裏切り (3)
診療所のインターホンが鳴った。今頃どちら様でしょうと思いながら、流輝は返事をしドアを開けた。そこには疲弊した様子の美咲が立っていた。
「美咲さんどうされたのですか? 又、何か?」
「あの……今夜、泊めて頂けないでしょうか」
美咲は俯いたまま小さな声でそう言った。
「はい、宜しいですよ。さあどうぞ」
促され美咲は扉をくぐる。
「あの……ミラルド様は?」
「はい。久しぶりにこちらに戻られて、今は自室に。何かご用ですか?」
俯きがちに聞いていた美咲ははっと顔を上げ、いえ別に……と言葉を濁し瞳をおよがせた。流輝は美咲の様子に違和感を覚えたものの涼の事を気に病んでいるのだろうと、泊める事にした。
食事も風呂も済ませて来たと応え案内された部屋のベッドに潜り込む。目を閉じ時間が過ぎるのをただひたすら待った。
真夜中、美咲はベッドから抜け出し静かに部屋を出た。月明かりに照らし出された木目調の廊下を、物音を立てない様に慎重に進む。ドアノブを回し細い隙間からするりと中へ滑り込んだ。
美しいウルフ族の当主が安心し切った様子で静かな寝息を立てている。美咲の頬を涙が伝った。
――ごめんなさい――
深々と頭を下げ美咲は心の中で当主に侘びた。
美咲は念のためミラルドが目覚め無い様に暗示を掛ける。白い首筋に銀色に輝くチェーン、それにそっと手を伸ばす。美咲は一瞬躊躇ったが、ゆっくりと留め具を外し紋章を手中に収めた。右手を握りしめベッドの傍らに佇む。
「ミラルド様……今一度の裏切りをお許しください。申し訳ありません……」
そう言い残して美咲は診療所を後にした。
美咲は公園の池の前で握っていた拳を開いた。銀色に輝く紋章を見つめる。
「私は……何て事を……」
やっぱりこれは、……返しに行かなくては……
そう思い直し、振り向いたらそこに黒樹が立っていた。
「持って来たのだな。早くこちらへ」
黒樹が手を差し伸べる。これでウルフ族を殲滅出来る。悦びで身体が震える。
「さあ早く」
更に手を差し伸べた。
突然身を翻し美咲は駆け出した。もうすぐ紋章が手に入ると油断していた黒樹は反応が遅れてしまった。
ふふふ、我から逃げられるものか。黒樹は黒いもやに姿を変える。
前方に黒いもやが集結してゆく。美咲は方向を変え全速で走った。
黒樹はわざとゆっくり追い回し楽しんでいるかの様に見える。そんな様子を少し離れた場所から隼人が眺めていた。
「何をやっているのだ、あの者は」
休息を取る様に言われたが、自主的にパトロールを続けていたのだった。隼人は走り回っている美咲に近付いて行く。あと数メートルという所で黒樹が姿を見せた。
「あれは……」
隼人は唇を噛みしめる。我等の仲間を虫けらの様に殺めた者――
二人は何やらもめている様に見えた。
「お前達、何をしている!」
美咲は隼人に気付きそちらに向かおうとするが黒樹が立ちはだかる。
「あの者に何の用がある。お前は夫を助けたくはないのか?」
黒樹はニヤリとわらう。
「……くっ……」
美咲は一瞬動きを止めたが直ぐに上体を低くして右側へ走り出た。自分の言葉に動かされると高を括っていた黒樹は、又もや反応が遅れた。あと一歩で隼人に届く。
「これをミラルド様に。……お願い。ミラルド様に渡して――」
美咲は目一杯右手を隼人に向けて伸ばす。黒樹はそうはさせまいと負の妖力を二人に放った。黒い妖力に包まれたと思われたが、間一髪で隼人はバリアを張った。バリアの中にいても黒い妖力は甚大で今にも押し潰されてしまいそうだった。顔を歪めバリアに集中する隼人の懐に、美咲はそっと紋章を忍ばせた。
「私が囮になります。直ぐにバリアを張り直して下さい」
美咲はそう言うと二人が入るバリアを内側から割って外に飛び出した。
「貴方なんかに、この紋章は渡さない!」
美咲は仁王立ちし、黒樹に右手を突き出しそう叫んで走り出した。
「小娘め……」
黒樹は、バリアで身を守る隼人には目もくれず美咲を追う。
負の妖力を浴び、何度も倒れながら美咲は逃げる。それを追って二人は見えなくなった。ポツンと一人残された隼人は呆気に取られていた。
「紋章? あの者は、紋章と言ったのか? ミ、ミラルド様……」
ミラルド様に何かあったのだろうか……
隼人は診療所に向かって走り出した。