31話 《小六迷宮主》
十八、十九層ともに《軽業小猿》をやり過ごしながら進み、二人はようやく二十層へと到達した。
「大して強いわけじゃなかったけど、一気に群がられると大変だったね」
「獲物、沢山居るの良いことです。でも、食べられないの要らないです」
「走り回って疲れたし、ちょっと休憩してから《迷宮主》に挑もうか」
「……そうするです。お腹少し空いたの」
《迷宮主》の居る広間の手前にある小部屋にて、二人は万全を期する為に長い休憩を取る事にした。
なにせこの《迷宮主》や《階層主》の居る層には、他の《魔物》が一切出ないので安全だからだ。
二人は食べ残していた《一眼牛》の肉を、背負子からそれぞれ取り出す。
「『ものよ温かくなれ』」
獲ってから少しだけ時間が経っているので、テグスは念のためにと魔術で肉を温め始めた。
これから《迷宮主》に挑むので、肉を食べられるまで温められる必要最小限度の魔力と、呪文を唱えての温熱の魔術だ。
それをハウリナが見咎める。
「テグス、魔力使うのダメです」
「大丈夫だよ。その分ゆっくり休めば良いんだから」
「長く休むと、その分食料が必要です。これが最後の肉です」
「いざとなったら、携帯食料を出すよ」
「……あれ、あまり美味しくないの」
一応は食料はあると判断してくれたのか、ハウリナは渋々といった感じで、テグスが魔術を使うのを納得したようだった。
そんなハウリナの様子を見て、少しだけ口に笑みを浮べながら、テグスは温め終えた肉を食べつつ、少なくなった水筒の中身を魔術で補充した。
在るだけの肉を食べた二人は、水筒で喉の渇きを潤した後で、ゆっくりとこの小部屋で休む事にした。
テグスは壁に背を預け、横に背負子を置いた状態で目を瞑る。警戒するような相手がここに来るとは、思えなかったので、十分な睡眠を取ろうとしているのだ。
ハウリナもテグスに倣ったのか、背負子を床に降ろしてテグスの横に座ると、彼の肩に頭を預けて目を瞑った。
二人はそのままの状態で、ゆっくりと眠りへと落ちていった。
睡眠で体力と魔力の回復に努めたテグスは、十分に回復したと体が判断したのか、朝に起きるように自然と目が覚めた。
直ぐに軽く左右を見回して、人影や《魔物》の姿が無い事を確認する。
「ふわわ~、よく寝た。うん~~!」
誰も居ないので気を抜いて、ぐっと座りながら背を伸ばし、所々に滞った血流を全身へと流れるようにする。
そうして肩に乗っていたハウリナの頭の重さが無い事に気が付いて、顔をめぐらそうとして止めた。
「……まだぐっすりと眠っているや」
何故なら彼の腿を枕にして軽く背を丸めた状態で、ハウリナが床の上で寝ているのに気が付いたからだ。
初めて一日以上迷宮に潜り続けているのだから、ハウリナも疲れていたのだろう、深く静かに眠っている。
しかしながら、起きていると元気溌剌とした雰囲気を振り撒くハウリナだが、整った目鼻立ちもあって、静々と眠っていると何処かのお嬢様の様だ。
「まあ、見た目だけだけど――ハウリナ、もう起きれる?」
ただし、何か美味しいものでも食べているのか、時々むにゃむにゃと口を動かし、口の端から涎を垂らすお嬢様が、この世に居ればの話だが。
まだ寝ていたいのなら寝させておこうという、テグスの優しげで小さな問い掛けに、ハウリナの耳はピクピクと反応を返した。
そして眼をパチリと開けると、むくりと上体を起こした。危うくハウリナの頭に顎をかち上げられそうになったのを、テグスは寸での所で回避した。
衝突しかけた事が分かっていないのか、少しぼーっとした様子で宙を見ていたハウリナは、行き成りぐるっとテグスの方へと顔を巡らせた。
「――おはようです。長く寝たの」
「うん、おはよう。長くってどれくらい?」
「う~う~……迷宮に入って二日目の朝に寝て、二日目の昼過ぎに起きたの」
「……もしかして、今の時間が分かる?」
「分からないです?」
不思議そうに尋ね返してくるので、どうやらハウリナは今の時間を正確に把握しているらしい。
