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長い夢から覚めるような感覚だった。
意識がゆっくり現実へと手繰り寄せられ、瞼を開いてすぐ、私は自分の頬が濡れていることに気付いた。
レイスの記憶を見て、すべてを理解して、彼の奥底にある想いを知って。
私はいつの間にか……溢れ出る、言葉に尽くせない感情の奔流を涙に溶かし、静かに静かに泣いていた。
「……人の子が、誰かを想い流す涙とは、どうしてこんなにも胸を打つのだろうね」
森の緑を背後に背負う女王が、白雪のような指先を伸ばし、私の感情の雫を掬った。「精霊として長く生き過ぎている私には、もう流せぬものだよ」と、女王は切なげな笑みを落とす。
「さて、これから、そなたはどうしたい? 一度告げた通り、私の力を持ってしても、この騎士から悪魔を切り離すことは難しい。奥深くまで、悪魔が騎士の中に根を張っているからね。……ただ、出来得る限りのことはしたい。私は私の意思で、この騎士を救いたい」
「女王……」
「私は万物を為す神では無いから、救えぬ命もある。だが、生を尊び死を恐れながらも、大切な者のためになら命をも賭す、この者のような人間には、届く範囲で手を伸ばしたいのだよ」
女王の黄金の眼差しが、まだ微睡みの中に居るレイスの黒髪へと注がれる。
一瞬だけ、女王の言葉を聞いて、いつかの事件時のベルの慟哭が私の脳を過った。「どうして女王は妹を救わなかった」と彼は叫び嘆いていたが……きっと女王は、救えるものならば、リィさんの命だって助けたかったはずだ。
こうして少し話しただけでも分かる。
この精霊女王様は、たぶんどこまでも『人間』という存在が好きなんだ。
「しかしながら、私一人の力では及ばないこともまた事実。レイスを救うには、そなたの協力が必要だ、スーリア」
「私、の」
「ただそのやり方は、そなた自身を危険に晒す。とても危うい方法だよ。それでもやるか? レイスを救いたいと願うか?」
そなた自身はどうしたい――――と、女王は私に再度問うた。
ぎゅっと、傍らのレイスの、繋がる冷たい手を強く握る。
私よりも一回りは大きい、剣を持つ硬くて広い手。こんなにも力強さを感じさせるのに、私には傷ついて痛ましげにも思える指先。
どれほど辛かっただろう。
どれほど苦しかっただろう。
どのくらいの痛みに耐えて、レイスは悪魔に抗い続け、私に……『大嫌い』なんて言葉を吐いたのかしら。
想像するだけで、喉奥から嗚咽が込み上げ、また目許が緩む。
だけどもう、泣いてはいられない。
私は白い袖で涙を乱暴に拭い、女王と確と瞳を合わせた。
覚悟なんて当に決まっている。
「……私は、レイスに生きていて欲しい。彼を救いたいです。そのために私に出来ることなら、なんだってします」
レイスがずっと、私を守るために戦っていたというのなら。
今度は私の番だ。レイスを何があっても、死なせなどしない。悪魔と心中なんてさせるものか。
――――そして。
「必ず二人で、王都の教会に……いえ、アルルヴェール領へと一緒に帰ります」
……きっとレイスはずっとずっと、本当の意味で、自分の居場所である、あそこへ帰りたかったに違いない。アランおじさまが居て、リコラの花が優しく咲く、私と共に育ったあの領へ。
私はきゅっと唇を引き結んだ。
葉音が柔らかく耳につく。静寂を乗せて揺れる水面。周囲の精霊達は息を潜めて、私と女王の間に横たわる、束の間の沈黙を見守っている。
やがて女王は、甘い花の香りを纏ったまま、「そなたなら、そう言うと分かっていた」と、白銀の髪をふわりと掻き上げた。
「その方法は今から教えよう。成功するかどうかは、そなた次第なところが大きい。失敗すれば、そなたは死ぬことになる。それでもやるね?」
「はい」
一も二も無く頷けば、女王は艶やかな唇を持ち上げて微笑んだ。
●●●
サラサラと、光を浴びればなお色艶を増す、レイスの黒髪を撫でる。
泉の辺に、精霊姫の白いドレスの裾を広げて座り込み、レイスの頭を膝に乗せて、私は今、彼の目覚めを待っていた。
「……なんだか、こんなふうに貴方の髪を梳くのは、酷く久しぶりな気がするわね」
返事は来ないと分かっていても、私は彼の端整な顔に自分の影を落としながら、そっと呟きを零した。
木々の合間から注ぐ光の中に居るのは、私達二人だけだ。
これから為すことに、精霊達の存在は些か邪魔になる。そのため、ウォルも女王も、一旦気配ごと消してもらっている。
私の傍には、地に刺さって立つ女王の宝剣。これは必要なものだから、近くに留めて置いてある。
レイスを悪魔から切り離し、救うため。
その準備は整った。
あとは……目を覚ましたレイス本人に、この『方法』に協力させるだけ。
ただ、私の命に危険が及ぶようなやり方を、レイスが良しとするはずが無いだろうから、彼を説得するという役割がまず私にはある。
女王は相当強い気を当てて、レイスの中の悪魔を眠らせたそうだから、レイスが起きても悪魔が目覚めるまでには、僅かに時間が生じる。その間に、私はレイスに状況を伝えて、彼自身に『悪魔を解放』させなくては。
……レイスと面と向かって色々と、嘘偽り無しで話したいことがたくさんあったから、ちょうどいい。
「ねぇ、レイス。起きたら、私は貴方に言ってやりたい言葉が、山のようにあるわ」
指の隙間から、滑らかな黒髪が滑り落ちていく。
昔、木陰で一緒に本を読んでいたら、いつの間にか寝てしまったレイスに、こっそり膝枕をした思い出が脳を過った。
目を覚ました貴方はあの時、珍しく狼狽していたわよね。
そう思い返すと場違いにも可笑しくなって、私は口元を緩める。
眠っているレイスの顔は怜悧な印象が薄れ、存外幼く、嘘のように穏やかだ。
この先のことを考えると、薄らと張り付くような恐怖は、確かに私の背を這うのに、それよりも私は早く、レイスと話がしたくて仕方がなかった。
素足に触れる、青々とした草木は少し冷たい。触れるレイスの身体も、同じくらい体温が無くて冷ややかだ。
でも私はもう、貴方の隠してきた熱を知っている。
レイス。ねぇ、レイス。
私は今、何度でも貴方の名前を繰り返し呼びたいの。
本当はずっと、レイスは私のことを――――
「……っ」
「――――レイス?」
膝の上に感じる、心地の良い重みが揺れた。穏やかだった寝顔は歪み、純白の騎士服を纏うレイスが、微かに身動ぎをしている。
一瞬だけ、肌が強張り緊張が走った。
程なくして、レイスはゆるりと瞼を押し上げ、血のように赤い瞳で私を捉えた。





