32話 帰還の途中で
《小六迷宮主》を倒したテグスとハウリナは、その証である赤い魔石を袋に入れて、意気揚々と地上へ向けて帰還の途に就ていた。
「随分と上機嫌だね、ハウリナ」
「新しい棍です。黒くてピカピカで、良い棍です」
その言葉通りに、ハウリナがいま持って歩いているのは、《ツェーマ武器店》で買った鉄棍ではない。
あの鉄棍は彼女が『親分猿』を倒した後に入ったご褒美部屋にて、神像が左中腕で持っていた黒色の棍と交換したのだ。
ちなみにそのお礼として、テグスはハウリナと共に神像を隅から隅まで磨いたのは蛇足である。
「でもその黒棍って不思議金属でも無いし、特別な能力もないみたいだけど。本当にそれでよかったの?」
テグスが手に持つのは、例の汚れが酷くて見難い《鑑定水晶》だった。
それでハウリナが手に入れた黒棍を鑑定した結果。
『銘:黒鉄■■棍
効:無し 』
説明文が無い分読みやすかったが、以上のように実に素っ気無い内容だった。
「良いです。前のより強くて扱いやすいの」
「ハウリナがいいならいいけど」
確かにそのハウリナの言葉に嘘は無いのだろう。
何せ黒棍の調子を確かめる為に、ハウリナが十七層で《一眼牛》相手にした時。以前の鉄棍では無理だったのに、黒棍では一撃で頭を陥没させて仕留めてしまったのだから、確かに黒棍の方が打撃力が高いは間違い無いだろう。
「で、何でその黒棍で仕留めた《一眼牛》の肉を、可能な限り背負子に入れているんだっけ?」
「くるのに二日以上かかったの。帰るのも同じです」
「その間の食料にしようって言う積りだね。別に食料なら、上の層にも色々居たでしょ?」
「牛肉は貴重です。お母さんへのお土産に沢山必要です」
「それまでに肉が駄目にならなきゃ良いけど」
仮に二日この《小六迷宮》を脱出するのに掛かったとして。更に孤児院に行くには一日分の時間が掛かる。
都合三日掛けて移動した時に、この《一眼牛》の肉がまだ食べられるかどうかは、試した事が無いのでテグスにも分からなかった。
「普通は持ち運び用に葉っぱとか、香辛料とか使うんだと思うんだけど」
「肉を大きく切るの。表面が駄目でも、削いで中を食べるです」
「それって、狩りの知恵ってやつかな?」
「小さい頃に、親に教えられるです」
しかしハウリナには自信がある様なので、彼女の指示に従って《一眼牛》を大きめな肉の塊に切り分けてから、背負子へと仕舞っていく。
体格は小さめとは言え流石に一匹の牛だけあり、二人の背負子を満杯にしてもまだ多くの肉が残ってしまっていた。
「勿体無いの。食べながら上に帰るです」
「まあ、小腹が空いているから良いんだけどさ」
残った肉を片手に持って、ハウリナは齧り付きながら歩き始める。
テグスはハウリナと連れ立つようになって、生肉に抵抗が無くなってきた事を内心で驚きながら。なまくらな短剣で、生肉の塊を小さく削ぎ、口に入れながら歩く。
十七層から十三層まで、多数の《探訪者》が狩りをするのを横目に、二人は食料の為以外に戦う事無く、すんなりと登れてしまった。
「ハウリナ、もうそろそろ夜になるかな?」
「遅い夕食頃です」
正確に時を計れるハウリナに尋ねながら、テグスはもうそろそろ今日の休憩場所を見つけようとしていた。
確かに今日の朝方に、《迷宮主》に挑むために休憩中に眠っていた為、左程眠くは無い。
しかし此処から上に上がると、段々と《探訪者》と出会う数が少なくなっていく。
すると《魔物》との遭遇率がぐんと上がるので、十三層か十二層あたりの小部屋状の場所で休みを取りたいと、テグスは思っていた。
「いざとなったら、階段で休む事も考えないとね」