普通は迷宮に長い間潜り続けると、段々と時間の感覚が曖昧になり。自分では夜だと思って迷宮を出ても、実際は朝だったりしたり。一日二日と時間経過がずれたりする。
その点だけで言えば、ハウリナは《探訪者》としての素質があると言う事だろう。
事実テグスはその能力にやや劣っていて、今は迷宮に入って二日目ぐらいにしか分かっていなかったのだ。
「……日付なんか分からなくたって、迷宮の攻略に大きな支障はないし」
「どうしたです?」
「いや、なんでもない。それでそれだけ時間が経っているなら、お腹空いているでしょ。携帯食料しかないけど、食事にする?」
「わふ。食べるです!」
眠る前はさほど食べる気は無かった様子だったハウリナだが、実際にお腹が空いてみると、味が良くない携帯食料でも腹に入れたいのだろう。
テグスもお腹が空いているので、背負子から二人分の携帯食料を取り出す。
そうして二人はあまり味わう事無くさっさと食べ終えて、さらに水筒の水で更に胃を膨らませる。
「けふっ。食べたです」
「よし、じゃあ寝起きの身体を解したら《迷宮主》に挑むよ」
「おー、です!」
テグスとハウリナは立ち上がると、体の調子を確かめる様に、二人揃って一通り自分の動きを確認し始める。
疲労感や体力の回復は、歳若い二人では一回眠るだけで済んでしまったのか、何時も通りの体の切れを取り戻していた。
「よし。十分体が動かせるようだし。行こうか」
「うん、です!」
装備品も一通り確認し終わったテグスは、背負子を片手に持ちハウリナを伴って、《迷宮主》が居る広間へと足を踏み入れた。
光りの玉が天井付近を飛びまわり、そして一箇所に留まると一気に光量を増やして広間を照らし出す。
そうしてテグスとハウリナの眼が一瞬眩んだ所で、広間の中央部に一匹の《魔物》が出現する。
その姿は、テグスやハウリナより一回り大きな――大の大人よりは一回り小さめな、二足で大地を踏みしめる大猿だった。
「なんだか大きな猿だね」
「石投げてきた、あの猿の主みたいです」
「じゃあ『親分猿』って、仮の名前を付けようか」
「オヤブンです!」
テグスが仮に命名した『親分猿』は、じっと背負子を床に下ろしている二人の方を見たまま、一切動こうとしない。
ならとテグスが腰からなまくらな短剣を取り出して、何時も通りに投げつけようと振りかぶる。
そして投げようとする瞬間、その『親分猿』の表情が気に入らなくて、テグスは投げるのを思いとどまった。
「テグス、どうしたです?」
「あいつ、投げようとした短剣を見て笑った」
「……どういう事です?」
「投げた短剣を避ける自信があるのか。もしかしたら、投げた短剣を回収して、武器として使用する積もりかもしれない」
「気にしすぎです?」
「それならそれで良いけど。念のために、短剣を投げるのは止めにする」
確かに攻撃の中止は、テグスの過剰反応かもしれない。
しかし『親分猿』のように二足歩行の《魔物》は、武器を使いだすと何かと手強かったりする事を、テグスは体験として知っていた。
《魔物》の中では小さく弱い部類のコキトでさえ、小さな武器を持てば一段階手強くなるのだ。
もし『親分猿』が武器を柔軟に使えた場合を思えば、テグスの用心はするに越した事が無い物だろう。
「キャキャーーーーアアア!」
テグスが短剣を投げずに箱鞘に収め、代わりに片刃剣を抜いたのを見て、当てが外れた腹いせかのように、『親分猿』から大きな金切り声の様な咆哮がこの広間に迸る。
不快で耳障りなその声に、テグスは顔をしかめ、ハウリナは耳をペタリと伏せてやり過ごす。
そして一頻り吠えた『親分猿』は、地面を一歩一歩踏みしめるようにして、二人の方へと歩き寄ってきた。
「ハウリナは身体強化して、かく乱をお願いね」
「テグス、仕留めるのはお願いするの」
身構えた二人はお互いにそう言い合うと、先ずはハウリナが鉄棍片手に『親分猿』へと、一直線に飛び出していく。
