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夫の愛人が八年間「奥様」を名乗っていたので、本物は静かに身を引きます  作者: 九葉(くずは)


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第7話 帳簿にですか?

 税収が半分になった。


 たかが帳簿と言った日が、もう遠い。監査局から書簡が届いた。過去八年の税収報告と直近半年の実績に重大な乖離がある、と。説明を求められている。


「私がどうにかするわ。ルシアン、大丈夫よ」


 セリーヌが微笑んだ。帳簿が読めない人間の「どうにか」ほど空虚な言葉を、私は知らない。


 ……リゼットなら、一晩で整えただろう。


   ◇


 帳簿が、仕上がった。


 最後の一頁に数字を書き入れ、合計欄を検算する。一度、二度、三度。合った。全て合った。


 交易路の最適化が効いた。三本の路を季節ごとに使い分ける運用に切り替えたことで、輸送効率が上がった。税制の細分化も順調に浸透している。結果として、辺境伯領の交易利益は、私が着任する前の一・五倍になった。


 ペンを置いた。


 指先のインクを布で拭いながら、帳簿を眺めた。数字の列が整然と並んでいる。頁をめくるたびに、この三ヶ月の仕事が見える。一行一行、嘘のない数字。


 帳簿を持って、辺境伯の執務室へ向かった。


「閣下。完成いたしました」


 辺境伯は机に向かって書簡を読んでいた。顔を上げて、帳簿に目を留める。


「見せろ」


 手渡した。


 辺境伯が帳簿を開いた。頁をめくる。いつもの速さで……いや、今日は少し遅い。一頁ずつ、丁寧に目を通している。交易路の統合記帳。税制の細分化表。備蓄管理の再構築。数字の列を、指先で辿っている。


 長い静寂だった。


 暖炉の薪が爆ぜる音だけが、部屋に響いている。窓から差し込む夕日が帳簿の頁を琥珀色に染めていた。辺境伯の横顔に影が落ちている。高い鼻梁と、薄い唇と、少しだけ伏せられた目。


 なんで私、この人の横顔なんか見ているのだろう。


 視線を帳簿に戻した。


 辺境伯が、頁をめくる手を止めた。


「美しい」


 ……え?


 帳簿を見つめたまま、もう一度呟いた。低い声で。独り言のように。


「美しい帳簿だ」


「帳簿に、ですか?」


 聞き返していた。反射的に。帳簿を褒められたのは嬉しい。嬉しいが、何か、声の調子が、数字を評価する時のそれとは違った気がして。


 辺境伯が帳簿から目を上げた。


 まっすぐに私を見た。


「あなたにだ」


 。


「あなたの仕事のやり方。考え方。数字に表れる誠実さ。その全てが」


 帳簿。帳簿のことですよね? あなた、仕事の話をして。していたはずで。「あなたにだ」。仕事の話ではなかった。頭の中で帳簿の数字がばらばらに散った。合計欄が空白になった。何も計算できない。


 唾を飲み込もうとした。喉の奥が硬くて、うまく飲み込めなかった。


「……あ、ありがとうございます。帳簿を褒められたのは、初めてですので」


 声が裏返りかけた。堪えた。堪えたが、耳の縁が燃えるように熱い。北方の屋敷でこんなに顔が熱くなるのは初めてだ。


(帳簿を褒められた。帳簿を。帳簿の話だ。そう、帳簿。……帳簿?)


 辺境伯は帳簿を閉じて、机の端に丁寧に置いた。何事もなかったかのように書簡に目を戻している。


 逃げるように執務室を出た。


   ◇


 廊下を歩いていると、マティアスが控えめに声をかけてきた。


「ヴァレンシュ様。一つ、お伝えしてもよろしいでしょうか」

「は、はい」


 声がまだ少し上ずっている。落ち着け。数字を数えろ。一、二、三……。


「最近、お茶の銘柄が変わったことにお気づきでしたか」

「……ええ。以前より香りが良くなったと思っていました」


 マティアスが、静かに微笑んだ。三十年仕えた老紳士の、穏やかな笑み。


「閣下が、お茶の銘柄を変えるよう指示されたのです。ヴァレンシュ様がお好みの種類に」

「……え」

「薪の量も、椅子も、窓際の書棚も、全て閣下のご指示です。あの方は……口ではおっしゃいませんので」


 暖炉の薪。


 あの日。「暖かいですね」「……そうか」。あの「そうか」は。


「お伝えするなと仰せでしたが、お伝えしました」


 マティアスが一礼して去っていった。


 廊下に一人残された。


(もしかして。もしかして、この方は)


 いや、まだ早い。帳簿を褒められただけだ。仕事ができる人間を手元に置きたいだけかもしれない。薪も茶も椅子も、雇用者として当然の待遇を整えただけかもしれない。


 かもしれない。


 けれど。「あなたにだ」と言った時の、あの目が、まだ瞼の裏に残っている。


   ◇


 帳簿室に戻ると、マティアスがもう一通の書簡を届けに来た。


「バルトゥール伯爵家から、仲裁裁判所を通じて正式な通達です。離縁は認めない、と」


 熱が引いた。


 白紙条項は十年。私が屋敷を出たのは八年目。あと二年。二年待てば自動的に発動するが、ルシアンは、その二年の間に私を連れ戻すつもりだろう。帳簿を作る手が必要だから。


「重大な契約違反を立証できれば、十年を待たずとも前倒しで発動できます」


 自分の声が、帳簿の検算をする時のように冷静に聞こえた。


「証拠はございますか」


 マティアスが、探るように尋ねた。


「……まだ、揃っていません」


 帳簿の控え。偽造返信の筆跡。交易商人の証言。父の後ろ盾。


 足りない。まだ足りない。けれど、道筋は見えている。


 窓の外は、もう暗かった。北方の日は短い。けれど暖炉の火は、まだ温かい。


 薪は、やはり多かった。

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