翼が三十三羽
四時間目、翼とチラっと視線が合い、何か言いたげな表情を見せる。
その前の休憩時間中に阿久津と話をした。左隣の席に座っていた翼も、その話を聞いて少し気になっているのだろう。
いや、それ以前に、三時間目の時から時々視線が合っていて、そろそろ喋ろうかな、という所作は俺も感じていた。もちろん俺お得意の勘違いなんかじゃない。
授業が開始されてから七、八分ほどして──。
「──ら」
「…………ら」
俺は依然として右腕を机の上に、前方にだらんと垂らし、それを腕枕にするような形で右側頭部を置いて、左隣の翼を見ていた。翼の口が動いてる。小さくて聞き取りにくいけど何かを喋っている。顔も、視線も、こちらへ向けているので、これは確かに俺の方へ話しかけている。
「ささ…………」
あぁ……間違いない。
翼は「佐々良」と言っている。ハッキリと言ってる訳じゃないけど、そう呼んでいるのは俺でも分かる。月曜日のことを思い出すと、とてもじゃないけど、さすがの俺も自分から喋りかけるのも憚られた。あとは翼任せだった。俺から喋る権限が暗黙の内に無いかのような気分になっていたから。
翼や他の奴らが思っているほど、俺はそこまでハートの強い男なんかじゃない。もし、そうならとっくに仲直りをしてる。月曜日の体育館の時だって俺なりに、ある程度の勇気を振り絞ったつもりだ。
「…………ばさ」
翼の気持ちがよく分かる。俺も同じように名前を呼ぼうとしても、こういう時、そうなるんだ。上下の唇が緊張で乾いて、くっつき、長らく話しかけてなかった余韻で、自分が声を出してる想像よりも実際は小さい声になっていて、上手く喋れてないことに気づく。
翼は、俺が何かを喋ろうとしてるのを目視して、そこで黙った。
今はお互いに目線が合っている。可愛い目で俺のことを見てくれてる。くっきり二重の長いまつ毛。俺もその顔を見つめてる。
お互いに話をしようとする意思があるのは、今のでハッキリとした。俺の勘違いなんかじゃないし、幻聴んあかでもない。だって口が動いてたもの。
でも、俺がそれっきり喋れなくなってしまったから、翼もタイミングを逃して、もう喋りかけてはくれなかった。話したそうにはしているけど。
なぁ、翼……。俺もお前とまた話したい。
まだ、俺たちは視線が合っている。
翼の表情は、額に汗かいて困ってるいつもの顔だけど、何か言いたげで、俺に何かを伝えたいような表情だ。俺もお前に言いたいことがあるんだ。
最後だから、もう、普通に喋ってバイバイしたい。
それに…………。
なによりも、俺は、まだ……、お前に言ってないから。一度も、口に出しては──。
こんなお別れは、らしくない。無神経な俺と、気安い翼と、どうしてこんなことになってしまってるんだろう。まっ……たく。
俺たちなら、もっと簡単に喋れるはずだろ? 俺はそう思ってるんだけど…………それも、俺の、勘違いかな。
今はお互いに意固地になってなんか無い。俺から話しかければ、きっと今なら翼も何か喋ってくれる。俺も同じだ。……と思ってる。
そうこうしてる間に、もう、チャイムが鳴っちゃった。
「つばさ……?」
四時間目が終わり教室が、他の時間とは違う安堵感に包まれた。これからお昼に入るからだ。教室でざわざわ、どこかへ急ぐ音、他にも、そんな大きな騒音でもないけど、最後に俺が翼を呼んだ声が小さ過ぎて、きっと聞こえてなかっただろうな……。俺が話しかけたの、気づいてないと思う。
──お昼休み。
翼との最後のお昼に、阿久津はなんと! ご招待してくれた。四時間目が始まる前に阿久津から「昼は一緒に食べるんだろ?」と声をかけられ、翼もそれは隣で聞いていた。
でも、俺も、翼も、沈黙だったので、必然的に阿久津も無言だった。さっきお互いに名前を呼び合いそうな感じがあったのに、面と向かうと、そうなっちゃう。
(阿久津は、平気でモグモグご飯食べてる。冷たい奴なんだ)
でも招待状を貰ったので感謝はしてる。