と呟きながら歩いていると、テグスの望みを神が聞き届けたかのように、小部屋状の場所に出る事が出来た。
都合が良い事に、他の《探訪者》や《魔物》の姿も無い。
「テグス。ここで休むです?」
「そうだね、ここで長めの休憩にしようか」
テグスは通路のある場所から一番離れた場所まで歩き、そこに背負子を下ろして床に座った。
ハウリナもテグスに倣って、同じ場所に背負子を下ろして座る。
「ついでに食事も取ろうか。『ものよ温かくなれ』」
背負子の中から一抱えの牛肉を取り出したテグスは、それを魔術で温めていく。
最下層からここまで、極力魔力を使用していないため、その牛肉を温め終えても欠乏でふら付く事は無かった。
ただどれ程の魔力が体内にあるのかが、テグスには体感で分からないので、そこに一抹の不安はあるが。
「ほら、ハウリナ。あーん」
「あーん、でふ~♪」
短剣で切り分けた牛肉を与えると、ハウリナが美味しそうに咀嚼し始めた。
それを見て喉を鳴らしたテグスは、もう一切れ短剣で切って、それを口に入れた。
その牛肉の断面は中がほんのりとまだ赤い状態だったが、確りと中まで温まってはいるらしく。生肉独特の柔らかくも歯ごたえのある食感ではなく、蒸した肉の食感に近いものがあった。
しかし蒸し肉の様なパサつきはなく、焼いた肉の様に噛めば中から肉汁が出てくるが、焼いた肉独特の香ばしさは無い。
「テグス、テグス。あ~~ん」
「はいはい。どうぞ」
肉の味を確かめていたテグスだったが、ハウリナが餌を欲しがる雛のように口を開けてきたので、その口の中へと削いだ肉を入れてやる。
その後は、ハウリナが肉を二切れ食べる間に、テグスが一切れ食べるといった割合で食事を続けていく。
そうして一塊の牛肉を食べ終えた二人は、壁に背を付けた状態で長めの休憩に入った。
「はぁ~~ふぅ~~」
「眠たいなら寝てて良いんだよ」
「ううぅ~。テグスが起きているです」
「じゃあ後で寝るから、今はハウリナが寝てれば良いんじゃないかな」
「うぅ~みゅぅ~……そうするです」
ただでさえ地上では夜な上に、《迷宮主》との神経を使う戦闘をこなし、そのまま地上へ向けて歩き続け、一応の安全が確保された場所での休憩だ。
そんな眠気と疲れからハウリナは、緊張感の維持が出来なくなってしまったのだろう。
テグスはその事が良く分かるし、魔力欠乏状態になった時に先に休憩をさせてもらっていたので、ハウリナに膝枕をしてあげて眠らせてあげる。
するとハウリナは感触を整える為か、テグスの腿に頬を擦り付けるように顔を動かした後で、すっと眠りに落ちていった。
「……『動体を察知』」
ハウリナの髪の毛を手指で梳くようにして撫でながら、テグスは少しだけ範囲を広めに設定した索敵の魔術を、ハウリナを起こさない様に抑えた小声で詠唱して使う。
返ってきた多数の反応の中で、テグスたちの居る場所に来そうな反応は、大きく分けて二つ。
一つは《魔物》らしき、単体で動くもの。
もう一つは《探訪者》らしき、何個かの反応が集まって動いているもの。
「『動体を察知』――うーん、休憩に来るんなら別に良いんだけど」
少し時間を置いて、もう一度索敵の魔術を使用し、先ほどの反応がどう移動しているかを確認。
すると《魔物》らしき反応は別方向へと進み、近付くのは《探訪者》らしき集団の反応。
テグスは用心の為に、右腰の箱鞘にある短剣を三本抜いて、右手で投げられるように床に配置する。
「『刃よ鋭くなれ』」
そして眠っているハウリナの後ろ腰の箱鞘から短剣を二本抜き取ると、ハウリナの身体の後ろの床に、鋭刃の魔術を使って床に突き立てる。
