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夫の愛人が八年間「奥様」を名乗っていたので、本物は静かに身を引きます  作者: 九葉(くずは)


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第9話 本物の名前

 夜会の夜、私は辺境伯の屋敷で帳簿を開いていた。


 戦場は、別の場所にある。


   ◇


 王都の社交季。年に一度、貴族が集う夜会の中でも最大の催し。辺境伯は出席のため三日前に発った。私は残った。


「出なくていい。結果は俺が持ち帰る」


 辺境伯はそれだけ言って馬車に乗り込んだ。振り返らなかった。あの人はいつもそうだ。用件を伝えたら、もう済んだ顔をしている。


 だから私は今、帳簿を開いている。来月分の交易予測を立てる作業の途中で、ペンの先にインクが溜まりすぎた。拭う。数字を書く。窓の外は暗い。暖炉の薪がぱちりと爆ぜた。


 王都では今頃、夜会が始まっている。セリーヌが「伯爵夫人」として壇上に立ち、慈善事業の報告をしている頃だろう。私が作った数字を、私ではない名前で。


 もうすぐ、帳簿が開かれる。


 本物の帳簿が。


   ◇


 辺境伯が戻ったのは、翌日の夕方だった。


 馬車の車輪の音が聞こえて、窓から覗くと、辺境伯が馬車を降りるところだった。旅装のまま、真っ直ぐ玄関に入っていく。


 帳簿室で待っていると、足音が近づいてきた。扉が開いた。


「終わった」


 それが第一声だった。


 辺境伯は外套を脱ぎもせず、椅子に腰を下ろした。旅の疲れが目の下に影を作っている。外套の肩に王都の夜気がまだ残っているのか、かすかに香水と蝋燭の脂の匂いがした。夜会の空気を纏ったまま、ここまで帰ってきたのだ。


「セリーヌ・モンフォールが、夜会の壇上で慈善事業の年次報告を行った」


 知っている。予想通りだ。


「立派な演壇だった。声もよく通っていた。あの女は人前に立つのが上手い」


 そうだろう。セリーヌの自己演出力は本物だ。それは認める。


「報告の最中に、監査局の報告書が正式に提出された。バルトゥール伯爵領の税収が、過去八年と直近半年で大幅に乖離していること。『過去八年の成果を上げたのは誰か』という問いが、文書として読み上げられた」


 辺境伯が、私を見た。


「会場が、静まった。虫の音すら聞こえるほどに。交易商人オリヴィエが証言台に立った。『全ての交渉相手はリゼット・バルトゥール夫人でした。セリーヌ様とお会いしたことは一度もございません』と」


 オリヴィエ。


 あの実直な商人が、公の場で証言してくれたのか。


「帳簿の筆跡鑑定も行われた」


 辺境伯の声が、少しだけ静かになった。速度が落ちた。ここを、丁寧に伝えようとしている。


「鑑定士が帳簿を手に取った時、会場の何人かが息を呑んだ。鑑定魔法が起動すると、帳簿の頁が淡く光ったそうだ。鑑定士が言った。『この帳簿には、八年分の誠実な感情が染みている。記帳者とセリーヌ・モンフォールは完全に別人だ。これほど安定した感情の帳簿は見たことがない』」


 手のひらの中心が、じわりと熱くなった。


 八年分の誠実さ。


 毎晩、帳簿の控えを確認してから眠った。間違いがないことを確かめて。嘘がないことを確かめて。あの夜ごとの作業が、帳簿に染みていた、と。


「セリーヌは反論した。"私が企画した"と。声が裏返っていた。だが一次資料の全てがあなたの筆跡だった。壇上から降りた時、誰も声をかけなかった。広間の真ん中を一人で歩いていく背中を、全員が黙って見ていた」


 辺境伯が淡々と語る声を聞きながら、不思議な感覚があった。


 怒りでも、快哉でも、復讐の達成感でもない。


 帳簿の最終頁を閉じた時に似ている。全ての数字が合った。辻褄が合った。嘘のない数字が、嘘のある数字を静かに上書きした。それだけだ。


「ルシアンは」

「妻を庇おうとした。だが白い結婚の事実と、愛人の偽称を八年間黙認していたことが同時に露見した。夜会が終わる前に、半数以上の出席者がルシアンへの挨拶を避けていた。あの男の周囲に、三歩分の空白ができていた」


 三歩分の空白。社交界での死刑宣告に等しい。


「離縁は成立した。子爵殿が仲裁裁判所に申し立てた書類が受理され、重大な契約違反……手紙の検閲と偽造、配偶者の社会的地位の棄損……を根拠に、白紙条項の前倒し発動が認められた」


 離縁。


 成立した。


 八年間の白い結婚が、終わった。


 膝の裏に汗が滲んだ。安堵なのか、喪失なのか、わからない。帳簿を閉じた後の静けさに似た、何もない空間がぽっかりと胸の中に開いた。


 辺境伯が立ち上がった。外套の埃を払い、窓際に歩いていく。夕日が横顔を琥珀色に染めている。


「もう、理由がなくなった」


 背中越しの声だった。


「仕事として、あなたをここに留める理由が」


 振り返った。


「仕事ではなく、あなた自身に隣にいてほしい」


 静かな声だった。帳簿を「美しい」と言った時と同じ声。飾りがない。計算がない。ただ、そこにある事実を述べているだけの声。


 嘘がない。


 この人の言葉には、帳簿と同じように、嘘がない。


「……考えさせてください」


 声が揺れた。堪えきれなかった。少しだけ、裏返った。


 辺境伯は一瞬だけ、目を見開いた。拒絶を予想していたのかもしれない。けれどすぐに、いつもの無表情に戻って。


「待つ」


 それだけ言って、執務室に戻っていった。


 帳簿室に一人残された。


 暖炉の薪が、ぱちぱちと燃えている。あの人が、私のために積んでくれた薪。変えてくれた茶葉。整えてくれた椅子と書棚。


 帳簿を閉じた。


 明日、答えを出す。自分の数字で。自分の言葉で。

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