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夫の愛人が八年間「奥様」を名乗っていたので、本物は静かに身を引きます  作者: 九葉(くずは)


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第8話 白紙条項

 白紙条項。婚姻契約書の第七条。


 十年間の空白を、紙に還す。あと二年が、遠い。


   ◇


 帳簿室の机の上に、全てを並べた。


 一つ。帳簿の控え。八年分、七冊。バルトゥール伯爵領の歳入歳出、交易記録、租税台帳。全て私の筆跡で、私の感情が微量に染みた帳簿。鑑定魔法にかければ、記帳者が私であることは一目でわかる。


 二つ。偽造返信の筆跡。父が鑑定人に確認済みの証拠書類。五年分の手紙が検閲され、私の名を騙った偽の返信が父に送られていた。筆跡は私のものではない。


 三つ。交易商人オリヴィエの証言。バルトゥール領との交易契約は全て「リゼット・バルトゥール夫人」と直接交わした。この事実を、オリヴィエが書面で証言してくれた。辺境伯の交易担当者を通じて連絡を取った結果だ。


 四つ。父、ジャン・ヴァレンシュ子爵の後ろ盾。文官として王都の法務に顔が利く父が、正式に支援を表明している。仲裁裁判所への申し立ては、父が代理人として行う手はずも整えてくれた。


 全て揃った。


 白紙条項の前倒し発動には「重大な契約違反」の立証が必要だ。手紙の検閲と偽造返信は、婚姻中の配偶者に対する背信行為に当たる。愛人の偽称を黙認し、正妻の社交界との接点を遮断したことも、婚姻契約の「相互の社会的地位の保全義務」に抵触する。


 道筋は見えた。証拠はある。根拠もある。


 けれど。


 手が、止まった。


 証拠を並べている間は冷静でいられた。数字を扱うように、一つずつ確認し、整合性を取り、不足を洗い出す。それは得意だ。帳簿と同じだから。


 帳簿と違うのは、これが私の人生だということ。


 八年間。


 白い結婚の八年間で、私は何を得たのだろう。帳簿の腕は上がった。交易路の設計も、税制の最適化も、できるようになった。けれどそれ以外の。人としての。女としての八年間は、空白だ。


 誰にも名前を呼ばれなかった。


 誰にも手紙を届けてもらえなかった。


 誰にも帳簿を見てもらえなかった。


 愛される種類の人間ではないのだ。わかっている。八年間でわかった。数字を愛することはできる。数字に愛されることは……ない。人にも。だから帳簿を。だから数字を。


 ああ、私は帳簿に逃げていたのか?


 「あなたにだ」。


 あの言葉が、まだ耳の奥で鳴っている。帳簿を褒めたのか、私を褒めたのか。どちらでも同じだ。帳簿がなくなれば、私に用はなくなる。ルシアンがそうだったように。あの人だって、そうだ。きっと、そうだ。帳簿を失えば、私はまた。


(やめなさい。数字が合わない時に感情で帳簿を閉じる人間は、経理失格よ)


 肩甲骨の間がぞわりと冷えた。自分の思考に怯えている。情けない。


 深呼吸をした。証拠の書類を揃え直した。


   ◇


 執務室の扉を叩くと、辺境伯の声が返った。


「入れ」


 中に入ると、辺境伯は窓際に立っていた。夕日を背にして、こちらを見ている。


「証拠が揃いました。仲裁裁判に持ち込めば、白紙条項の前倒し発動は可能かと存じます。父が代理人として申し立ての準備を進めております」

「そうか」


 誰も口を開かない間が流れた。


「俺が後ろ盾になる。辺境伯の名を添えれば、手続きは速い」


「……お気持ちは、ありがたく存じます。ですが」


 言葉を選んだ。


「これは私の問題です。閣下の政治的な立場を使わせるわけには参りません。私個人の離縁問題に辺境伯家を巻き込むことは」


「リゼット」


 名前を呼ばれた。


 辺境伯が私の名を呼んだのは、これが初めてだった。いつも「ヴァレンシュ」か「経理担当」か、名前を呼ばないか、そのどれかだったのに。


 足の指が、靴の中でぎゅっと丸まった。


「あなたの問題だと言うなら、あなたが決めろ。証拠を使うのも使わないのも、あなたの選択だ」


 当然のことを言っている、という口調だった。


「だが」


 辺境伯が、一歩近づいた。


「俺がここにいることは、あなたの問題ではない。俺の選択だ」


 帳簿を見る時と同じ真剣さで、私を見ていた。嘘をつかない。飾らない。ただ、数字を読むように、まっすぐに。


 この人は、帳簿に対するのと同じ誠実さで、人にも向き合うのだ。


 喉の奥がきつく絞まった。泣くのとは違う。泣くのとは、違うのだけれど。


「……ありがとうございます」


 それしか言えなかった。


 辺境伯は頷いて、窓際に戻った。何事もなかったかのように。


   ◇


 執務室を出る間際、マティアスが控えめに声をかけてきた。


「ヴァレンシュ様。王都の社交季が近づいております。バルトゥール伯爵夫人を名乗る方が、慈善事業の年次報告を夜会で行うとのことです」


 慈善事業の年次報告。私の仕事の成果を、私ではない人間が、私ではない名前で。


 けれど、もう怒りはなかった。


 代わりにあったのは、帳簿の最終頁を開く前の、あの静かな集中。


 嘘をついた帳簿は、いつか必ず合わなくなる。


 夜会。公の場。帳簿が開かれる場所。


 父には、社交季に合わせて仲裁裁判所へ申し立てるよう手紙を書いた。監査局の調査報告と時期が重なれば、証拠の信憑性は増す。


 ペンを置いた。


 窓の外は暗い。けれど暖炉の火は温かい。あの人が積んでくれた薪が、まだ燃えている。


 時が来る。

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