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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

緋色の雨

作者: チャッキー

警察小説の短編です。

 「緋色の雨」 


 芹沢大輔は昔から雨が嫌いだった。雨に打たれる時、見えない炎で身体を焙られる心持がする。それはきっとあの出来事と無関係ではない。大輔は赤ん坊の頃の記憶を覚えていて、今でも、はっきりと思い出すことができる。友人に話すと、驚かれ、感心されるが、本人にとっては長く続く拷問でしかない。


30年前の昭和59年12月、大輔は母方の祖父が経営する山梨の産院で生を受けた。彼が生まれてから間もなく、病院の裏手にある施設で火事が起こった。その時、大輔は母の腕の中にあって燃え上がる建物を飽かずに眺めていた。放水車より迸った水は、激しい雨となって建物に降り注ぎ、紅蓮の炎と溶け合った。恰もそれ自体が燃えているようだった。


 その日以来、雨は大輔にとって凶事の象徴となった。不吉なことがある時は決まって雨が降った。弟が遺体で発見された夜も、親父があの男を殺した夜も、そして、その日の夜も激しい雨が降った。


 その日、平成26年12月某日、東京近郊の山中において、男子児童の遺棄死体が発見された。死因は頸部圧迫による窒息死、死後1週間から10日は経過しているものと思われ、性的虐待の痕跡もあった。明らかに同じだ、と大輔は思った。しかし、この帳場(捜査本部)でそれを口にすることは御法度であった。


 昨今、足利事件を始めとする数々の冤罪事件がマスコミや市民グループの旺盛な活動によってクローズアップされている。足利事件とは、24年前に起きた殺人事件であり、“DNA捜査”が導入された案件でもある。当時のDNA鑑定は極めて蓋然性の低いものだったが、日本の捜査当局はこの新しい捜査手法を積極的に利用、且つ盲目的に信用し、罪もない人間を次々と犯罪者に仕立て上げた。この足利事件を始め、冤罪となった案件は全部で2件あるが、20年前の連続児童誘拐殺人事件を含めれば、3件に膨れ上がる可能性がある。というのは、この事件も、DNA捜査を積極的に採用した事件だったからである。


 その他2件と異なるのは、被疑者死亡のままで捜査本部が解散している点である。20年前の平成6年、都内に住む男子児童数名が何者かに誘拐され、扼殺体で発見されるという事件が起きた。遺体には性的虐待の痕跡があり、犯人のものと思われる体液が付着していた。


 当時の捜査本部は、押収した証拠品とそこから得られた体液のDNA型鑑定によって、一人の男を本件の容疑者と断定し、逮捕状を請求した。殿村義男当時36歳、本籍地、神奈川県横須賀市船越町3-4-13、都内の清掃会社に勤務する元児童養護施設職員の男だった。殿村には過去に男子児童への性的虐待で逮捕歴があり、犯行の動機は十分と考えられた。


 逮捕状請求後、当時の捜査員たちは、江東区にある殿村のアパートへ踏み込み、殿村を任意で引っ張ろうとした。我を失った殿村は一瞬の隙をついて逃走を図り、その途上、付近をうろついていた小学生の男児を人質に取った。男児の首に手を掛け、必死で抵抗する殿村に対し、捜査員の一人が銃弾を浴びせ、事態の収拾を図った。殿村は腹部に銃弾を受け、病院に担ぎ込まれたものの、懸命の処置の甲斐なく、数時間後に死亡した。


 報道各社はこの出来事を一斉に報じ、警察批判を強めたが、当時の市民の中には犯人を射殺した捜査員を擁護する者が圧倒的に多く、さほど問題にはならなかった。上層部は、この点を鑑み、本件を「解決済み事件」として密かに処理したが、20年後の冬、それを嘲笑うかのような事件が起こった。それは明らかに過去の事件を彷彿とさせるものであった。これを受け、報道各社や有象無象の専門家は、過去のDNA捜査に絡んだ冤罪事件を挙げ、再捜査の必要性を提起した。


 その点に関しては大輔も同じ考えであった。現在の事件と、20年前の事件は類似点が多く、同一犯の可能性が高い。つまり、冤罪を疑う余地があるということだ。然し、上層部は従来の態度を翻すことは決してなく、過去の事件を洗い直すこともなかった。そんなことをすれば、無実の人間にあらぬ疑いをかけ、しかも殺してしまったことを、自ら認めてしまうことになるからだ。市民の生命や財産よりもメンツを大事にする日本警察としては、そんなことを到底許せるはずがない。だから、本件の帳場はあくまで、“模倣犯”という方針で捜査を進めてきた。


