第10話 新しい帳簿
辺境の朝は、早い。
帳簿を開くには、ちょうどいい。
◇
窓から差し込む朝日が、机の上の新しい帳簿を照らしていた。
まだ何も書かれていない白い頁。来期の辺境伯領の帳簿、第一冊目。表紙には年号だけが記されていて、記帳者の名前の欄が空白のままだ。
ここに、何と書こう。
リゼット・ヴァレンシュ。それが今の私の名前だ。離縁が成立して、バルトゥールの姓は消えた。子爵家の娘に戻った。それで正しい。
けれど。
ペンを持ったまま、手が止まっている。名前の欄の空白を見つめている。
◇
朝食の前に、廊下でマティアスとすれ違った。
「おはようございます、マティアス」
「おはようございます、ヴァレンシュ様」
老執事は一礼し、それから少し迷うように口を開いた。
「一つ……また、お伝えするなと仰せのことを、お伝えしてもよろしいですか」
「……どうぞ」
「閣下は毎朝、あなたの執務室の灯りを確認してから、ご自身の居室にお入りになります」
足が止まった。
「朝、ですか」
「ええ。夜ではなく、朝です。閣下は早起きでいらっしゃいますので……あなたの部屋に灯りがついていると、そのまま執務室へ向かわれます。ついていないと、少しだけ廊下に佇んでおいでです」
灯りがついていないと。待っている、ということか。私が起きてくるのを。
「言わないでくれと仰せでした」
「言いましたね」
「はい。申し訳ございません」
マティアスの目が、穏やかに笑っていた。
「三十年お仕えして、あの方が人の灯りを気にされるのは初めてでございますので。どうしても、お伝えしたくなりました」
一礼して、老執事は去っていった。
廊下に一人残された。朝の光が石の壁を白く照らしている。冷たい空気の中に、暖炉の煙の匂いがかすかに混じっている。
毎朝。
毎朝、灯りを見ている。
薪と、茶葉と、椅子と、書棚と、そして朝の灯り。
全部、言葉にしない。全部、行動で。
この不器用な人は、帳簿と同じだ。見なければわからない。開かなければ読めない。けれど開いた人にだけ、嘘のない数字が並んでいる。
考えた。一週間、考えた。
答えは、もう出ている。
◇
辺境伯の執務室の扉を叩いた。
「入れ」
扉を開けた。辺境伯は机に向かっていた。顔を上げる。私を見る。
「考えました」
辺境伯の手が、止まった。ペンを持ったまま、微動だにしない。
「あなたの隣にいたいと思ったのは、初めてです」
声が震えた。堪えるのをやめた。震えたままでいい。これは帳簿ではないのだから、数字のように整わなくていい。
「帳簿のためではなく」
辺境伯が、椅子から立ち上がった。ペンが机の上に転がった。
「もう一度言ってくれ」
声が、かすれていた。あの無表情の奥で、何かが揺れている。見たことのない色が浮かんでいる。
「いたいと思いました」
「もう一度」
「何度でも。あなたの隣にいたいです」
辺境伯が……ヴェルナーが、一歩近づいた。手を伸ばしかけて、止めた。指先が微かに揺れている。あの大きな手が。剣を握り、和平条約に署名し、帳簿を丁寧に置いた手が。
「……すまない。触れていいか、わからない」
笑ってしまった。笑いながら、少しだけ泣いた。
泣くつもりはなかった。帳簿を前にして泣いたことは一度もない。でも、これは帳簿ではない。人だ。私を見ている人だ。灯りを確認してから自室に入る人だ。帳簿を「美しい」と呼んだ人だ。
違う。帳簿を美しいと呼んだのではない。私を、美しいと。
「触れてください」
大きな手が、そっと私の手を取った。温かかった。インクの匂いがした。
ああ、この人も、帳簿に触れた手をしている。
◇
夜会に招かれなくなって、もう二週間になる。
書簡の束は未処理のまま机に積まれている。帳簿は開いていない。開いても読めないのだから、意味がない。
引き出しの奥から一冊の薄い冊子を取り出した。
引き継ぎ書。リゼットが、出て行く朝に机に残していったものだ。月次処理の手順、交易商人との契約日程、租税の納付期限。全てが丁寧に記されている。これを読んでも何もできないとわかっているのに、時々開いてしまう。あの硬い字を見ると、帳簿室のインクの匂いがよみがえる。
最後の頁を開いた。
一行だけ、書かれていた。
『帳簿の数字は嘘をつきません。どうか、次は正直な数字を。』
それだけだった。
怒りも、恨みも、未練も、一文字もなかった。ただ、帳簿への祈りのような一行だけが、あの硬い字で残されていた。
冊子を閉じた。
あの字を、もう見ることはないだろう。
◇
辺境伯の屋敷。帳簿室。
朝の光が机の上を照らしている。新しい帳簿の第一冊目。表紙の名前の欄に、ペンを走らせた。
リゼット・クレスト。
まだ少し早いかもしれない。正式な手続きはこれからだ。
けれど帳簿は、未来のために作るものだから。
数字は嘘をつかない。
この名前も、嘘ではない。