「とりあえずは、このままの状態で様子見かな」
索敵魔術で感じた反応の距離と進む速度を考慮すると、ここまでやってくるのに時間があるので、テグスはゆっくりと身体を休めて待つ事にした。
テグスが例の反応がこの場所にやって来ると予想した時間を待ってから、最小範囲での索敵魔術を使用してみる。
するとかなり近くに、あの《探訪者》たちらしき反応が出た。
「テグス……誰か来るです」
「そのままの状態で待ってよう。身構えると敵対していると勘違いされるから」
寝ていたハウリナの聴力の警戒範囲にも引っ掛かったのか、目を開けて身体を起こそうとする。
それをテグスは手で押し止めて、膝枕の状態を続けさせる。
しかしハウリナはそのままでは落ち着かないのか、足で黒棍を身体に寄せてから手で掴み、抱かかえるようにしてやってくる《探訪者》たちを待つ。
テグスは大体の準備が終わっているので、ハウリナの緊張感を解くように髪の毛を撫でながら待つ。
「――おっ。ホラな、俺が言った通り居ただろ」
「チッ、まさか本当にガキが居るとはな。また酒を奢らなきゃならんのかよ」
「へへっ、ご馳走様ッス」
「お前にまで奢るとは言ってねえぞ」
「良いじゃねえか。二人が三人増えた所でよ」
「お前もちゃっかりと、尻馬に乗ろうとしているんじゃねーよ!」
賑々しく小部屋状のこの場所に入ってきたのは、四人の《探訪者》たちだった。
一人は犬っぽい獣人だが、残りは全員が人間。
全員が安物らしい薄い革鎧を身に付け、獣人の男は武器らしきものが無いので素手の様だ。他の二人の手には木で出来た打撃武器らしきものがあり、最後の一人は弓を持っている。
「よう、坊主と嬢ちゃん。休憩中かい?」
「ええ、見ての通りです。こんなに深い場所に潜ったのは初めてで、疲れてしまったので」
「おいおい。張り切るのは良いが、死んじまったら元も子も無いんだぜ」
「それは重々分かってます。だから休憩しているんですよ」
先頭を歩く獣人が気安く声を掛けて来たのを、テグスが代表して応える。
その間にも獣人が歩み寄る形で、両者の距離は縮まっていく。
「たった二人で《小六迷宮》はきついんじゃねーか。こっちは大人だが、四人連れでやっとこさって感じだしよ」
「やってやれない事は無いですよ。もう少し上なら、楽に稼げそうですし」
「そうか。所でよ、話は変わるが。その背負子の中身を譲っちゃあくれんかね?」
嘘と真実が混ざり合った言葉を使いながら、テグスは聞かれた事に答えていく。その間も、獣人の男だけでなく他の男たちの様子を伺う事も忘れない。
そんなテグスの警戒する素振りを見てか、ある一定の距離を取って獣人の男が立ち止まり、そうテグスに言葉を投げかけてきた。
「お金を払ってくれるなら良いですよ」
「おいおい、この状況分かってるか。こっちは大人四人で、そっちは子供で二人。そのうち一人は疲労困憊で寝ているときた。なら、普通は床に額を擦り付けてでも、その背負子の中身で許してくださいってお願いするところだろ?」
「……背負子の中身が何か分かってますか?」
「獣人の鼻を舐めるなよ。肉さ。《一眼牛》の肉がたんまりと入っているな。恐らく、倒すには倒したが。その戦闘で、そっちの嬢ちゃんが疲れきっちまった。って所だろう?」
「さぁ、それはどうでしょう?」
背負子の中身を当てた事は凄いが、その後の推測は大外れだった。
しかしそれが全て当たっていたかのように、テグスは警戒した素振りをしながらすっ呆けて見せる。
すると獣人の男は自分の推測が当たっていると確信したのか、ニヤリと口元を大きく歪める。
