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俺が駆け付けたときにはすでに遅かった。
スーリアは攫われたあとで、教会の庭には鳥の姿をした光の精霊達が、忙しなく月光の中を飛んでいるだけだった。
――――間に合わなかった、己の失態を悔いている暇は無い。
俺は乱暴に掴んできた外套を羽織り、月明かりを避けるようにフードを深く被って、闇夜の中を一心不乱に駆けた。スーリアの気配を水の精霊に辿らせ場所を突き止め、報せを受けて集まった使徒達よりも先んじて、ただアイツの無事を願って足を動かした。
水晶は俺の彼女を想う激情に合わせ、荒れ狂う悪魔の力を溜め、急速に濁りを増していったが、それを気に掛ける余裕も無い。
ようやく着いた倉庫の扉を押し開き、「スーリア!」と形振り構わずアイツの名を呼べば、視界に飛び込んできたのは……縛られ床に伏すスーリアと、犯人の男が共に居るところで。
俺は男が放つ黒い蝶を剣で切り裂き、そのまま血が煮えるような怒りを刃に乗せ、男を殺すつもりで切り込んだ。躱され追撃を取る前に、こちらを呆然と見つめるスーリアに気付き、俺は彼女の前に膝をついた。
「レイス……」
「スー……無事で……っ!」
思わず愛称を口にし、彼女に大きな怪我等も無いことに安堵の息を吐いた。
……スーリアの泣き顔を見るのは、俺が泣かせてしまった、あの日以来だ。
その涙を拭おうと彼女の頬に手を伸ばすが、またしても寸でで腕を引いた。
こんな時でも、俺は彼女に触れられない。
その代わり、小窓で月光の具合を確認し、外套を脱いで渡した。「遅くなって悪かった」と、謝ることくらいは許して欲しい。
その後は、物珍しげに俺を見る、犯人の悪魔憑きである男と短い会話を交わし、奴との攻防が続いた。俺と自分を『同じ』だと称する男に、苛立ちが募って仕方がなかった。
……俺は望んで、悪魔憑きになどなったわけじゃない。
水の精霊を呼び寄せられたおかげで、黒い蝶から被害者達を庇う必要もなく、自由に動けるようになった俺は、降り注ぐ黒い刃の攻撃を避け、男との距離を詰めていった。
戦闘面での分は、悪魔のせいで膂力も上がり、騎士団で鍛えた俺にある。
だが焦った相手の苦肉の策により、不意を突かれ、身につけていた精霊水晶を砕かれてしまう。
「ちっ」
苦々しく顔を歪め、俺は短く舌を打った。
今まで抑えつけてきた反動か。一気に体内で悪魔の力が暴れ出し、主導権を取られかけた俺の身体はほんの一瞬、男に向けている剣の切っ先をスーリアに変えようとした。
わざと敵の刃を身に浴びせ、俺は痛みで正気を引き戻した。あとは気力だけで再び悪魔を抑え込み、なんとか男を地に伏せさせる。
これで勝負はついたと思った。
けれどここから、不完全な契約を結ばされていたらしい男の、悪魔の暴走が始まった。
黒い沼に男が沈む。
生き返らせたかった大切な者の名を繰り返し、もがく男の身体は、じわじわと悪魔の胃の中へと引き摺られていく。
その様子を、ようやく追い付いた使徒達やスーリアは、憐れみを孕んだ瞳で静視していたが、俺は何の感慨も抱きはしなかった。
自ら望んで醜悪な悪魔を受け入れた男に、同情の念など浮かびもしない。
使徒達の救助を拒絶し、俺は月光を避けるように隅の壁に凭れた。内の悪魔を落ち着けようと胸元を押さえ、呼吸を整えながら、額に張り付く黒髪の隙間から、男の末路を無感動に眺めていた。
その男を救おうと、被害者の中から一人の女が沼に飛び込んだときは、些か驚いたが。
確か精霊姫の指導役を担っていたその女は、犯人である男の恋人だったようで、共に沼底へと落ちて行こうとしていた。
そこで――――動いたのがスーリアだった。
「後味が悪過ぎるわ……っ!」
そう吐き捨てるように言って、俺の渡した外套を羽織り、沼に向かって裸足で駆け出した彼女に、俺は声にならない制止の声を挙げた。無理やり自由の効かない身体を起こして、俺が止めに入る前に、スーリアは女王の宝剣で沼を打ち消そうと試みていた。
失念していた。
アイツはこういうとき、咄嗟に誰かのために『動けてしまえる』人間だった。
短い間でも関わった相手である、あの女を助けようと、進んで無茶をしそうなことなど、少し考えれば予想がつく。
俺の声など彼女に届きはしないと分かっていても、俺は「スーリア!」と名前を叫ぶように呼んだ。
最終的には、悪魔の断末魔の悲鳴が倉庫内に反響し、スーリアの目論見は成功した。黒い沼は跡形も無く消え、犯人の男たちも無事だった。
しかし、霊力を使い過ぎたらしいスーリアは、金茶の髪を乱したまま、ゆっくりとその場で糸が切れたように崩れ落ちた。
今すぐにでもそんな彼女の傍に行き、その身体を受け止めたいのに。
精霊水晶という枷を失い、いまだに蠢く悪魔の脅威を抑えきれていない俺には、スーリアに近付くことすら不可能だった。
刃に切られた怪我などで痛みは感じない。スーリアを危険な目に合わせないと誓ったはずなのに、こんな事態に巻き込ませ、悪魔のせいで碌に気遣うことさえ出来ない、己の不甲斐なさがただただ痛かった。
アイツに駆け寄る使徒達や水の精霊を、胸元を押さえつけ唇を噛み締め、遠くから見つめるだけ。
――――今更だ。
本当に今更だが、思わずにはいられなかった。
どうして俺は、スーリアの傍にすら行けないのだろう。
なぜ俺は、アイツに心ある言葉一つさえ紡げない。
なんで俺は。
「くそっ……!」
倒れる直前に、彼女と目が合ったような気がしたが、俺は服の上から、胸元に鋭い爪を立てて俯いた。
彼女に触れることも出来ない己が、ただただ惨めで呪わしかった。