もちろん、今日は、上級生の女子から声かけられないかなぁと黄昏るいつもの行事は中止に追い込んだ。百人、いや五百人、いーや千人! そんなに居ないけど、仮に、数百人の女子に声かけられるよりも(まぁ、それはないけど……。成果ゼロだし)翼との時間の方が大切だ。だって本当にこれが最後だもの。
俺はこれが最後の晩餐かと思うと、翼との楽しいお弁当の時間は、もう二度とやってこないことを実感し、少しだけ下瞼が水晶みたいに球状に歪んで見えた。危ないところだ。もう少しで涙がこぼれ落ちちゃうところだった。
あぁ、こんなに大切な時間を、俺はなんて馬鹿な使い道をしてたんだろうと、今更ながら後悔し、失うもののデカさを知った。なんだかまた涙が出そうになったけど、下瞼を上手く調整して流れないように踏ん張った。そのお陰で流れることはしなかった。
授業も、あと二回で終わりなのかぁ……。と思うと、寂しい気持ちで終焉を待つ思いだ。
よく考えると俺、翼、阿久津、久しぶりに三人のランチタイムだ。この三人が一緒にお昼ととるのは、もうかなり昔のような感じがする。実際はそこまで昔ではないけれど。そして、実際にこれが最後となる。
結局、三人は昼食中、一言も喋らずに終わった。昔なら信じられないことだ。
せっかくお昼を一緒にしたのに、その後は、居た堪れなくなって、一人で廊下に出た。だって俺、もうなんか喋ってしまったら泣いてしまいそうなんだもの。小学生じゃあるまいし、お友達が引っ越すくらいで泣けるかよっ!
こんな時でさえ俺は方向音痴を気にしなければならないので、遠くへ行くことはない。やることが無いのでひたすら備え付けのウォータークーラーをごくごく飲んでた。そりゃあゴクゴクと、ゴクゴクと、勢い良くゴクゴクと。
「引越しするんだって?」
委員長だ。
俺はゴクゴク飲んでたのをやめた。あえて名前を出さないで話しかけてきた。気の利く女だ。
「俺? まさか~。委員長、俺の家の貧乏ったれを知らないだろう? 引越しする金さえねーよ。あははは」
「そうなんだぁ~?」
いつものニコニコ顔で去って行った。
──と、思ったら、振り返って言った。
「肌野君と喋らなくて良いの?」
俺は返事する代わりに、口をファの字に開けたまま、一回だけ軽く頷いた。
そんな気の毒げのような顔をするなよ……。ニコニコ顔だけど少しだけ、こめかみに汗をかいてるようなニコニコ顔だった。そして委員長は向こうの方へ帰って行った。
今日は珍しく、校庭へ先輩女子の逆ナン目的作戦をしてないので、お昼が長く感じた。ドアの直ぐ隣の窓が少しだけ隙間が空いてるので、そこから翼の姿を覗くことにした。阿久津、邪魔だ! どけっ。俺が居なくなったら喋るのかよ……。なんか嫌われ者がお情けでお昼に入れて貰ってたみたいな感じになってるじゃねーかよっ。
俺が教室にこの時間帯にいるのが珍しいのか、多分学食? から帰って来た?(正直、興味ない)鉄男が、ドアのところで声をかけてきた。
「なにやってるの、佐々良? もしかして……真鍋さんにまた何かしようとしてるんじゃないのっ?」
こいつだけは、いつも馬鹿だ。俺がいつ委員長に何かしようとした。嫌われることなんかしたことないぞ? まあ委員長はヤなことされても、ニコニコと対応するだろうけど。
「お前、暑苦しい。もう入っていいぞ。エサの時間が済んだら、とっとと席に戻れ」
「ふーん…………」
鉄夫にしては、やけに大人しく戻って行ったな。まあ、こんな奴はどうでも良い。
俺の方が翼に酷いことばかりしてた。
ドアの隙間から、阿久津と、いつものように楽しそうに喋ってる翼を見ながら、色んな思いが込み上げて来た。その殆どが反省の弁だ。
色々と思い出して、やっぱり、そう思った。いつも俺を気にかけていた翼。それに対して俺はいつも疑心暗鬼で信じてやれなかったり、色々と努力した翼に対し俺は自分の不満ばかりだった。
