第5話 芸術品
辺境伯の屋敷は、想像していたよりずっと暖かかった。
◇
三週間が経った。
帳簿の整理は順調に進んでいる。交易路三本分の記帳形式を統一し、北方蛮族との交易を独立台帳に分離し、備蓄管理台帳を半年分遡って再構築した。まだ途中だが、数字は少しずつ整い始めている。
その日の朝、執事のマティアスが帳簿室を訪ねてきた。白髪の老紳士で、辺境伯家に三十年仕えているという。物腰は丁寧だが、目の奥に人を見抜く光がある。
「ヴァレンシュ様。閣下より、お伝えするようにと」
「はい」
「本日より、正式にクレスト辺境伯領の経理担当として雇用いたします。報酬は月払い。こちらの部屋を執務室兼お住まいとしてお使いください」
部屋を見回した。
帳簿室として使っていたこの部屋は、いつの間にか居室としても整えられていた。奥に寝台が入っている。小振りだが清潔な白い寝具。窓際に小さな書棚。そして暖炉には。
「薪が、ずいぶん多いですね」
暖炉の脇に積まれた薪は、他の部屋で見かけた量の倍はあった。北方の四月は冷える。それにしても多い。
「ええ。では」
マティアスが一礼して出て行った。
そういえば、先ほど廊下で、ヴェルナー閣下がマティアスに何か耳打ちしていたのを見かけた。内容は聞こえなかったが、マティアスが頷いて、こちらへ歩いてきたのだ。
雇用の件を伝えに来たのだろう。それ以外に何があるというのか。
暖炉に火を入れた。薪がぱちりと爆ぜる音。部屋がじわじわと温まっていく。
……暖かい。
帳簿を開いた。今日の作業は税制の不均衡の是正案だ。南部農地と北部交易拠点の税率を産業別に細分化する計算を始める。ペンが走る。数字が並ぶ。暖炉の火が背中を温めている。
ここには嘘がない。
帳簿にも、暖炉にも、この屋敷の空気にも。
◇
昼過ぎ、来客があった。
隣領のハイデン子爵。辺境の領主同士の定期的な情報交換らしい。応接室に通されると聞いて、私は帳簿室に留まるつもりだった。他家の領主に顔を出す立場ではない。
けれど辺境伯から呼び出しがかかった。
「来い」
応接室に入ると、ハイデン子爵……恰幅のいい中年の男が、茶を飲みながら談笑していた。辺境伯は窓際に立っている。いつもの無表情。
「紹介する。うちの経理担当だ」
辺境伯が、机の上に帳簿を一冊置いた。私が整えた、交易路統合後の新しい帳簿だ。
「見てくれ」
ハイデン子爵が帳簿を開いた。頁をめくる手が、途中で止まった。
「これは……見事だな。交易路の統合記帳がここまで整理されている帳簿は初めて見る」
「彼女が三週間で組み直した」
辺境伯の声が、いつもより少しだけ大きかった。気のせいかもしれないが。
「三週間? これをか?」
ハイデン子爵が私を見る。驚いた目だ。
「は、はい。まだ途中ですが」
「いや、これは途中の出来とは思えん」
子爵が帳簿を閉じ、辺境伯に向き直った。
「クレスト卿、いい人材を見つけたな。どこで」
辺境伯は、私のほうを見なかった。窓の外の雪山を見たまま、端的に言った。
「この帳簿を作った人間を手放す領主がいるらしい」
あの商会で呟いた言葉と、同じだ。あの時は独り言だった。今は、公の場で、隣領の領主に向けて。
「手放す? 正気か?」
ハイデン子爵が呆れたように言い、辺境伯は「さあ」とだけ答えた。
私は何と言えばいいかわからず、黙って立っていた。
経理担当。
辺境伯は私をそう紹介した。名前ではなく、役職で。それが妙に嬉しかった。
(……嬉しいのか、私は? 「経理担当」と呼ばれたことが?)
八年間、「奥様」と呼ばれていた。けれどその名前は私のものではなかった。社交界で使われていたのはセリーヌの顔と、私の仕事だった。
「経理担当」は違う。これは能力に対して与えられた呼び名だ。私の手が作った帳簿への、正当な名前だ。
◇
応接室を出る時、廊下で辺境伯とすれ違った。
「閣下、先ほどはありがとうございました」
「何が」
「帳簿を、見せていただいて」
辺境伯は首を傾げた。何を言われたかわからない、という顔だ。おそらく、本当にわからないのだろう。あの人にとって、帳簿を見せることは当然の行為であって、感謝されるようなことではない。
そのまますれ違おうとした時、後ろから声がかかった。マティアスだった。
「ヴァレンシュ様。一つ、お耳に」
執事が声を落とした。
「バルトゥール伯爵家より、閣下宛に書状が届いております。内容は……伯爵夫人の帰還を求めるものだそうです」
伯爵夫人。
ルシアンが私を、まだそう呼んでいるのか。
「どうやって、こちらにいることが」
「先月、交易商人の間で噂が広まったようでございます。バルトゥール領を離れた経理の方が北方で仕事をされている、と。そこからお調べになったのでしょう」
なるほど。交易商人の間では、誰がどこの帳簿を見ているかは重要な情報だ。隠し通せるものではない。
「閣下は、何と」
「"当家に伯爵夫人はおらぬ。経理担当のヴァレンシュ嬢ならいるが、本人の意思でここにいる"と、そのままお返しになりました」
……。
笑いそうになった。
笑いそうになって、堪えた。堪えきれずに、少しだけ口元が緩んだ。
「そうですか」
「はい。それだけでございます」
マティアスが一礼して去っていく。その背中が、わずかに笑っているように見えたのは気のせいだろう。
帳簿室に戻った。
暖炉の火が、まだ温かい。薪はまだたっぷりと残っている。
経理担当。
その名前を、心の中で繰り返した。悪くない響きだ。
ペンを取った。まだ直すべき数字がたくさんある。
「妻を返せ」か。
誰のことだろう。帳簿を作っていた女のことなら、もうここにいる。
けれどあの人が返してほしいのは、帳簿を作る手であって、私自身ではないだろう。
それを、今は悲しいと思わない。
ペンが紙の上を走る音だけが、帳簿室に響いていた。