一方でテグスは『親分猿』の横合いに回りこむように、大回りに広間の中を駆けて行く。
「あおおおおぉぉん!」
「キャキャイィーー!」
鉄棍を振りかざして雄叫びを上げて迫るハウリナへ、『親分猿』は手を振り回して迎え撃とうとする。
しかし太目の棍棒のようなその腕の下を、ハウリナは潜り抜けて、そのどてっぱらに一撃を当てた。
「ギャギャイ゛ーー!」
「甘いのです~」
ハウリナの攻撃の痛みに怒り心頭なのか、両手を左右に振り回す『親分猿』だが、一発たりとも当たらない。
それどころか、ハウリナはわざと相手の怒りを煽るかのように、避けながら鉄棍を『親分猿』の体に当てていく。
一方的に身体に攻撃を受けた『親分猿』は、今度はハウリナを捕まえようと掌を広げて迫る。
「こっちを忘れてないかい!」
「――イギャギャイーー!」
そこに『親分猿』の横合いから、両手で片刃剣を握ったテグスが、その足目掛けて剣を振り抜く。
流石に《迷宮主》だけあって、並々ならぬ切れ味を誇る片刃剣とは言え、一斬で足を切断する事は出来なかった。
それでもまるで粘土にナイフを入れたかのように、すっぱりとした綺麗な切断面を見せ。数瞬遅れて、その傷から赤黒い血が噴出す。
血が噴き出るまで痛みを感じてなかったのか、『親分猿』の悲鳴が上がるのも一瞬遅かった。
「どうやら警戒しすぎていたのかな」
「力はあるです。でも、攻撃も走るのも遅いの」
足の傷で地面に倒れこんだのを罠かと警戒して、一度合流した二人だったが。
余りにもうそ臭くない痛がり方の『親分猿』の様子に、少々拍子抜けしたような顔付きで、その姿を見ていた。
この時、二人に油断が無かったとは言えない。
何せ相手は片方の足を半ばまで切断されていて、二人に近付く事が出来る様には見えなかったのだ。加えて十分に安全圏を取っていると判断できるほど、二人と『親分猿』の間には一足飛びでは埋まらない程の距離があった。
「――血が止まっている……ハウリナ、横に跳べ!」
だからテグスが『親分猿』の変化に気が付くのも、その油断の分遅れた。
しかしその遅れた分を辛うじて埋めたのは、テグスの《大迷宮》までの迷宮に潜った体験と、念のためにと取っておいた距離だった。
テグスは右方向に、ハウリナは左方向へと全力で飛び退くと。二人の丁度その間を、飛び掛ってきた『親分猿』が通過した。
狙いを外した『親分猿』が着地間際に、地面を己の手爪で引っ掻くと、深々と石床に溝が穿たれた。
「まさか《小迷宮》なのに、身体強化してくる《魔物》が出てくるなんて」
「魔術使ってくるです!?」
「魔術じゃなくて、《魔物》独特の別の魔法的な何かで強くなるんだよ。《蛮行勇力の神ガガールス》が作ったと云われる《中二迷宮》にも、似たようなのが出んだけどね」
「ギャキャイーーー!」
「突っ込んでくるのは《小六迷宮》の《魔物》のお約束なのか!?」
四肢を使って飛び掛るようにして突進してくる『親分猿』を、横に避けながらテグスは手の片刃剣を横に振るう。
しかし体表も強化していたのか、腕に付いたその傷は、足のに比べて大分浅かった。
「ギャキャキャキャーーイーーーー!」
「あおおおおおぉぉぉぉん!」
刃物を振るうテグスは強敵と判断したのか、今度はハウリナへと突進していく。
ハウリナはそれを迎え撃つ積りなのか、雄叫びを上げながら鉄棍を振りかざす。
そうして『親分猿』の手爪と、ハウリナの鉄棍は、お互いに一撃ずつ当たり体が後ろに吹き飛んだ。
「ハウリナッ!?」
「――だ、大丈夫です。鎧で防いだの!」
無茶な行動に心配するテグスの言葉に、ハウリナは少し苦しげながらはっきりとした声で言葉を返してきた。
それに安心した気持ちを引き締めて、テグスは頭に鉄棍を受けてふら付いている『親分猿』に駆け寄る。
「『刃よ鋭くなれ』!」
「――ギッギャァ!?」
テグスが近づいてくる事に気付くのが遅れた『親分猿』は、片刃剣の一撃を片手で防ごうと腕を翳す。