 大輔を除けば、誰もその方針に逆らう者はいなかった。昨今の警察では、サラリーマン化が進み、現場で点数を稼ぐくらいなら家に帰って昇進試験の勉強をしていたい、という事勿れ主義の輩が跳梁跋扈している。大輔の上司に当たる袴田刑事部長などはその最たるものだ。


 袴田は、上には弱く下には強いという典型的な警察官僚の一人で、居丈高な物言いが鼻につく。この男の下で長年働いている親父は本当に凄いと思う。


 父の芹澤孝造は袴田と同期で、かつては本庁きってのエリート捜査官と謳われたが、20年前の連続児童誘拐殺人事件で被疑者を射殺したために出世の道を絶たれ、現在は閑職をたらい回しにされている。捜一の強行犯係に籍を置く大輔とは、捜査会議で時々顔を合わせるくらいで、普段は口を利くことさえない。二人の溝は、あの事件より遥か昔、大輔が小学生の頃から既に深まっていた。その原因は大輔が孝造の期待に応えられなかったことにある。


 孝造は、有名国立大を経てキャリア採用された経緯もあり、他の警察官僚に洩れず、選民意識の強いきらいがあった。母・君江の徹底した教育主義を容認したのも、その根本に無垢なる息子たちへの多大なる期待があったからである。大輔はその重圧に耐えられず、次第に精神を病んでいった。苦労して入った有名小学校も学力不振のためについていけなくなり、遂には放校処分となった。それを聞いた時の、孝造のあの顔は今でも忘れられない。その目の奥には、失望と非難とが入り混じり、燠のように拡がっていた。その頃から孝造の期待は自然、弟の信也へ注がれることになった。信也は、落ちこぼれの兄とは違い、聡明で柔軟性があり、両親はもとより、多くの人々から愛されていた。大輔には、そんな弟が憎く思えてならなかった。こいつさえいなければ、と思ったこともあった。


 その願いが通じたのかは分からないが、20年前のあの日、信也が扼殺体となって発見された時、大輔は、罪悪感の反面、安堵感に包まれた。これで弟と比べられることもなく、両親の愛情も独り占めにできるだろう、周囲の人間が深い悲しみに暮れる一方で、大輔は唯一人、弟の死を喜んだ。然し、孝造は、そんな息子の想いを見透かしたように言った。


「どうして、あいつだったんだ?」


 その言葉は大輔の心に深い楔を打った。この人とは一生分かり合えないだろうと思った。高校卒業後、大輔は両親の膝下を離れ、警察学校へ入学した。父親と同じ道を歩んだのは、父を超える人間になりたいと思ったということと、弟への贖罪のためである。あの時、一瞬でも、弟の死を喜んだ自分を許すことができなかった。だから、自分自身の手で真実を見極め、父を屈服させ、弟への免罪符としたかった。今回の事件は、ある意味では、大輔の本来の目的を完遂させるために起こったと言えなくもない。


 最初の被害者が発見され、帳場が立った夜、大輔は、科捜研の職員、織原紗栄子と久し振りに酒を酌み交わした。紗栄子は幼い頃に両親の離婚を経験していて、幸福な家庭を酷く憎んでいるきらいがある。いつか肌を合わせた時、紗栄子は大輔の肩に爪を立てながら、あんたの家庭なんていつだって壊せるのよ、と言った。それでも、この女のことを嫌いになれないのは、妻・由里子との関係に疲れているせいだ。由里子とは結婚してから8年経つが、結局、母・君江と同じタイプの人間と分かっただけで、今は愛情も薄れている。紗栄子は、大輔にとって失われた愛の代替品であり、煩わしい現実から逃避するための手段でもあった。


 紗栄子は、エッシャーの騙し絵について講釈を垂れた。別の角度から光を当てれば浮かび上がってくる真実もある、そんな内容の話だった。紗栄子が熱っぽく話し込んでいる時、捜査員から連絡があった。本庁宛に犯人からのものと思われる脅迫文が届いたという。そこにはこう書かれてあった。