それは自分の有利を信じて疑わない人特有の、傲慢さが滲み出た笑い方だった。
「それで、坊主よ。痛い目見て奪われるのが良いか。それとも大人しく差し出すのが良いか。どっちよ?」
「貴方たちを倒して、その装備品全てを奪う。っていうのはどうです?」
「ハハッ。それはそれは……舐めるなよ、このガキがァ!」
一気に駆け寄って距離を縮めに来た獣人の男に、テグスは先ず右手で短剣を二本床から拾い上げ、そのまま投擲する。
実力に自信があるらしき獣人の男は、その自信に見合った動きで、テグスが投げた短剣を両手で弾き飛ばした。
どうやら本当に、彼は素手で戦う積りらしい。
襲い掛かってくる獣人の男を見て、ハウリナがテグスの太ももから頭を上げるその影で、テグスは床に刺していた二本の短剣を左手で掴む。
そしてハウリナが立ち上がり黒棍を構える。その横に立ち、テグスは左右一本ずつに持ち替えた短剣で、近寄ってくるその男を迎撃する。
「おッ、っと。対処する準備は万端って事かよ」
「身体強化の魔術。獣人らしいね」
「そいつはどうも――って危ねぇ!」
「あおおおおぉぉんん!」
テグスの左右の短剣を、左右の掌で掴んで止めた獣人の男へと、ハウリナは雄叫びを上げながら黒棍を振り下ろす。
それを彼は咄嗟に後ろに跳んで回避する。
当てる目標を失った黒棍は、振り下ろす勢いそのままに石床に当たり、砕けた石が軽く周囲に飛んだ。
「おいおい。そっちの嬢ちゃんは獣人かよ」
テグスの膝の上に乗せていた状態では、ハウリナの毛量が多い髪で獣耳が隠れていて、分からなかったのだろう。獣人の男は彼女の頭にある耳を見ながら呟く。
「ハウリナ。《白狼族》の支族で《黄牙》の民、テグスの従者です」
「しかも狼かよ。こりゃあこっちが誘い込まれたって事か?」
「誘い込まれたも何も。襲い掛かってきたのはそっちでしょう」
「――これは、酒の件は流れだな。こんな手強そうな相手が、ガキであるはずが無い」
「あっ、こら。何を賭けを勝手に流そうとしてやがる!」
「随分と余裕がありそうだねッ!」
テグスは両手の短剣を、獣人の後ろに居る男たちへと投げつける。
第一目標は遠距離攻撃が可能な弓持ちの男だが、その付近にいる誰かに当たっても良いと、速度と威力重視で狙いは甘め。
その二本の飛んでくる短剣を、木の打撃武器持ちの二人が獲物で打ち落とし、弓持ちは矢筒から矢を引き抜き番え始めた。
「ハウリナ。同じ獣人だ、やれるね」
「お任せです」
「おいおい。嬢ちゃんが相手かよ、舐められたものだな!」
「舐めていないです。全力で相手です」
大人と子供の獣人同士で、戦闘が開始される横をテグスは上体を低くして走り抜け、左腰の片刃剣を抜きながら男三人へと近づいていく。
「間抜けッスね」
真っ直ぐに突っ込んでくるテグスに、そう呟きながら弓持ちの男が矢を放ってきた。
流石に相手も《魔物》を飯の糧にしている《探訪者》らしく、矢が正確にテグスの額に向かって飛んでくる。
「そっちがな――『刃よ鋭くなれ』!」
身体を低くして走って、矢で狙える場所を限定していたテグスは、左手の手甲で矢を防ぐ。
矢に射られた衝撃が左手に走るが、それを無視して鋭刃の魔術を込めた片刃剣を右手一本で振り回す。
「やらせる――いぐッ!?」
恐らく《魔物》を相手にする時にはそうするのだろう。一人の男が打製武器を掲げて割って入り、テグスの一撃を防ごうとした。
しかし単なる木の武器では、魔術が上乗せされた金属の刃物を、押し止める事が出来るはずが無い。
テグスの片刃剣は男の武器を斬り抜けて、革鎧ごと身体を斜めに斬った。
