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「スーリア、ちょっといいかい?」
「どうしたの? 父さま」
書庫室で資料の整理をしていた私は、突然現れた父さまに首を傾げた。業務中は結い上げている金茶の髪が、一房だけハラリと肩に落ちる。
眼鏡に灰色のベストを着た仕事姿の父さまは、一見すれば気弱に見える相貌に笑みを湛え、手招きで私を呼んだ。周りに花でも飛んでそうな、のほほんとした雰囲気なのに、この領主様の屋敷内で一番の『切れ者』として信頼を集めているのだから、尊敬できる父である。
……たまに少々、親バカだが。
「旦那様がスーリアをお呼びだ。整理は後にして、今すぐ執務室に向かっておくれ」
「旦那様が?」
旦那様といえば、この屋敷の主にして、治安の良さと作物の豊かさを誇る我がアルルヴェール領の領主様・ジオルド=アルルヴェール様のことである。
「ああ。スーリアにとっても良い報せがあるんだ。いや、流石は私の娘だ。とても素晴らしいことだよ、これは」
「えっと……?」
「詳しいことは旦那様から聞いてきなさい」
にこにこと機嫌のすこぶる良い父さまに、私は何がなんだか分からないまま、書庫室をやんわり追い出される。
ひとまず解れた髪を直し、私は領主様の元に向かった。
18歳になった私・スーリア=バレットは現在、領主様のお屋敷で使用人見習いをしている。父さまの補助的な仕事をすることもあれば、メイドさん達の日常業務の手伝いに入ることもあり、忙しいがそれなりに充実した日々を送っている。
…………年頃の娘らしく、恋人と呼べるような存在はいないけど。
私は『奴』と決別して以来、どれだけ魅力的で素敵な男性を見つけようと、そういった感情を抱くことは一切無かった。トキメキの『ト』の字すら感じない。
親友には「枯れてる! 枯れてるわよ、スー!」と嘆かれたが、別にいいのだ。
私には恋人など居なくとも、いつだって呼べば傍に現れてくれる、少し特別な友人も居る。
「ねぇ、スー。今から『リョーシュサマ』のところへ行くの? ボクも会って話してもいい?」
「そうね、たぶん旦那様なら、嬉々として話したがるとは思うけど。一応、どんな用事か分からないから、許可がもらえるまでは出てきちゃダメかしら」
「えー」
廊下を歩いている途中。
何も無い空間から、空気の揺らぎと共に現れたは、私の友人である水の精霊・『ウォル』だ。
宙を浮く彼は、見た目は狐によく似ていて、トンガリ耳に薄い水色のふわふわの毛。箒のような尻尾は、半分が透明な水状になっていて、尻尾を振ると『ふさぁ』ではなく『ちゃぽんっ』と水滴が跳ねる音がする。
そんなふうに身体の一部が水の塊になっているウォルは、水を生み出し自在に操ることが可能だ。
――――『精霊』とは自然を司る生き物。
そしてその精霊たちと心を通わせられる人間を、『精霊使い』と呼ぶ。
精霊使いは先天的に『霊力』というものを持っており、その力を行使することで、精霊を呼び出したり、その力を借りたりすることが出来る。
私の住む、周囲を山々に囲まれた小国・『ナーフ王国』は、古くから精霊たちが住まう土地として、『精霊信仰』なるものが存在する。この国の豊かな自然は、精霊による恩恵だと信じられており、実際に土地を守護する彼らのおかげなのだ。
この国の人たちは、とても精霊を大切にしている。
そしてその精霊と繋がれる精霊使いは、霊力の強さに差はあれど、身分の貴賤なく重宝される。
「じゃあお菓子だ! リョーシュサマとの用事が終わったら、僕とおいしいお菓子を食べようよ、スー!」
「それもダメよ。まだ仕事中だもの」
「ダメばっかり!」
「帰ったら、ウォルの好きな木苺のパイを作ってあげるから」
ウォルは翡翠色の瞳を輝かせ、「それならいいよ、約束だよ!」と言い残して姿を消した。
精霊だから人間の食べ物なんて食べる必要はないが、なぜか私の出会った精霊は全員、生粋の甘い物好きだ。ねだられて、昔は不得手だったお菓子作りが上達してしまった。
私が自分の力に完璧に目覚めたのは17の時。
一番最初に、私の呼び掛けに応えてくれた精霊がウォルだった。
精霊使いと精霊は相性が重要になってくるので、どの精霊とでも交流が図れるわけではない。
私は水の精霊とは相性がいいようで、ウォルの他にも、水を司る精霊なら呼び寄せ力を借りることが出来るが、初めに懐いてくれ友達になったウォルはやはり特別だ。今では相棒と言ってもいい。
木苺のパイのレシピを思い出しながら廊下を進み、目的の場所で立ち止まる。
「さて」
改めて身形を整えて、重厚な扉をノックする。「入りなさい」という扉越しでも分かる凛とした声に従って、私は一声かけて入室した。
周囲の壁は一面が本棚。真ん中には、小さなテーブルを挟んで相対して置かれている、質の良いソファー。
入って正面には、ビロードのカーテンが揺れる大きな窓があり、そこから差し込む陽を背後に、優雅に椅子に腰かけているのが、我らが旦那様だ。
彼の前の執務机には書類が隅に積まれ、ティーセットとお菓子(奇しくも木苺のパイである)が置かれていることから、ちょうど休憩に入るところだったようだ。
「急に呼び出してすまないね、スーリア」
「いえ、それでご用件とは?」
傍まで来て相対し、すぐさま本題に入る。
間近で見るとやはり、まだ昼間だというのに旦那様の色気は凄まじい。
後ろに撫でつけた銀糸の髪に、涼やかな青の瞳。整った甘い相貌に、中年男性の落ち着きを加えた、まさに色男。
旦那様が亡くなった奥様一筋なことは、領民なら誰でも知っているが、それでも貴婦人方からの羨望を一身に集めるだけはある。『奴』のせいで、顔の良い男には若干トラウマのある私ですら、クラッとくる色香だ。
そんな旦那様は賢領主としても名高く、また、私と同じ霊力保有者でもある。そこまで力は強くないようで、精霊使いの認定は受けておらず、精霊の存在をなんとなく感じられる程度らしいが。
「そうだね。勿体ぶっても仕方ないし、手早く言ってしまおうか」
そして旦那様は薄い唇を綻ばせ、私が予想だにしていなかった言葉を口にする。
「――――おめでとう、スーリア。本年の『精霊姫』に、君が選ばれたようだよ」
「へっ?」