「無能な警察諸君、潔く罪を認めよ。私は決して君たちを許さない。さもなくば、また新しい犠牲者を出すことになる」


大輔はすぐにそれをフェイクだと見破った。


 文面から考えて、これを書いた人物が警察に恨みを持っていることは明らかである。然し、警察への怨恨と、一連の殺人には、論理的整合性が見られない。つまり、誰かの悪戯の可能性が高いということだ。少なくとも、この時まではそう思っていた。


 最初の被害者が発見されてから数日後、大輔は、都内の小学校まで息子の亮太を迎えに行った。亮太は技能員の成瀬孝之に別れの挨拶をした後、正門から出てきた。大輔と成瀬は互いに会釈を交わした。亮太を伴って車に乗り込む直前、不審な男と擦れ違った。男の顔は透明の膜を張ったように質感がなく目も虚ろで、正視に耐えられなかった。帰りの車の中で、亮太は、塾に行きたくない、と言い出した。大輔は、嫌なら辞めてもいいんだぞ、と言った。すると、亮太は相好を崩して、僕は警察官になりたい、と言った。パパや御爺ちゃんみたいに警察官になって皆を守ってあげるんだ、亮太の嬉々とした表情を見て、昔、自分もそんなことを言ったのを思い出した。


 その翌日、1週間ぶりに雨が降った。奇しくも、最初の被害者が出た朝と同じ状況であった。瞼の裏側にあの忌まわしい光景が再び蘇った。炎を上げて燃え上がる建物、その上に降り注ぐ雨は緋色に染められて輝いていた。


 妻の由里子から連絡があったのはその日の夜だった。亮太が友達の家に遊びに行ったきり帰ってこないという。大輔の中に焦燥感が芽生えた。弟・信也の死に顔が真っ先に思い出された。大輔は停滞する捜査への苛立ちから単独行動を取るようになり、上層部はもとより、平の捜査員からも顰蹙を買った。孝造からも、組織の規律を乱すなと咎められたが、聞く耳を持たなかった。あの時と同じ轍を踏むわけにはいかなかった。


 大輔は、20年前の被疑者・殿村義男とその背後関係を洗い直した。その結果、面白いことが分かった。殿村義男にはかつて山梨の児童養護施設「翠院」で職員として働いていた過去があった。その施設とは大輔が生まれた産院の裏手にあった。大輔はこの事実に奇妙な因縁を感じずにはいられなかった。あの忌々しい映像と現在が線で繋がった瞬間だった。


 殿村は、昭和59年、当該施設に預けられていた男子児童に対し、日常的に性的虐待を行っていた事実が判明している。その余波により、当該施設は閉鎖に追い込まれ、翌年には人の手に渡る運びとなった。建物の売却が決まり、関係者の立ち退きが迫った同年の12月、当該施設は突然の火災に見舞われた。幸い、懸命な消火活動もあって建物は全焼を免れ、軽傷者を数名出すだけに留まった。出火場所と思われる場所からは石油ストーブに使われる燃料が見つかり、警察は放火の可能性があると見て捜査を行った。これに対し、翠院院長・華岡翠は、「火の不始末が原因」だったと証言している。然し、警察は、近隣のホームセンターでの購入履歴から、当該施設で暮らしていた少年に疑いの目を向けていた。彼は、かつて、殿村から虐待を受けていた少年だった。火災の後、少年は元院長の紹介により、ある篤志家の家に引き取られているが、わずか3か月で家を追い出されている。関係者によると、その9カ月後、翠に再び引き取られたという。問題は、その空白の1年に何が起きたのかということだ。


 大輔は、本庁のデータベースから、ある事件のファイルを見つけ出した。昭和60年4月の記事で、その見出しには、「男子児童虐待容疑で少年を補導」と書かれてあった。記事によると、その少年は、東京文京区にある民生委員の自宅において、男子児童に性的虐待を行ったうえ、首を絞めて殺そうとした疑いが持たれている。そして、その際に押収された証拠品は、今も科捜研が握っているという。大輔は、記事に目を通しながら、紗栄子の話を思い出していた。別の角度から光を当てれば見えてくる真実もある、彼女はそう言った。もしそうなら、俺たちは重大な何かを見落としていたことになる。大輔は紗栄子に連絡を入れ、過去の証拠品と、一連の殺人事件の証拠品、それぞれのDNA型鑑定を依頼した。