だが武器と革鎧という邪魔があった事と、まだまだ膂力が発達し切れていないテグスが片手で振ったために、致命傷には程遠い。
「このガキ。よくもやりやがったな!」
「そのガキを狙っておいて、勝手な言い分だッ!」
テグスの横合いから武器で殴りかかってくるもう一人の男へ、テグスは左手を片刃剣の柄に戻し、両手で勢い良く横に振った。
振り上げてがら空きだった腹にその一撃を受けた男は、腹から零れ出る臓物と血で一瞬にして顔色を真っ青に変えると、力が抜けたように地面に座り込んだ。
振り抜いた勢いを全身で引き戻しつつ剣を振り上げ、テグスは先ほど武器を斬った男へと振り下ろす。
腹から臓物を出した仲間を呆然と見ていたその男は、テグスによって頭から股間までを縦に斬り捨てられた。
「この、ヤロウ!」
吹き上がる血に視界が阻害されたテグスに、弓持ちの男が矢を握りこんで突っ込んで来た。
どうやら近接武器は持っていないらしく、短剣の代わりに矢をテグスに突き込もうとしているようだ。
距離が近すぎて、片刃剣を振るうのは間に合わないと悟ったテグスは、両手を剣の柄から離した。
そして先ず左手の手甲で矢を持ち手部分から殴って折り、続いて右手甲で下からすくい上げる様にして裏拳で顎をかち上げる。
「『刃よ鋭くなれ』」
「ぐッ――げッがッ」
左手を右腰の箱鞘へと身体の前から回し、短剣に鋭刃の魔術を込めて掴み上げ、男の喉を横に切り裂いた。
苦しげに身を屈ませる男の、喉から噴き出る血を浴びながら、テグスは冷静に後頭部へと短剣を突き刺した。
その男が痙攣しながら地面へと倒れるのを見た後で、手放した片刃剣を地面から拾い上げ、視線を戦っているハウリナと獣人の男の方へと向ける。
「くそがッ。その鎧も武器も、異様に硬ぇな!」
「あおおおぉぉぉぉん!」
両手両足の爪を使っての獣人の男の攻撃を、ハウリナは持ち前の身の軽さで避けつつ、避けきれないのは黒棍と鎧に脛当てで防いでいた。
そして男の攻撃の切れ目に、ハウリナは雄叫びを上げつつ黒棍を大きく一振りする。
しかし相手も、ハウリナの大振りな攻撃に当たる様な間抜けではないらしく。咄嗟に後ろへと跳んで避けてから、その反動を生かすようにハウリナへと突っ込んでいく。
再度始まる攻防を見ていたテグスは、どう戦いに割って入ろうかと少し悩み、身につけた魔術の中で使えそうな物を探す。
「――『存在を薄く』……」
そんなテグスが悪童の笑みを浮べて選択したのは、隠形の魔術だった。
本来なら隠れ身や待ち伏せに使う類の魔術だが。獣人の男がハウリナに熱中している今なら、不意打ちにも使えるのではないかと思っての選択だった。
そのテグスの思惑は当たっているのか、そろりそろりと二人の戦いに近付くテグスの様子を、二人とも気にした様子も無く攻防を続けている。
そうしてテグスが獣人の男の背後へと忍び寄り、大きく片刃剣を振り上げ、そして振り下ろした。
「――!? くそがッ、何時の間に後ろに!?」
しかし片刃剣が巻き起こした風切り音を、獣人特有の敏感な聴力で聞き取ったのか。剣の腹を強化した手爪で払って、凌いでみせた。
そして牽制するようにテグスとハウリナへと手を振り回した後で、大きく二人から距離を空けた。
「今のは当たると思ったんだけど……ハウリナ、怪我は無い?」
「怪我は無いです。まだまだやれるです!」
テグスの問い掛けに答えた通りに、ハウリナの身体には怪我は無かった。
しかし最近購入したばかりの防具には様々な傷が入っていて、テグスが三人の男を仕留めるまでの僅かな間に起きた、獣人の男との攻防の激しさを物語っていた。