ホテルの時も、ちゃんと事情を聞いてやれなかった。勝手に思い込みを走らせて怒り散らした。謝ったのは翼だけだ。
パーキングの時もそうだ。あれは完全に俺が悪かった。翼には何一つ悪いところなんか無かった。せっかくホテルでのことを清算できるチャンスだったのに。
俺が一人で勘違いして、翼を惨めな思いにさせて、それなのに俺に見つけて欲しくて泣きながら何時間も待っていた。怒らせたのは俺の方だったのに。
翼は俺とは違った。
俺は、ホテルでのことを、まだ許せずにいたのか? あとから持ち出してパーキングの時に、酷いことを言ってしまった。
翼は、家での俺の酷い言葉を、持ち出さずに、許していた。
許すことをしなかった俺、許したのに酷いことを言われた翼。
なんか俺……今。
…………気の弱い奴が、中に入れずに、窓の外からジーッと覗いてるようだ。まるでイジメられっ子みたいだ。
あぁ、そうか、翼は小学校の時、こんな思いを何度もしてたのかなぁ……? まぁそれは俺の勝手な想像だ────。
──五時間目──
もう俺はずっと翼に釘付けだ。この目に焼付けとかないとな。
右隣の如月はまた何かクスクスと笑ってる。授業中に誰かと喋ってるのは珍しいな。なぜ気づかなかったのか、如月って、よく考えたらチャラい女みたいに見えるけど、あんま授業中にヒソヒソ喋ったりしたとこ、いや殆ど聞いたことがない。俺が初めてチョーク持って黒板になんかかいてるオバサン(先生)の年齢あてクイズごっこをした時も、優等生みたいに「あんた喋りかけないでぇー」オーラを出していたしな(いや、あれは単に俺を嫌ってたからか? こいつぅぅ!)
──六時間目──
でも、最後の六時間目になると、俺は途中で下瞼が緩んでしまい、水晶を覗いて見ているような感じになった。とうとう机までおかしくなり始めて。
なんか知らないけど濡れている。多分ヨダレだと思う。よだれ垂らして寝てる顔なんか、門出の日に似合わないから、乾くまで反対を向いたら、如月と目が合っちまった!
しまった! あわてて真下に向いて下唇で、早く乾けー! 早く乾けー! と、ふーふーと風を送って乾かした。
如月は良い奴だ、ちゃーんとコッソリとスマホーで翼のことを撮影してくれてた。
六時間目の後半は、もうずっと翼を見つめてた。翼も顔を上げないで授業そっちのけにしてくれて、俺の方をじっと見つめてくれた。
その顔を見ていると色んな翼を思いだした。
午前の授業では、翼との出来事、どんなことを言ったか、言われたか、そしてどうなったか、そういうことを思い出してたけど、今は違う。
とうとう。この授業で、翼とはバイバイだ────。
いよいよになると、俺は翼の女ぽかったところばかりを思い出した。同性だけど、異性として見てた部分ばかり洪水のように思い出した。
きっと俺はニヤニヤしてるだろうけど、もうそんなもんどうだって良い。
お姉ちゃんのスカートを穿いたらミニスカになって、太ももがふわふわで真っ白で、顔を埋めたいと思った。
クローゼットの中で華奢なのに柔らかい身体。わざとしゃないが手が当たった時の翼の柔らかいお尻。密室で翼が良い匂いさせてたからクンクンして、翼に叱られたこと。
漫画の話で昔の話をしてた時に、お互いの唇同士が近すぎて、翼が喋ると息がふぅーっと、優しい感じにかかって、ぞくぞく、ぞくぞく、悶々、ええーい! もう言ってしまえ! 翼にムラムラしてた。彼女にしたいと思った。俺の物にしたいとおもった。
パーキングで俺の胸に飛び込んで抱きついてきた時なんか、腰に手を回しぎゅっと抱きしめたらウエストの細さにムラっとしたわ! 悪いかよ!
何度もキスしそうな雰囲気になったけど、結局一度もそういうのは無かった。
それどころか、もしかしたら、手すら握り合ったことも無い。
涼とはずっと仲が悪かったのに、女子の涼の乳は二回も触ったんだぞっ! 翼とは、な~んにも、無し! だ!
そして、とうとう────。
翼との学校生活を……授業を
今、全て終えた。