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夫の愛人が八年間「奥様」を名乗っていたので、本物は静かに身を引きます  作者: 九葉(くずは)


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第2話 帳簿のない朝

 妻が出て行った朝、帳簿を開いた。


 数字が並んでいる。歳入の欄、歳出の欄、差引の欄。見覚えのある書式だ。何度か目にしたことはある。だが、その数字がどこから来て、何を意味し、次の月にどう繋がるのか。わからない。


 たかが帳簿だ。数字の足し引きだ。


「旦那様、こちらの記帳法は……前の奥様にしかわからない形式でございます。引き継ぎ書はございますが、用語の大半が独自のもので」


 使用人の声が、やけに遠く聞こえた。


 たかが帳簿だ。


 誰にでも、できる。


   ◇


 馬車の窓から見える景色が、少しずつ変わっていく。


 バルトゥール伯爵領の整った街道を抜け、王都近郊の平野に出ると、道幅が狭くなった。舗装が途切れて土の道になり、車輪が小石を弾く音が変わる。がたん、がたん。腰に響く振動を、鞄の上に置いた手で堪えた。


 鞄の中には帳簿の控えと婚姻契約書。それと着替えが少し。八年間の暮らしの荷物が、この小さな革鞄ひとつに収まってしまった。


 八年。


 嫁いだのは二十歳の春だった。


 ヴァレンシュ子爵家は文官の家系で、華やかな社交界とは縁が薄い。父は温厚な人で、帳簿仕事を愛し、私に数字の読み方を教えてくれた。母はその前の年に病で亡くなっていて、父と二人きりの家に、バルトゥール伯爵家から婚姻の申し出が来た。


 格上の縁談だった。断る理由はなかった。


 最初の一年は、努力した。夫に話しかけ、一緒に食事を取り、夫婦らしく振る舞おうとした。けれど夫は穏やかに微笑むばかりで、寝室の扉は最後まで開かれなかった。二年目に悟った。この人は、私に興味がないのだ。


 三年目から、帳簿に向き合い始めた。


 領地の帳簿は荒れていた。前任の経理係が放置した記帳漏れ、不整合な数字、失われた交易記録。それを一つずつ拾い上げて、正しい位置に戻していく作業は、壊れた時計を直すのに似ていた。歯車が噛み合い、針が動き出す。数字が合っていく。それだけで、私は息ができた。


 五年目にセリーヌの存在を知った。


 使用人たちの気配で気づいた。華やかな笑い声。夫の足音が、私の部屋の前を通り過ぎて別の棟へ向かう夜。帳簿室の窓から見えた、庭を歩く二つの影。


 怒る権利があるのかどうか、わからなかった。白い結婚を受け入れたのは私だ。夫婦の実態がないのに、愛人を責める資格があるのか。帳簿を開いた。数字を数えた。そうすれば、余計なことを考えずに済んだ。


 目を逸らしていた、ということだ。


 今ならわかる。


 馬車が揺れた。窓の外に、見覚えのある丘が見える。もうすぐ実家だ。


   ◇


 ヴァレンシュ子爵邸は、記憶のままだった。


 小さな石造りの館。手入れの行き届いた庭には母が好きだった白い花が咲いていて、書斎の窓には明かりが灯っている。父は今日も仕事をしているのだろう。


 玄関で鞄を下ろした時、廊下の奥から足音が聞こえた。速い。あの慎重な父が、走っている。


「リゼット」


 父は廊下の角を曲がり、私の顔を見て、立ち止まった。白髪が増えている。八年前より痩せた。眼鏡の奥の目が、私の鞄と、私の顔を交互に見ている。


「……帰ったのか」

「ただいま戻りました、お父様」


 父の目が潤んだのを、見ないふりをした。父も、見ないふりをしてくれた。


「上がりなさい。茶を淹れよう」


   ◇


 書斎の茶は、昔と同じ味がした。


 安い茶葉を丁寧に淹れる父の手つきを見ながら、私はこの八年間のことを話した。白い結婚のこと。帳簿に没頭した日々のこと。セリーヌのこと。社交界で「伯爵夫人」を名乗り、私の仕事を自分の手柄にしていたこと。


 父は黙って聞いていた。茶碗を持つ手が、途中から微かに震えていた。


 話し終えると、父は茶碗を置いた。


「リゼット」


 穏やかな声だった。けれどその奥に、聞いたことのない硬さがあった。


「お前からの手紙は、五年間、一通も届いていなかった」


 ……え?


「こちらからは毎月送っていた。返事も来ていた。お前の近況、領地の仕事が順調だということ、夫君と仲良くやっていること」


 父は書斎の抽斗を開けた。束ねられた手紙が出てくる。十通、二十通。五年分。


「これが、届いた返事だ。改めて見てほしい」


 一通を手に取った。封を開ける。便箋を広げた。


 丁寧な字だった。整っている。上品で、流麗で。


 私の字ではない。


 私の字はもっと硬い。数字を書き慣れた手癖で、縦線が少しだけ太くなる。この字にはそれがない。角が丸く、装飾的で、まるで社交界の招待状のような。


「……お前の字ではなかったのか」


 父の声が、かすれていた。


 五年間。


 五年間、私が父に送った手紙は、届いていなかった。代わりに誰かが……おそらくセリーヌが、あるいはセリーヌの指示を受けた誰かが、私のふりをして返事を書いていた。


 父は娘が幸せだと信じていた。


 私は父が手紙を寄越さないのだと思い込んでいた。


 後頭部がじんと冷えた。鳩尾のあたりが内側から押されるように痛い。帳簿の数字が合わない時の感覚に似ている。どこかの数字が嘘をついている。合計が合わない。原因を辿っていくと、最初の一行から、全てが間違っている。


 怒りが、今度こそ来た。


 腹の底から、焼けるように。


 五年。五年? 五年間、私は。父が私を忘れたのだと、そう。思って。手紙が来ないのは私に興味がないからだと。違う。違った。忘れていたのではない。届かなかったのだ。届けさせなかった人間がいる。


 奥歯を噛み締めた。歯の根元がじんと痺れる。


 けれど。


「……そうですか」


 声が震えそうになるのを、喉の奥で堪えた。帳簿の数字が合わない時、焦っても仕方がない。まず深呼吸をして、ペンを置いて、一行目から確認する。今も同じだ。同じだと、思うことにした。


「では、これから本物の手紙を書きますね。お父様」


 父が目を閉じた。眼鏡を外して、指で目頭を押さえた。


「……ああ。待っている」


 手紙の束をもう一度見た。五年分の偽物の手紙。整った字。私ではない誰かが書いた、私の人生。


 これは証拠だ。


 そう気づいたのは、書斎を出てからだった。父の寝室に案内される廊下を歩きながら、帳簿に慣れた頭が冷静に計算していた。婚姻中の配偶者の手紙を検閲し、偽造の返信を送ること。これは婚姻契約に対する重大な背信行為に当たるのではないか。


 白紙条項の十年を待たずとも、契約違反を立証できれば。


 鞄の中の帳簿が、少しだけ重くなった気がした。

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