「……チッ、やっぱり使えネェやつらだった。ガキ相手に、呆気なさ過ぎだろう」
獣人の男はテグスに殺されてしまった仲間の死骸の方を見つつ、そう愚痴に似た呟きを漏らした。
そしてその声が空気に溶け消えた後で、視線を二人の方へと向ける。
「魔術使いと獣人相手に一人か。どちらもガキとは言え、分が悪いな……」
「逃がすと思います?」
「絶対に逃がさないの」
じりじりと通路側へと逃げようとし始めた獣人の男に、テグスとハウリナは手の得物を握り直す。
「逃がすだって? 違うな、逃げるんだよ!」
「『身体よ頑強であれ』!」
「『身体よ、頑強であれ』」
ぐるりと身体を反転させて、一直線に通路へと駆け出し始める獣人の男。
それをテグスとハウリナは、共に身体強化の魔術を詠唱し、脚の力を高めて追い駆ける。
しかし身体が成長しきった獣人の、しかも同じく身体強化の魔術を使用している速度に追いつける訳もなく、段々と離されてしまう。
「くッ。当たれーー!!」
このままでは逃げられると判断したテグスは、右腰の箱鞘に残っていた短剣の一本を抜くと、走る勢いと魔術で強化した四肢の力を使って、獣人の男へと力一杯に投げつけた。
今までで一番の速さを見せて飛ぶ短剣が、前を走る獣人の男の尻に刺さると思われた。
「尻を狙うなんて危ねぇな!」
しかし獣人の男は直前に壁に足を掛け、そのまま壁を走り続ける事で回避してしまった。
そのまま通路を走り去ろうとする獣人の男に、短剣を投げる事で勢いを止めてしまったテグスは、もう追いつく事は出来ない。
「じゃあな、ガキどもー。もう二度と会う事はないだろうぜ!」
「この、待つです!」
「ハウリナ、追わなくて良い」
テグスの短剣を避けきった獣人の男は、そのまま通路の先へと逃げていく。
それを追い駆けようとするハウリナを、テグスはその手を掴んで押し止めた。
「でも、テグス。逃がすのよくないです」
「あっちの逃げ足の方が早いから追っても無駄だよ。それに何処かで待ち伏せされて、反撃でもされたら危険だし」
「むぅぅ、逃がすの危険です」
「それはそうだけど。追える手段も無いし。荷物はあの場所に置きっぱなしだし」
ハウリナの懸念する事も、テグスは良く分かっている。
だが仮に現実的に追いつけないというのに、諦め悪く追い駆けて結果として逃がしてしまい。さらに折角得た《小六迷宮》を攻略した証である赤い魔石と、その他諸々が入った背負子を失くしたとしたら。まさに踏んだり蹴ったりな事になりかねない。
なのでテグスは、将来に多少の遺恨が残っても、この場は引いた方が良いと判断した。
ハウリナはそのテグスの判断に理解はしたようだが、心で納得しているかと言えば違うらしい。
テグスが投げつけた短剣を拾ってから来た道を戻るのを、ハウリナは少し不機嫌そうに、彼の後ろに付いて歩いていく。
「ふぅ~、まあ荷物は無事だったみたいだし。三人分の装備が手に入ったから、良しとしようよ」
「あいつ、今度見たら絶対倒すです」
倒した三人の男から、使えそうな装備や《鉄証》などの金品を奪い取り、使用した道具を仕舞い直して時間を空けても、ハウリナの腹の虫は収まらないらしい。
その得物を逃した獣の様な苛立ちをみせるハウリナを、テグスはしょうがないと言いたげに、少しだけ苦笑を漏らす。
「ねえ、ハウリナ。予想外の戦闘で疲れちゃったし。ここ――は、死体があって嫌だから。別の場所で休み直そうか」
「……休み直すの、食事も取るです」
「はいはい。じゃあ荷物を持って先に進もうか」
そうして二人は男たちの死骸をこの場に残したまま、通路を進んで休むのに適した場所を探して歩き出した。