた通りの人なつっこそうな笑顔を浮かべた。
「良かった……僕もおかげさまで、家に帰れました。ありがとうございます」
「お互い様だろ。無事で俺も安心した」
打ち合わせで作っておいた台詞を手早く言い合う。母の信用が固まるかは微妙な所だが、沈黙してしどろもどろよりはマシだろう。
「ええと、あなたも今日学校に行くの?」
「江角真雲と申します。学校に安否確認をお伝えしなければならないので……」
「偉いのね。息子がお世話になりました」
「こちらこそ……彼が囮をしてくれなかったら、僕は攫われてました」
おい話盛るんじゃねーよ。藍曇は母に見えないのを良いことにミリオ――人間名、真雲をじろりと睨んだ。しかしミリオは気にした様子もなく、「ありがとう」などと笑顔で告げるのだった。藍曇は口元が引きつりかけた。
「まあ……藍曇あなた、そんな柄にもないことしてたの」
「柄にもないは認めるけどな!」
母からも随分な評価を頂き、微妙な気分になる藍曇だった。
「江角くん。あなたも気をつけてね。もしものことがあったらここに逃げてきてもいいから」
「そんな、いいんですか?」
「逃げられる場所は多い方がいいでしょ?」
と、母が優しい表情で真雲に告げる。意外な良い話運びに藍曇は驚く。
「その代わり、あなたの家にこちらが避難させてもらうのもいいかしら?」
割とまずい話運びもついてきて、藍曇の心臓が悪い跳ね方をした。
「勿論です」
『安請け合いしていいのか!?』
そこに即答した真雲に、藍曇は思わず思念を送ってしまった。
『ここで断っては怪しいじゃないか。後で偽でも住所も書いて君に渡しておかないとね、手伝ってくれないかい』
『お前本当行動力あるよな。出来るかどうかは別として』
『母君に振り返られるよ。そろそろ戻って』
お前一番戸惑ってしかるべき奴なのに、なんでそんな順応してんだよ。頭を抱える心地になりながら、藍曇はとりあえず普段を装い切り上げにかかった。
「真雲、そろそろ学校行かねーと。お前俺よか遠いだろ」
「あっ、そうだね……! すみません、そろそろ失礼します」
「いいのよ、遅れたら学校が騒ぎになるかもしれないし。いってらっしゃい」
「はい。ありがとうございました」
真雲はぺこりとお辞儀をして、小走りに右方向へ去っていった。ちゃんと事前に教えた方向だ。それを見届けてから、藍曇も靴を履こうと三和土に脚を下ろして、母に肩を叩かれた。
「今日はこっちの靴履いていきなさい。もうスニーカーは新調した方がいいわ」
「……」
買ったばかりのスニーカーを失った悲しみを、入学式以降履いていない堅いローファーで味わうのだった。
ともあれ、家族とミリオの関係を、不安要素はあれど表面上生み出せた。今後は知人を装って家で話したりなどの自由度と共に、拠点が作れたと見て良いだろう。
後は、本日の社会科見学でミリオが何をどう感じるかだろう。