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意識が戻ったら、目の前で女が死んでいた。
血に沈むこの女に攫われ、何かされた覚えは薄らとあるのに、交わした会話も朧気で、碌に思い出せなかった。
胸元はズキリと痛むが、小屋の窓ガラスに映る俺のそこには、特に怪我なども見当たらない。身体のどこにも異常は無いようだった。
ただ足元に広がる陣は悍ましく、女の死体と共に居る空間は醜悪で。
衝動的に俺は小屋を飛び出して走った。
森の中を走って走って。やがて光の当たる場所へと抜けられた。
そこで、偶々通りがかった商人の一団に保護された俺は、俺を蔑む奴らの元に戻る気は起きず、適当な嘘を並べ、自国に帰るとこだったらしい商人達の馬車に乗せてもらった。
自国であるナーフ王国には、商人達の頭の、知り合いの男が運営する孤児院があるそうだ。
信頼できる男だそうで、俺はそこに預けられることになった。
「名前はレイスっていうのか。……こんなに小さいのに、大変な思いをしてきたんだろうな。今からはここがお前の家だから、まぁ気楽にやってくれ」
「ただし家事の手伝いとかはしてもらうぞ!」と朗らかに笑ったアラン院長は、その大らかな慈愛を、俺のような得体の知れない、小汚い餓鬼にも平等に注いでくれた。
他の孤児院の奴等には、俺の痩せ細った身体や容姿の色合いを見て気味悪がられたが、それでもやっと少しだけ、落ち着いて呼吸が出来る場所に来れたと思った。
そんな折のことだ。
「俺の古い友人の娘さんだ。利発そうなお嬢さんだろ? スーリアちゃん、こいつが新しく入ってきたレイスだ」
「はじめまして。よろしくね、レイス」
――――俺が、スーリアに出逢ったのは。
●●●
スーリアは俺より二つ年上で、育ちの良さが窺える綺麗な身形と所作とは裏腹に、ハキハキとものを言う闊達な少女だった。
父親と一緒に孤児院を頻繁に訪れる彼女は、面倒見も良く、孤児院の連中には姉のように慕われていた。
そんなスーリアは、周囲から浮き気味な俺が気になって仕方ないらしく、とにかく俺を構い倒してきた。
「ねぇ、レイス。今日はとても天気が良いわ。偶には外に遊びに行かない?」
「アランおじさまが、貴方があまりご飯を食べないことを心配していたわ。おじさまの創る料理はとても美味しいのよ? もっと食べなきゃ勿体ないわ!」
「貴方が本を好きだと、おじさまから聞いたの。一緒に読みましょう」
最初は正直、それが鬱陶しくて面倒で。
煩わしいと本気で思っていた。
だけど……いくら跳ね除けようとめげない彼女に、俺は動きを止めていた自分の感情が、徐々に解れていくのが分かった。
スーリアに「レイス」と名を呼ばれるのは、嫌いじゃない。
むしろ、彼女が呼ぶ度に、自分の名前がちゃんと色を持って響いて、それが暖かくもむず痒く、俺は情けなくも困惑した。
スーリアが外に連れ出してくれたおかげで、俺は木登りとは意外と難しいことを知った。
彼女はスカートを捲し上げ、スルスルと大木の頂きまで登る。孤児院の中では誰よりも……悔しいことに俺よりも、彼女は木登りが上手かった。
「淑女の嗜みよ」と自慢げに胸を張っていたが、アイツの母親からは「淑女らしくなさい!」と怒られていた。シュンと項垂れている彼女に、俺は口角が知らずに緩んでいて、自分でも驚いた。
スーリアの勧めで、アラン院長の料理をちゃんと味わって食べてみたら、遠い昔に死んだ母が創ったものと何処か似ていて、久方ぶりに『美味しい』という感覚を思い出した。
前の家では何を食べても同じ味だったのに。本当に不思議だった。
孤児院の一部の奴等がスーリアのことを「スー」と愛称で呼び、スーリアがそれに返事をすることが、何となく気に入らなかった俺は、葛藤の末に自分でもそう呼び掛けてみた。
