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「スーリアさん、今日の特訓はこのくらいにしておきましょう」
「え……もう終わりですか?」
「はい。ほとんど完璧に近いです。動きも洗練され、調子が良いようですね。昨日は良い息抜きが出来たのでしょうか? これなら予定より、早めに仕上がりそうです」
黄金の瞳を優しげに細め、マリーナさんは手を叩いて終了の合図をした。
私は手にした宝剣を放り投げ喜びを表しそうになり、慌てて剣を抱え直して礼を取る。ふふっと小鳥の囀りのような笑い声を零すマリーナさんは、今日もお淑やかで美人だ。さっきまでは鬼畜だったけど。
真白な床が広がるだけの殺風景な空間で、連日行われた特訓もいよいよ終盤だろうか。
私は剣を傍の壁に立て掛けたあと、捲り上げた腕の袖を下ろし、汗で顔に張り付いた金茶の髪を払った。視界が明瞭になったところで、私はふと、マリーナさんの細く白い指に目を留める。
「……マリーナさん、その指輪」
「あ、あら、気付いちゃいました?」
マリーナさんの薬指には、一昨日までは無かった、彼女の瞳の色を彷彿させる、シトリンを加工した指輪が嵌っていた。歴とした貴族である彼女には、些か安い代物のようにも感じるが、私には十分高価で綺麗だ。
「もしかして、恋人から、とかですか?」
「そっ……そう、なんです。実は先日、頂きまして」
仄かに頬を染めるマリーナさん。
昨日、用事があると言っていたのは、恋人さんと約束があったということか。
その恥じらいながらも、隠しきれない喜びを全身から醸し出す様子が、普段の大人びた雰囲気を乙女感たっぷりなものに塗り替える。
何かしら、マリーナさんが凄く可愛いわ。
「お相手も貴族の方ですか?」
「いいえ。他国で知り合いました、教育者の方です。実は私はこの『聖鐘節』に入り、精霊姫の指導係として呼ばれるまでは、勉学のために他国に出ておりまして。そこで知り合いました」
精霊姫が選ばれ、女王と謁見が許される日。
その定められた日までの、準備期間として設けられる期間を『聖鐘節』と呼ぶ。今はその真っただ中だ。
「少々年上で、目の不自由な方なのですが、彼も故郷はこのナーフ王国だということで、話が合いまして。仲が次第に深まり……聖鐘節に入り、私が国に戻る際、彼も共にこちらへ来てくれたのです。私は三女ということで、貴族の身でありながら、姉さま方のように決められた相手を今まで作らず、我が儘を通して好きな勉学に打ち込んでまいりました。精霊姫としての役割を終えたあとに、すぐに他国へ出たのです。こんな勝手な娘の連れて来た相手を、家族はすぐ気に入り、皆が祝福してくれました」
「それは……素敵なことです。お相手の方も、きっと素晴らしい方なのでしょうね」
「はい」
ふわり、とマリーナさんは花が綻ぶように微笑む。
それが本当に幸せそうで……私は少しだけ、そんな相手のいるマリーナさんが羨ましく思った。私の恋心は、幼少期に死んだままだから。
「不躾な質問かもしれませんが、スーリアさんには恋い慕うようなお相手はおりますか?」
「いや、いないです。これっぽっちも」
「あら、即答」
ストロベリーブロンドの長い髪を揺らして、マリーナさんが困ったように眉を下げる。
「私はてっきり、あの騎士様とそういった仲なのかと……幼馴染だと聞いていたので」
「驚くほど違います! 幼馴染なのは本当ですが、それだけです! 恋仲とは絶対有り得ません!」
「そ、そうなのですか? 失礼致しました。騎士様はよく、私達の特訓の様子を見に来られていましたし、苦心されているスーリアさんのことを、心配されてのことなのかと。余計な勘繰りをしていました」
「いや、無いですね。あれはたぶん暇だっただけです。大体アイツは私のこと――――」
俯いて、私は服の裾を握った。
掌の汗がじんわりと滲む。思い出すのは遠いあの日。奴の悪夢の誕生日だ。
だってアイツは私のこと……『大嫌い』って、言ったもの。
「……スーリアさんになら、きっと良いお相手が見つかります。私の特訓に、泣き言一つ言わずついてくる、気概のある方ですもの。芯の強い女性は、そこを見てくれる誠実な男性が、きっと惹かれて寄ってきます」
「結婚は遅いかもしれませんけどね」と冗談めかして笑うマリーナさんは、私とレイスの間にある複雑な感情をそれとなく察し、触れずに流してくれたのだろう。
その気遣いが有難い。
マリーナさんは慈しむような所作で指輪を一撫でし、切り替えるように背筋を伸ばした。
「正直に申し上げますと、最初はなぜ、スーリアさんが精霊姫に選ばれたのか疑問でした。通例だと、教会の使徒か、貴族の方が多いでしょう? 教会の使徒には、条件に該当する者が今年はいなかった、というお話でしたが、それでも貴方がわざわざ選ばれたのは不思議です。またもや失礼を承知で言いますが、スーリアさんは能力や身分、霊力が特筆して高い、というわけではありません」
「それは……実は私も、いまだに疑問なんです」
「ですが、本日、特訓の成果が出始めた貴方を見て、貴方の霊力は『精霊姫にふさわしい素質』を宿していると、ようやく分かりました」
「精霊姫にふさわしい素質……?」
私は疑問符を飛ばす。
磨かれた白い床は、鏡のように私の訝しげな顔を映した。
「はい。貴方になら、『精霊姫の本当の役割』をきちんと果たせるでしょう」
「本当の役割って……精霊女王に感謝と忠誠の祈りを捧げる、精霊使いの代表という役だけではない、ということですか? 精霊姫というのは」
「もっと大切な役割があるのですよ。文言や剣舞にも、違う意味がちゃんと。でもそれは、使徒長様からお聞きした方がいいです。まだお会い出来ていないのですよね? 会えたら必ず教えてくれます。まぁ、その素質だけで例外的に選ばれたというのも、まだ納得のいかない部分があるのは確かですが……」
最後の方は、マリーナさんはほとんど独り言のようだった。私は脳内でマリーナさんの言葉を整理するのに必死で、そこまで突っ込んだ質問が返せない。
ここで話は終わりにし、最後に互いに礼をして、本日の特訓は正式に終了となった。
でも、精霊姫の本当の役割って……何なのかしら。