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なんでマリーナさんが?
こんな夜に、貴族の娘さんであるマリーナさんが、護衛もつけずに一人で歩いているのがそもそもおかしい。それだけでなく、遠目からでもぼんやりとした様子が分かり、普段からしっかり者なマリーナさんに、明らかな異常が起きていることが見て取れる。
そんな彼女の目線の先には――――黒い蝶。
光の精霊はマリーナさんを指し示し、「彼女を助けて!」と訴えてくる。『彼女』とはどうも、マリーナさんのことだったようだ。
涼しい夜風を受けているはずなのに、頬に嫌な汗が伝う。
私の脳内に、一瞬にして様々な選択肢が踊った。
誰かを呼びに行く?
駄目だ。目を離した隙に、マリーナさんが消えてしまう。
ここから大声で呼びかけてみる?
きっと彼女は反応してくれない。意識が混濁している。
ウォルに止めてもらう?
光の精霊たちは『近寄れない』と言った。たぶん彼女の周辺には、あの黒い蝶を通して悪魔の力が働いている。力の弱い精霊は傍にさえいけないようだ。
いくつもの自問自答を瞬きの合間に繰り返し、辿り着いた答えは一つだ。
事は一刻を争う。
どうやら腹を括るしかない。
「……ああ、もう!」
――――此処は私が行くしかないじゃない!
室内着である、軽い布地のスカートをたくし上げ、ガッと私は窓枠に足を乗せる。裸足だが気にしていられない。
高いところはわりと得意だ。どっかの騎士様には『ガサツ』と評価を受けたこともあるように、私の小さい頃の特技は木登りだった。
もちろん、幼少期の話。
今この二階から普通に飛び降りたら、私は確実に怪我を負うだろう。そこまでの高さは無いとはいえ、足でも折れば間抜け極まりない。
だから。
「ウォル! さっきの水泡みたいなの、この窓の下に作れる? 私を受け止められるくらい、大きいの! ほら、前にもやったでしょう!?」
「え、えっと、ずっと前にスーのお部屋で、『水のベッドを作りましょう!』って試したやつ? スーが飛び込んだら水の塊がハジケて、部屋が水浸しになって、スーのお母さんにすっごく怒られた?」
「それよ!」
まだやんちゃさを残す時代の黒歴史だが、あれなら衝撃を殺せるだろう。
本当ならリック君のような風の精霊に頼めたら、風で落下を緩め、もっとスマートに着地できるのだろうが。生憎、その手は使えない。
でも、ウォルとならいくらだってやり方があるんだから。
それに派手に水音でも立てられたら、誰かが来てくれるかもしれない。
――――そうこうしている間にも、マリーナさんは蝶を追う。
「ウォル!」
「任せて!」
むむむと、ウォルが全身に力を入れて念じれば、眼下にたくさんの水泡が集まって、すぐに一つに収束する。
水がプルンと平ためなドーム状に固まって、あっという間に透明なクッションの出来上がりだ。
「いい? ウォル。私が飛び降りたら、すぐに誰かを呼びに行って。レイスでも、ロア君でも、他の使徒さんでもいいわ。適当に掴まえてきて!」
「わかった!」という返事を耳にしたのと同時に、私は両手に剣を抱えたまま窓枠を蹴った。宝剣はそれこそ護身用だ。何かの役に立つかもしれない。
襲う刹那の浮遊感。
身体の芯がキュッと竦む感覚は懐かしい。
水の塊は上手く私を受け止めてくれ、一拍の間に、鈍い破裂音を立てて四散する。
辺り一面、私も含めてびしょ濡れだ。それでも構わず、水分を含んだスカートを翻し、片手に剣を引き摺って、顔に張り付く髪を払い走る。
正直、黒い蝶に近付くのは本能的に怖くて嫌だったが、『今ここを何とか出来るのは私しかいない』という、焦りに似た使命感が私の背を押す。
それにロア君は、精霊姫である私には『女王の加護』があると言っていた。
それがどんな風に働くのかは分からないが……万が一、このまま巻き込まれても、マリーナさんの傍に私が居る方がきっといい。
大丈夫、大丈夫、大丈夫!
そう自分に言い聞かせて私は足を動かす。
足裏には土の感触。
遥か頭上にはほとんど満月に近い月。
「マリーナさん!」
花壇の花や草を掻き分け、鉄柵の間に腕を滑り込ませて、辛うじて私はマリーナさんの細いしなやかな手首を取った。
「あら……? ここは? スー、リアさん?」
「しっかりしてください、マリーナさん!」
「おかしいわね……家にあの人が来て、密かにあって話したいことがあるって……それで……。どう、したんだったかしら? そう、あの人が……ああ」
まだ瞳に陰りを残し、何処か夢現といった様子のマリーナさんは、黒い蝶の方を指差してニコリと笑う。
「なんだ、此処に居るわ。私の恋人」
とろりとした眼差しで、そんなことを微笑みながら言うマリーナさんにゾッとした。
彼女は幻覚を見ている?
黒い蝶が、恋人の姿を模っているように映っているのか。
「ごめんなさいね、彼が呼んでいるからもう行くわ」
「ま、待ってください! 駄目です、行っちゃ駄目です!」
やんわり私の手を解こうとするマリーナさんを、私は片手で必死に引き留める。一瞬、彼女の意識を引き戻せたかと思ったのに、マリーナさんはまだ悪魔の夢の中に居る。
援軍はまだ来ないの? 遅いわよ!
脳内で悪態をつきつつ、マリーナさんを掴む手に力を込める。ここで離してはいけない。彼女の正気を呼び越そうと、私は彼女の名前を何度も呼んだ。
だが、黒い蝶はそんな私の存在が邪魔だと認識したようだ。
鉄柵をスルリと抜けて、蝶が私の眼前に迫る。
しまったと思い、剣で払おうとしたが遅かった。
ポタリと私の髪から雫が落ち、地面に吸い込まれていったのを見咎めたが最後。
――――私の意識は闇に呑まれた。
いつもお読み頂けありがとうございます!
次回から『解明編』になります。