「どうしたの? レイス」と、彼女が目を見開いて振り向いてくれたことに満足し、僅かだが浮かべられるようになった笑みを零せば、彼女は嬉しそうに俺に抱き着いてきた。
咄嗟に引っ剥がしてしまったが、また呼んでみようと、そう思った。
アラン院長とスーリアが、俺の誕生日を祝おうと、こっそり企画を立てたこともあった。
誕生日なんてものは久しく祝われておらず、正確な日が曖昧で教えていなかったら、孤児院に俺が来た日をそう位置づけようと、スーリアと院長が相談して決めたらしい。
食堂に行けば、真っ赤なリコラの花を不意に浴びせられた。
「レイス、誕生日おめでとう!」
スーリアが悪戯っぽく祝福してくれたときは、表には出さなかったが心臓が盛大に跳ねたものだ。
いつもより豪華な料理に、飾り付けられた部屋。スーリアが他の連中にも手伝わせたとか。この頃になると、俺と普通に接しているスーリアの影響で、俺の存在は孤児院の奴等にすっかり受け入れられていた。
彼女は俺の傍にいそいそと来て、金の鎖にリコラの花を象ったペンダントをくれた。俺の瞳の赤によく似ているし、魔除けにもなるのでプレゼントを兼ねてお守りにと。
「……なんで女ものなんだ。まぁ、いいが」
そう素直ではない言葉を吐きながらも、絞り出すように小声で「ありがとな……スー」と呟けば、彼女はゆるゆると頬を緩めた。
そして俺の横に座り、「ねぇ、レイス。貴方は今、幸せ?」と尋ねてきた。
「父さまがね、素敵なことを教えてくれたの。ちょっとした時にね、『ああ、幸せだなぁ』って感じたら、口に出して言葉にしてみるのが、人生を楽しく生きるコツらしいわ。人の言葉には力が宿るのですって。私は今、貴方の誕生日を祝えて幸せよ。貴方は? レイスは今、幸せ?」
灰がかった薄青の瞳に期待を込めて、俺の顔を覗き込む彼女を見ていると、胸が詰まって言葉が出なかった。
――――目の前のスーリアに触れたい。
そう、強く感じて。
だけど同時に、これ以上は踏み込んではいけないような。
そんな警告染みた予感に襲われ、俺は口も指先も動かせず、黙ってペンダントを手に納めたまま俯いた。
スーリアはそんな俺の手に自分の手を重ね、答えはもう促さず、「レイスの手は暖かいわね」と微笑んだ。
あのときは言えなかったが……俺は確かに『幸せ』だったのだと、そう思う。
スーリアを守りたいと思って、守れる自分でありたいと思って、アラン院長に剣術や体術の指南を頼み、スーリアの父に学問も進んで習った。
その理由をスーリアに尋ねられたこともあったが、明かせるはずもなく誤魔化した。
アラン院長はよくスーリアのことで俺をからってきて、反抗してやりたいのに上手くいかず、悔しい思いをすることも多かった。
スーリアからもらったペンダントは、肌身離さず身につけた。
彼女の……スーリアの存在は、出逢ってからどんどん俺の中で大きくなっていき。
叶うならばずっと傍に居たいと、そう願うようになって。
だがそれに合わせて、誕生日の際に聞こえた謎の警鐘音も、日に日に頭の中で激しく鳴り響くようになった。
どうしてだろう、何故だろう。
穏やかで優しい日々が過ぎるほど。
スーリアを想う気持ちが増すほど。
俺は思い出してはいけない『何か』を呼び起こしそうで、静かな恐怖に侵食された。
――――そして、恐れていた崩壊の瞬間は、あっさりとやってくる。
『愛する者が出来たのか? あの女が大切なのだろう。それならば契約に従い――――今すぐ、あの女を殺さなくては』
そんな『悪魔』の声が脳髄を直接這い、眠っていた俺の記憶は甦った。
次いで俺は、嫌でも理解させられてしまった。
俺とスーリアは、決して共には在れないのだということを。





