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夫の愛人が八年間「奥様」を名乗っていたので、本物は静かに身を引きます  作者: 九葉(くずは)


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第6話 二人で解く問題

 辺境伯は剣で解決できない問題に、初めて出会ったらしい。


   ◇


「隣国のレーゲン公国が、北方交易路の関税を一方的に引き上げた」


 執務室に呼ばれた時、辺境伯の声はいつもより低かった。机の上に広げられた書簡には、レーゲン公国の紋章が押されている。


「引き上げ幅は」

「二倍」

「二倍……」


 それは交易が死ぬ、ということだ。北方交易路はクレスト辺境伯領の生命線で、レーゲン公国を通過しなければ大陸北部の市場に出られない。関税が二倍になれば、交易品の価格競争力は消える。


「軍を出す、という選択は」

「ない。レーゲンとは三年前に和平を結んだ。私が結んだ。自分の署名を自分で破る趣味はない」


 そう言いながら、辺境伯の指が机を叩いている。小さなリズム。苛立ちの印だろうか。


「帳簿を見せてください。過去三年分の、レーゲン公国との交易記録を」


 辺境伯が帳簿を寄越した。受け取って、帳簿室に戻った。


   ◇


 数字の中に、答えがある。いつもそうだ。


 三年分の交易記録を広げた。品目別の輸出入量、関税の推移、季節ごとの変動。数字の列を指で辿りながら、一つずつ読み解いていく。


 見えた。


 レーゲン公国が関税を引き上げた理由。数字が語っている。公国の主要輸出品である毛皮の価格が、過去二年で三割下落している。北方蛮族との和平で、蛮族領から安価な毛皮が直接クレスト領に流入するようになったからだ。公国は毛皮の販路を失い、税収が減った。その穴を、関税の引き上げで埋めようとしている。


 つまり、公国も追い詰められている。


 帳簿の余白にペンを走らせた。計算。試算。もう一度計算。


 毛皮の関税を据え置く代わりに、クレスト領の鉄鉱石の輸出関税を引き下げる案。レーゲン公国は鉄鉱石を必要としている。公国の鍛冶産業にとって、クレスト領の鉄は品質・価格ともに最良の選択肢だ。毛皮の税収減を鉄の輸入増で補えるなら、公国にも利がある。


 数字を三度検算した。合う。双方に利益がある。


 帳簿を抱えて執務室に戻った。


「閣下」

「できたか」


 帳簿を机に広げた。数字を指で追いながら説明する。レーゲン公国の毛皮産業の苦境。鉄鉱石の相互利益。関税の交換条件。


 辺境伯は黙って聞いていた。いつものように腕を組んで。いつものように表情を変えず。


 説明が終わった。


「これを使う」


 迷いがなかった。


「交渉は明日だ。同席しろ」


   ◇


 翌日。交渉の間。


 長い机を挟んで、レーゲン公国の使者三名と向かい合った。辺境伯が中央、私がその横。使者たちは私を一瞥して、「経理係か」という顔をした。


 辺境伯が口を開いた。


「関税の引き上げは受け入れられない。代案を出す」


 帳簿を開いた。数字を示した。説明は辺境伯がした。けれど中身は私の分析だ。辺境伯はそれを一字一句正確に再現した。昨夜のうちに、あの帳簿を全て頭に入れたのだ。


 使者の顔色が変わった。鉄鉱石の数字を見た瞬間、三人の視線が交わった。


 結論が出るまで、二刻もかからなかった。


「受け入れよう」


 使者が頷いた。辺境伯が立ち上がり、握手を交わす。


「この案はうちの経理担当が作った」


 さらりと言った。私を見もせずに。けれど使者たちの目が、初めて私をまともに見た。「経理係」ではなく、「交渉の鍵を握った人間」として。


 交渉の間を出た廊下で、辺境伯と並んで歩いた。無言。いつものことだ。


「閣下」

「何か」

「経理担当、でよろしいのですか」


 交渉の場に同席させ、名前を出し、数字を全て暗記して。ただの経理担当にそこまでするのか。


 辺境伯が足を止めた。


「不足か」


 短い。いつも通り。


「ならば、領地の共同経営者と呼ぶが」


 ……え?


「……変わった冗談をおっしゃる方ですね」


「冗談は言わない」


 辺境伯はそのまま歩き出した。背中が廊下の奥に消えていく。


 冗談ではない。


 冗談、ではない?


(いや、冗談でしょう。初めて会って二ヶ月足らずで共同経営者とか、帳簿の世界にそんな勘定科目はありませんからね)


 自分にツッコミを入れて、帳簿室に戻った。頬が少し熱い。北方の冷えた廊下を歩いたのに、おかしな話だ。


   ◇


 夕方、父から手紙が届いた。


 便箋を開く。父の字だ。今度は本物の。少し右に傾いた、几帳面な字。


『リゼットへ。


 伯爵家に送った手紙の返信を、全て調べ直した。五年分の偽造返信の筆跡は、お前のものではないことを、鑑定人に確認済みだ。証拠として書類を同封する。


 父として、正式にお前の後ろ盾になる。必要な時が来たら、遠慮なく使いなさい。


 それから——監査局がバルトゥール伯爵領の税収について調査を始めたらしい。過去の報告と現在の数字が大きく乖離していることが問題になっているそうだ。


 体に気をつけなさい。茶は足りているか。


 父より』


 手紙を膝の上に置いた。


 証拠。後ろ盾。監査局。


 まだ使う時ではない。けれど、道具は揃い始めている。


 帳簿の控えは鞄の中にある。偽造返信の証拠が父の手元にある。そして監査局が動いている。


 私は何もしていない。ただ帳簿を閉じて、屋敷を出て、新しい場所で帳簿を開いただけだ。


 それだけで、数字が動き始めている。


 嘘をついていた人間の数字は、いずれ合わなくなる。


 窓の外で、北方の夕焼けが山の稜線を赤く染めていた。

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