 脅迫文の犯人が逮捕されたと連絡があったのは、それから間もなくのことであった。大輔は、鏡張りの冷たい取調室の中で、その男と対座した。目の前には、あの質感のない、吐き気を催す顔があった。男は警察を中傷するビラを撒いた咎で身柄を拘留されたという。名は殿村幸彦、20年前の事件の被疑者・殿村義男の弟であり、唯一の肉親であった。大輔は、幸彦の目の前に例の脅迫文を突きつけた。鏡張りの向こうには袴田を始めとする幹部連中が居て、部屋の中からはその姿が見えないようになっていた。幸彦は、警察が過去の罪を認めないことに苛立ち、揺さぶりを掛ける意味で、あのような脅迫文を書いたと言った。但し、一連の殺人については容疑を否認した。つまり、捜査を攪乱したに過ぎないというわけだ。


「俺はあんたらを許さない。絶対許さないからな!」


幸彦は壊れたラジオのように笑い出した。大輔は幸彦の胸倉を掴み、殴りかかろうとしたが、近くにいた捜査員に止められた。幸彦の取り調べを終えた後、科捜研の紗栄子から連絡があった。鑑定の結果はクロだった。


「民生委員の子供に悪戯した子とあなたの弟さんを殺した人間は同一人物みたいね」

「一体誰なんだ、そいつは?」

「あなたがよく知ってる人」


紗栄子はその人物の名を言った。大輔は目を瞠った。


「木を見て、森を見ずか」


電話を切ったと同時に誰かに肩を叩かれた。振り返ると、孝造が立っていた。孝造は苦渋に満ちた顔をしていた。大輔は皮肉を言った。


「これではっきりしたな。あんたは罪もない人間を殺した」


 大輔は部屋を出ようとした。孝造は大輔の肩を掴んだ。


「待て」

「亮太の命がかかってる。あの時と同じ轍を踏むわけにはいかないんだ」

「すべての責任は俺にある。俺が片をつける」

「何だ、それは? 罪滅ぼしのつもりか?」


 大輔は振り返り、孝造の顔を眺めた。その目には後悔の色が浮かんでいた。20年前、孝造は、子供を人質に抵抗した殿村を射殺した。そこには、息子の信也を殺されたことへの怒りが少なからず含まれていたのだろう。つまり、それは、信也への愛情が大輔へのそれよりも深かったことの証明である。そして、それこそが大輔の心に消えない傷を作った。大輔は孝造の顔を真っ直ぐに見据えた。


「もし、あの時、死んでいたのが俺だったら、

同じことをしていたか?」

「お前には申し訳ないことをした」

「もっと昔にその言葉を聞きたかったよ」


 大輔はそう言って部屋を後にした。


 その後、大輔は焦りに身を任せるように車を走らせた。その間ずっと、亮太の顔と弟・信也の顔が交互に浮かんでは消えた。亮太には父親らしいことを何一つしてやれなかった。恐らく逃げていたのだと思う。大輔は、亮太の中に弟・信也の姿を見ることがあった。亮太を見ていると、信也から責められているような気がした。何でお前みたいな落ちこぼれが生きているんだ、そんな声が聞こえてきそうだった。然し、実際は違った。亮太はあの頃の自分そのものだった。誰からも馬鹿にされないようにするため、そして、両親の愛情を繋ぎ止めるため、偽りの自分を演じていたに過ぎなかった。もっと早くそのサインに気付いてやるべきだった。俺に親父を責める資格などない。結局、俺もあいつと同じだったのだ。


 そのうち、車は亮太の通う小学校へ到着した。本庁から引っ切り無しに着信が鳴り続けていたが、今は応対している暇などなかった。大輔は校長から許可を貰い、校内へ入った。そして、体育館の裏へ向かい、焼却炉の前で技能員の成瀬孝之と対峙した。成瀬は薄汚れた帽子を取って小さく会釈してきた。空には灰色の雲が掛かり、今にも泣き出しそうな気配があった。着信はずっと鳴り響いたままであった。大輔は怒気を含んだ目で成瀬を見た。


