15
現れたのは人間では無かった。
開いたドアの向こうに居たのは、真白な馬だ。立派な鬣が雄々しく靡く。ただ全体的にこじんまりとしたサイズで、子供くらいしか背に乗れそうにない。四本の足首には、渦を巻く小さな竜巻が絡んでいることから、風の精霊なのだと分かる。
ドアは風を起こして押し開けたようだ。
「やぁ、リック。何か良い情報でも仕入れてくれた? ていうか君、風の精霊なんだから、ドアくらいすり抜ければいいのにー」
「いや、人間はドアを開けて入るだろう。ならば人間の礼に従わねば」
「相変わらず糞真面目だねぇ」
レオンさんも精霊使いだったのか。リックと呼ばれた馬の姿の精霊とは懇意らしい。
社交的なウォルは「こんにちはー」と挨拶している。それに深々と頭を下げるような仕草を返すリック君は、随分と礼儀正しい精霊だ。
「客人が居たのか。すまない、出直すか」
「いいよ、いいよ。それで? 面白い情報を手に入れたなら、教えてよ。商売に役立つのは特にねー」
「……ふむ。商売に役立つものは無いが、レオンが好奇心で知りたがっていた、今月から相次いでいる、例の精霊使いが行方不明になる事件について、新たな証言が得られたぞ」
その言葉に、レイスに続こうとしていた私は足を止める。リック君を避けてでも出て行こうとしていたレイスも、動きを制し反応を示したことから、気にはなっていたようだ。
風の精霊は噂好き。情報が回るのも速い。
「まず、8人目の行方不明者が出た際に、消えるところを目撃した者が現れた」
「おお。これは重要な手がかりになりそうだねー」
「セドラン通りのパン屋の娘が、精霊使いの友人が、『黒い蝶』を追い掛けて行くところを見たと。ぼんやりした様子が心配で慌てて後を追えば、突き当りで友人が跡形も無く姿を消したらしい。それ以降、戻って来ていない」
黒い蝶……。
私が訝しげに呟けば、側のレイスが小さく舌を打つ音が聞こえ、私は肩を跳ねさせ彼を仰ぎ見る。だけどレイスの顔は相変わらず冷たい無表情で、その思惑は読めなかった。びっくりするから止めてよね。
「黒い蝶かー。なんかどっかで聞いたなぁ。黒い蝶は……えっと、何かの『遣い』だった気が……」
「精霊としてまだまだ若輩の我には分からん。だが、我々精霊の中で『黒』は良き色とはされていない……っと、すまんな、客人。貴殿の髪色を貶したわけではない」
鼻先をレイスの方に向けて、リック君は律儀にもレイスに謝罪する。レイスは無言で流すだけだ。
いいのよ、リック君。そんな奴、気遣わなくていいの!
「それと、行方不明者には男女の区別なく年齢もバラバラで、共通点は無いとされていたが、姿を消した日に、ある一つの共通する部分が見つかった」
「8人目にしてようやくー?」
「最初は誘拐の線で調査を始め、行方不明者の人間関係や繋がりの方に焦点を当てていたために、盲点だったのだろう。人物が消えたのは共通して夜――――それも、月明かりの強い夜だったと」
リック君の話を聞けたのはそこまでだった。
レイスがこれ以関わるなと言わんばかりに、急に私の腕を引いてリック君を押し退け、外へと連れ出したのだ。
そのことにも不意を突かれ驚いたが、何より、触れたレイスの手が氷のように冷たくて、私は心臓が竦んだ。
すぐに腕は離されたが、ちょっと低体温にも程がある。昔はよく手を繋いでいたが、普通に人肌だったはずなのに。
レイスは「さっさと街を見て回らないと、陽が暮れるぞ」と、先ほどの話など無かったかのように歩き出した。
私は慌ててレイスを追い掛けようとするが、その前に一度、店の方を振り向く。半開きのドアの隙間から、ひらひらと手を振る青白い指と、こちらにまたもや頭を下げる動作をする、リック君が視界に入った。
それに応えるように尻尾を振ったウォルが傍に来たので、私はようやく彼の背を目指して歩みを進めた。
結局、陽が沈む前には、私たちは特にこれといった危険に晒されることもなく、無事に教会へと帰り着いた。
王都では食べ歩きが文化の一つとされているようで、露店で甘い物を買ってウォルと食べ。街の景観などを見て楽しんだ。箱のお礼にリンスにあげようと、彼女に似合いそうな、レース調の髪飾りも購入した。お金は街に出ると言ったら、教会から支給されたので、使い過ぎないようには気をつけたけど。
レイスはほとんど無言で、宣言通り文句一つ言わず、私たちに付き従っていた。リコラの睡眠薬や黒い蝶のことなど、レイスに振ってみたい話題はあるにはあったが、それでせっかくの軽やかな気分が壊れたら嫌だったので、私も彼とは最低限の会話で済ますよう努めた。
色々と気になることは生まれたが、外出自体は良い息抜きにはなったと思う。
ただ、教会の塔から塔を繋ぐ渡り廊下で会ったロア君に、「私が特訓で煮詰まっているのを見兼ねて、レイスに息抜きに付き合って欲しいって、頼んでくれてありがとう」と言ったら、「? なんのことでしょう?」と不思議な顔をされてしまった。
忙しくて頼んだことを忘れたのだろうか。そのあともロア君は慌ただしく書類を抱えて去って行った。行方不明事件の新たな情報がこちらにも回って来て、さらに仕事が増えたのかもしれない。
そんなこんなで夕食や湯あみも終え、部屋で落ち着く頃には、すっかり空は黒一色になっていた。
「これは、あとでリンスから貰った箱に入れておきましょう」
リンス宛に買った髪飾りを、そっと机の上に置く。あの『精霊の宝箱』は、まだ袋から一度も出していないが、とりあえず小物入れとして使わせてもらおう。
……というか、持参した荷物の整理も中途半端なのよね。精霊姫特訓生活が予想外に忙し過ぎて。
深い溜息を吐き出して、私はベッドに身を投げ打った。
夜風を入れたくて、窓は少しだけ空いている。うつ伏せになりながら、横目で見上げた闇夜に浮かぶ月は、今日は薄雲の向こうに隠れて、その形を静かに潜めていた。