先ほどのテグスの一撃が、腕を浅く斬るだけだったのでそれで防げると思ったのだろう。
しかし呪文詠唱して可能な限りに魔力を込めた、鋭刃の魔術を掛けたテグスの片刃剣は、易々とその腕を斬り通り、身体を袈裟に斬り下ろした。
だがその余りの切れ味に斬撃の勢いは『親分猿』を斬っても止まらずに、剣身の先が石床を斬りながらテグスの左後ろへと通り抜けた。
「ギャ……ギャギャガブ……」
暫くはなんとも無さそうだった『親分猿』だったが、うめき声を上げて口から血を吐いた後、斜めに掲げた手と体がずれていく。
そしてそのずれた面から出始めた血で、さらに滑りが良くなったのか、そこからは一気に素早く二つに分かれてしまった。
「………………」
「テグス、大丈夫です?」
『親分猿』から吹き上がる血を浴びたまま、じっとして動かないテグスに、ハウリナから心配そうな声が上がった。
そこでようやく我に返ったテグスは、頭から顔へと流れ始めた血を手で拭き払いつつ、血を浴びない場所へと退避した。
「大丈夫だよ、ちょっと驚いただけだから。ハウリナの方こそ、攻撃を受けたけど大丈夫?」
「鎧さまサマです」
ハウリナが手で撫でた彼女の胸鎧には、平行に四本の傷が筋となっていた。
しかし《平硬虫》の硬い甲殻を使用しただけあってか、その深さは浅そうに見えた。
「鎧を作ってくれたメイピルさんに、迷宮を出たらお礼を言わないとね」
「お土産に、牛肉持って行くの!」
「それは良い考えだ。でもその前にッ!」
テグスは口元はにこやかに笑いながらも、眼に怒気を含ませてハウリナの脳天に拳を下ろした。
「痛ッいの。何で殴るです?」
「何で殴ったと思うか言ってごらん」
「……オヤブンの攻撃を受けたからです?」
恐る恐るといった感じのハウリナの言葉に、テグスは分かって無さそうだと目の怒気が強まった。
「それは違うよハウリナ。攻撃を『わざと』受けたからだよ。もっと言えば、相打ち覚悟の攻撃を選んだ事を怒っているんだよ」
「で、でも、鎧で防いだです。怪我無いです。オヤブン倒したです。迷宮攻略したです」
「大怪我するかもしれない事をやるなと言っているんだよ。あんな事をしなくても、『親分猿』を倒す方法はあったんだよ。
十分に避けられる攻撃なんだから、時間を掛けて怪我と失血を強いて、動きを鈍らせる事も出来ただろうし。十分ある魔力を使って《補短練剣》を使用しないと発動しない、強力な魔法を使うとかね」
「わううぅぅぅ~、でも、でもぉ~~……」
自分の頑張りを否定されて嫌なのか、それともテグスの言葉を受けても反省しきれないのか、ハウリナはしょんぼりしながらも何かを言おうとしている。
そんな仕草をするハウリナの言いたい事は、テグスには何となく分かっていた。
誰かの為にと行動したのに、その誰かにその行動を否定されれば、悲しいし遣り切れない思いを抱く。そして否定の言葉が、自分の存在を否定しているように感じ始めるのだ。
そんな経験をテグスもした事があったので、ハウリナに誤解して受け取って欲しくないと、彼女の体をぎゅっと抱き締めた。
「確かにハウリナのあの攻撃が決め手になったし助かったよ。でもね、ハウリナはもう奴隷じゃないんだ、大事な家族なんだよ。家族が怪我すれば、誰だって悲しいよね。だからもう、あんな危険な真似はしちゃ駄目だからね。約束してくれるよね」
「……うん、分かったです。約束するの」
テグスのその言葉と行動で、ハウリナは正しく何に怒られたのかを理解したのか、そっと抱き返してきた。
そのまま数秒間抱き合った後で、ハウリナはテグスの腕の中から顔を上げて、テグスの瞳をじっと見てきた。
「でもです、テグス」
「なにかな、ハウリナ」
「テグス、オヤブンの血で汚れているです。抱かれたから、血で汚れたの」
「……ごめん」
確かにハウリナの服に、テグスから移った血がべっとりと付いていた。
その事を気に病んだ風に謝るテグスを見て、ハウリナは笑顔になりながら、気にしていないかのようにきつく抱き締め返した。