「あんたに聞きたいことがある」

「そろそろお見えになる頃かと思いましたよ」

「亮太は無事か?」


成瀬はそれには答えず、話し始めた。


「ずっと誰かが助けに来てくれると思っていました」


大輔は成瀬の胸倉を掴んだ。


「亮太はどこだ?」

「あの男は私の首を絞めながら、何度も何度も私を汚しました。ずっと消えないんです。どれだけ誰かを傷つけても、私はあの男から自由になることができない」


 大輔は成瀬の襟首から手を離した。そのうち、分厚い雲を割って雨が降ってきた。その瞬間、瞼の裏側で炎を上げる建物が浮かび、降り注ぐ雨が緋色に輝いた。そして、鳴り続ける着信音が早鐘を打つように高鳴り始めた。大輔は着信に応答した。捜査一課の捜査員だった。


「芹澤! たった今、息子さんが遺体で発見された」


 大輔は掌から携帯を落とした。そして、割れんばかりの慟哭を上げ、成瀬の顔を殴りつけた。Yシャツが返り血で染まった。大輔は、倒れた成瀬の上に馬乗りになり、慟哭を上げながら、何度も何度も殴りつけた。鼻の骨が折れ、口が血で染まっても止めなかった。大輔の背中を激しい雨が叩きつけた。冷たいはずなのに、焼けるように熱く感じた。大輔は懐から拳銃を取り出し、その銃口を成瀬の眉間に押し当てた。引き金を引く直前、誰かが大輔の手首を掴んだ。孝造だった。大輔は孝造を睨みつけた。


「離せ!」


 孝造は大輔の手首を捩じり上げた。その手から拳銃が落ちた。大輔は空いた手で孝造に殴りかかろうとしたが、その前に孝造の拳が腹の中にめり込んでいた。大輔はその場で倒れた。孝造は大輔の拳銃を拾い上げ、銃口を成瀬に向けた。そして、引き金を引いた。乾いた銃声が立て続けに鳴り響いた。孝造は拳銃を持った腕を静かに下ろした。足許には、身体を穿たれ、事切れた成瀬が倒れていた。大輔は薄れる意識の中で孝造の顔を見た。従容とした表情であった。


 それから1か月後の平成27年1月、大輔は東京拘置所の孝造を訪ねた。あの後、孝造は自ら本庁へ出頭したのだった。


「辞表を出したそうだな?」


孝造にそう言われ、大輔は、ああ、と頷いた。息子を失い、妻の由里子にも見限られた今、失うものなどもう何もない。それに元々今の仕事に執着していたわけでもない。すべてが解決し、目的を終えたなら、いずれ辞めるつもりでいた。今はその時なのだ。


「これで終わったと思うなよ。俺にはすべてを公表する用意がある」

「好きにしろ」


その場を去ろうとする大輔に孝造は言った。


「お前とは酒を呑んだこともなかったな」

「そんなもの、娑婆へ出てくれば、またいつでも飲める」


 それが父・孝造と交わした最期の会話だった。


 それから更に一カ月後、大輔は、これまでに起こった出来事をすべてマスコミに公表した。警察批判を繰り返してきたマスコミにとって、大輔の告白は垂涎の的であり、彼らは以前にも増してバッシングを行うようになった。孝造が殿村幸彦により刺されたのはその最中の出来事であった。幸彦の執念はマスコミ以上に凄まじいものであった。大輔は警察病院の霊安室で孝造の遺体と対面した。罪を背負い、罪に苦しめられてきた人間の死に顔は、憑き物が取れたように安らかであった。その顔を見ていると、とても責める気にはなれなかった。


 孝造の葬儀と亮太の49日法要を終えた後、大輔は翠院元院長・華岡翠を訪ねた。翠は、30年前のあの火事の真相を語った。


「じゃあ、あの火事は彼が?」


 大輔は瞼の裏側にあの映像を浮かべた。成瀬少年は、きっと、あの忌まわしい場所を消してしまいたかったに違いない。然し、結果的にそれは叶わなかった。殿村義男という狂気が成瀬孝之という怪物を生み、弟の信也や息子の亮太を、そして、成瀬自身をも殺した。一つの罪が伝染し、多くの者の運命を狂わせたのである。翠は涙を流しながら告解した。


「全て私の責任です。あの子をちゃんと守ってやることができなかった」


大輔が翠の自宅を辞去しようとする時、灰色に澱んだ空からさめざめと雨が降った。


「遣らずの雨ですね」


翠は大輔に傘を差し出した。大輔は受け取らなかった。降り注ぐ雨の中を、大輔はゆっくりと歩き出した。瞼の裏側にあの映像が映ることはもうなかった。雨はどこまでも冷たく、そして優しかった。完


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