風邪にはご用心 後編
夢現の狭間で漂っているだろうレイスは、去り行く私のスカートの端を掴んでいた。
無意識に出た、まるで引き留めるかのような行動に、私は驚きを隠せなかった。
しかも、しかもだ。
私の都合のいい勘違いでなければ、レイスは譫言みたく「スー」と、最近呼んでくれるようになった私の愛称を呟いたのだ。
「もしかして……『いかないで』って、意味かしら」
レイスはまだ、私の服の裾をしっかり掴んだまま離さない。私はにんまりと口元が吊り上るのが自分でもわかった。
普段は甘えなど片鱗も見せてくれない彼が、こうして年下らしい可愛げのある行動をしてくれるなんて。こんな貴重な言動を見られるなら、レイスには悪いが、風邪引きもたまにはいいかもしれないとか思ってしまった。
「……スー」
「私はここにいるわよ、レイス」
どこにも行かないわ――――そう告げれば、やっと服に絡む指先が緩んだ。それにまた笑いながら、私はベッドの傍に、木造りの椅子を持ってきて座った。
そのままなにをするでもなく、しばらくずっと、レイスのまだあどけない寝顔を眺めていた。
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うっすらと目を開ければ、随分とあの頃から成長して大人になった、現在のレイスの整った顔が視界に飛び込んできた。知らぬ間に団服の上着を脱いで、彼はシャツ姿になっている。こちらを覗き込んでくる鮮やかな赤い瞳。
頭はぼんやりとしていて、まだ夢を見ている気分だ。
彼の名を呼ぼうとしたが、張り付く渇いた喉では音にならなかった。「無理をするな」と、レイスが言う。
「水と……林檎を切って持ってきた。食えるか?」
備え付けのミニテーブルに、皿に盛られた林檎が置かれている。……無駄にウサギ耳つき。可愛いけど、本当に変なとこで器用かつマメよね、コイツ。
私は身体をゆっくりと起こして、返事の代わりに頷いた。頭に乗せた氷嚢はいつの間にかすっかり溶けてしまっている。後で替えも持ってくると言いながら、レイスはフォークに林檎を刺した。
そのまま、なんでもない表情で私の口元に運ぶ。
悪魔の件が片付いてから、天然タラシに覚醒したレイスは、こういうことを素でやる。私は熱とは違う羞恥で頬を染めながらも、大人しくそれに噛み付いた。
シャリと、小気味の良い音を立てて、溢れた果汁が喉を潤す。
甘くておいしい。
林檎を二つほど食べ終えたら、コップに注いだ水も薬と一緒に飲む。こちらはちゃんと自分で飲んだ。飲ませようとしていたレイスは、心なしか不満気な顔をしていたが、これ以上下手に熱を上げないでほしい。
「具合はどうだ?」
「まだ少し怠いけど、薬も飲んだし、直に治ると思うわ。咳や頭痛もないし。もともと、そこまで酷くはないのよ?」
貴方の看病が大げさなだけよ、と小さく笑えば、レイスは赤い瞳を尖らせて私を軽く睨む。
「そう言って、お前はいつも無茶をするだろう」
「それはこちらの台詞ね。貴方の方が無茶が多いわ」
「……子供の頃も、誘拐事件のときだって。なにかと無謀だったのはスーだ」
「悪魔と心中しようとした貴方はどうなの? 子供のときだって、風邪で倒れたのはレイスじゃない」
動かせるようになった喉から、軽口がポンポンと飛び出す。レイスは病人相手にこれ以上言い争う気はないようで、ハァと溜息を吐き出した。まだ残った林檎が乗る皿を持ち、彼は立ち上がってどこかへ行こうとする。
――――つい脳裏に浮かんだのは、さきほど見ていた夢のことで。
「スー?」
気づいたら私は、あの頃のレイスのように、彼のシャツの裾を掴んでいた。
「え……えっと、その」
咄嗟の行動だったため、上手い言い訳が思いつかない。本当に衝動的に手が伸びちゃっただけだもの。レイスは振り返って、驚いたように私を見つめている。
どうしたのかと、困惑気に瞳が訴えてくる。
……ああ、もういいわ。
過去の彼の代わりに、私は素直になってあげようじゃない。
「スーリア……?」
「その……い、いかないで」
「!」
「もうちょっとだけ、私が寝るまでは傍にいてほしい……なんて」
思うんですがどうでしょう……と、最後は照れが勝って、変な敬語がオマケでついてしまったが。効果はあったようで、レイスは鳩が豆鉄砲喰らったみたいな、呆気に取られた貴重な表情を晒していた。
一拍置いて、彼の怜悧な美貌に広がったのは、蕩けるような甘い笑み。
「ああ、お前が望むなら」
裾を握る私の指先をそっと解いて、彼は椅子に座り直した。再び机に戻された、皿の上のウサギ林檎がコロリと転がる。
よほど『いかないで発言』が嬉しかったのか、私の金茶の髪を柔らかく撫でて微笑むレイスは、心底幸せそうだ。
その昔と違う素直すぎる態度に、私は自分らしからぬ言動への羞恥と合わさって、そろそろ許容量の限界だった。たぶん、あの林檎の耳より顔が赤いわ。
リンスがここにいたら、「バカ夫婦」とか呆れられそう。
昔も今も、二人して本当、なにやってるんでしょうかしらね、私たち。
もうさっさと寝てしまおうと、私は枕に頭を預ける。レイスが布団を掛け直してくれたので、安心して瞳を閉じた。
「おやすみ、スーリア」
「……おやすみ、レイス」
でも、こんなふうにお互いの知らない一面を見られるのなら。
風邪引きさんの看病も、風邪を引くのも、どちらもやっぱり悪くない……かもしれない。
――――ちなみに後日。
完璧に風邪が治った私のもとに、ちゃぷちゃぷ尻尾を揺らしながら帰ってきたウォルは「ボクとスーと、あとスペースが余ったから仕方なく黒頭を描いたよ!」と、フェイくん指導のもとで制作した似顔絵を見せてくれたのだが。
「え、えーと、その、ど、独創的ね」
「……三つの色違いの毛玉にしか見えない」
「こらレイス! じょ、上手よ、ウォル! はじめてにしては上出来だわ!」
「わーい! スーに褒められたー!」
……出来に関しては、深いコメントは控えさせていただくわ。
ウォルの絵は寝室の壁に貼ったんだけど、今度はレイスを交えてお絵描き大会でもしようかしらと、私は元気になった頭で考えるのだった。





