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夫の愛人が八年間「奥様」を名乗っていたので、本物は静かに身を引きます  作者: 九葉(くずは)


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第4話 崩れていく数字

 交易商人が去った。


「前の奥様との条件でなければ、更新には応じかねます」


 たかが帳簿だ。たかが、条件交渉だ。妻がやっていた程度のことが、なぜ。


   ◇


 北方辺境伯領は、思っていたより遠かった。


 父に事情を話し、辺境伯の迎えの馬車に乗って三日。道はどんどん北に向かい、気温がじわじわと下がっていく。四月だというのに、窓の外に見える山肌にはまだ雪が残っていた。吐く息が白い。


 馬車が丘を越えた瞬間、視界が開けた。


 広い。


 灰色の空の下に、荒々しい岩肌と針葉樹の森が続いている。その向こうに、石造りの砦のような屋敷が見えた。華やかさは欠片もない。バルトゥール伯爵邸の白亜の壁とは何もかもが違う。武骨で、冷たくて、けれど揺るがない。ここは守るための場所だ、と思った。


 門をくぐると、使用人が出迎えてくれた。丁寧だが最小限の応対。余計な愛想がない。この屋敷の主に似ている、と思った。


「辺境伯閣下がお待ちです」


   ◇


 執務室は、広かった。


 だが調度品は少ない。机と椅子と書棚。暖炉。窓から差し込む冷たい光。飾り気のない部屋の中央で、ヴェルナー・クレスト辺境伯が椅子に座っていた。


 やはり、大きな人だ。


 商会で会った時も思ったが、改めて見ると背が高い。銀がかった暗い髪を無造作に後ろへ流し、表情はない。商会の時と同じ、読み取れない顔。


「来たか」

「お招きいただき、ありがとうございます」

「座れ」


 短い。前回と同じだ。


 机の上に帳簿が積まれていた。五冊。厚い。背表紙に年と月が書かれているが、字が乱雑で読みにくい。


「これが全てか」


 辺境伯が頷いた。


「去年の経理係が逃げた。その前の経理係は三ヶ月で匙を投げた。好きにしろ」


 好きにしろ。


 全権委任。初めて会ったのはほんの一週間前だ。帳簿を一冊見せただけで、経理の全権を委ねるのか。


「……よろしいのですか。私はまだ、閣下の領地のことを何も」

「能力がある人間に任せるのが合理的だ」


 合理的。


 その一言が、思いのほか胸に落ちた。


 バルトゥール伯爵家では、八年間一度も言われなかった言葉だ。「ご苦労」はあった。「好きにしろ」もあった。けれど「能力がある」と、ただ事実として認められたことは。


「では、拝見いたします」


 最初の一冊を開いた。


   ◇


 ひどかった。


 いや、正直に言おう。グレン商会の帳簿が霞む程度にはひどかった。


 交易路が三本走っているが、それぞれの記帳形式が異なる。北方蛮族との交易分が独立した台帳になっておらず、通常交易に混在している。税制の計算基準が年度途中で変わっているのに遡及修正がない。備蓄管理台帳に至っては、半年間記帳が止まっている。


 けれど、問題の根は見えた。


 交易路の非効率。三本の路が並行して走っているが、うち二本は季節によって使えなくなる。年間を通して機能するのは一本だけで、そこに全ての荷が集中して渋滞が起きている。これを組み替えれば、輸送効率は大幅に上がる。


 税制の不均衡も深刻だ。南部の農地と北部の交易拠点で同じ税率が適用されている。農地には重すぎ、交易拠点には軽すぎる。産業ごとに税率を細分化すれば、全体の税収を維持したまま負担を均せる。


 帳簿を閉じて、辺境伯の執務室へ向かった。


「閣下」

「何か」

「三つ、お伝えしたいことがございます。交易路の再編、税制の不均衡の是正、それから備蓄管理の再構築です」


 辺境伯の目が、わずかに動いた。


「直せるか」

「ええ。お時間をいただければ」

「いくらでも」


 いくらでも。


 時間を、くれるのか。急かさないのか。「いつまでにできる」とは聞かないのか。


 伯爵家では、全てに期限があった。月次の帳簿は月末まで。交易記録は翌週まで。一日でも遅れれば、使用人が顔色を窺いにくる。夫は帳簿に興味がなかったから、「まだか」すら言わなかった。ただ、締切だけが静かに首を絞めていた。


「……ありがとうございます」


 思わず呟いた言葉に、辺境伯は首を傾げた。


「何に対して」

「お時間をいただけることに」

「当然のことだ」


 当然。この人にとっては、当然のことらしい。


「一つ聞いていいか」


 辺境伯が立ち上がり、帳簿の一頁を指した。税制の計算部分だ。


「この課税基準の区分は、何を根拠に」


 質問。前回と同じだ。帳簿の技術的な問いかけ。今回は少し踏み込んだ内容で、税制の設計思想に関わる部分だった。


 説明を始めた。辺境伯は前回と同じように、腕を組んだまま、口を挟まず、目だけを動かして聞いていた。


 説明し終えると、辺境伯は一つ頷いた。


「わかった」


 それだけだった。


(……この人は「わかった」としか言わないのだろうか)


 頷いたのか褒めたのか、判断がつかない。帳簿の数字なら一目で読めるのに、この人の表情は何一つ読めない。


 執務室を出ようとした時、廊下で交易担当者とすれ違った。先日、商会にも来ていた男だ。


「ヴァレンシュ様、一つお耳に入れておきたいことが」


 男は声を低くした。


「バルトゥール伯爵領の交易商人から聞いた話ですが、伯爵領の交易利益が、ここひと月で二割ほど落ちたそうです。契約更新を拒否された商人もいるとか」


 二割。


 一ヶ月で二割なら、半年で……いや、加速するだろう。交易商人は信用で動く。一人が離れれば連鎖する。


「それから、王都で……伯爵夫人を名乗る方が、慈善事業の報告会を夜会で企画されているとか」


 伯爵夫人。


 私ではない「伯爵夫人」。


「……そうですか。ありがとうございます」


 帳簿室に戻った。


 与えられた部屋は小さいが、窓が二つある。北向きの窓からは雪を被った山が見え、東向きの窓からは朝日が入る。机はバルトゥール伯爵家のものより小振りだが、がたつきがない。椅子の座面が柔らかい。


 帳簿を開いた。


 辺境伯の帳簿は荒れている。けれど、嘘はない。数字が乱雑なだけで、隠蔽や改竄の形跡がない。嘘のない帳簿。それだけで、この領地を信用できる気がした。


 ペンを取った。インクの匂いが鼻をかすめる。


 また、始められる。

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