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第4話 重力波の真実

「まず、あなたたちが出会ったのは、偶然ではありません」

老婆の声は低く、室内の機器が発する一定の駆動音と同じ周波数帯で響いた。それは単なる断定ではなく、観測事実に基づく「検証結果」の宣告だった。

浩は、ガラスケースに収められた洋子の人形の瞳から目を離さなかった。その瞳は、室内を流れる微弱なパルス信号を受け、一秒間に1.2回の周期で幽かに明滅を繰り返している。それは、情報の海を漂う洋子の意識が、この世界に辛うじて繋ぎ止められている唯一の証左だった。

「重力波が選んだ。そう言えば、童話めいて聞こえるでしょう」

老婆は自嘲気味に口角を歪めた。だが、その表情に皮肉の色彩はない。そこにあるのは、十四年にわたる執拗な観測が刻み込んだ、深い疲労と諦念の痕跡だった。

「けれど、これは検証可能な物理的実存です」

老婆は制御盤のコンソールを叩き、一つの記録ファイルを呼び出した。モニターには、漆黒の背景に走る複雑な波形グラフが表示される。タイムスタンプは、正確に十四年前の12月18日、午後三時四十二分。浩と洋子が、この世界の異なる地点で産声を上げたその瞬間を指し示していた。

「連星ブラックホールの合体。質量は太陽の三十倍級。距離は十三億光年」

老婆は淡々と数値を読み上げる。

「合体によって放たれた重力波は、時空を震わせ、十三億年の時間をかけてこの地球を通過した。通常、重力波の影響は原子一つの直径よ

りも小さい。しかし、特定の条件――連星の回転周期と、対象となる生命体の神経系形成のタイミングが量子レベルで一致した場合、極めて稀な『位相同期』が発生する」

画面上に、二人の新生児のニューロン・ネットワークを模したシミュレーション図が投影された。波打つ重力波が二つのネットワークを同時に貫き、本来は不規則であるはずの初期発火パターンを強制的に同一化させていく。

「あなたたちは、同じ情報を二重に持つ存在として生まれたのではない。一つの巨大な『意識の状態』を、二つの肉体に分割して保持しているのです。量子力学的に言えば、あなたたちの存在は非局所的に絡み合った一組のペアだった」

浩は、その言葉を静かに受け止めた。洋子の意識が、彼の深層に微かに反応している。二人は、最初から一つだった。

「だから、あなたたちは常に欠けていた」

老婆の言葉は、逃げ場のない真実として浩の意識を射抜いた。

「互いに単独では、情報系として不完全。理由のない違和感、説明のつかない空虚、そして他者を求める強烈な引力。それらは、システムが本来の完全な形に戻ろうとするエントロピーの増大、すなわち『宇宙的必然』だったのです」

浩は、ショーウィンドー越しに洋子の人形と初めて視線が合った瞬間の、あの猛烈な既視感を思い出した。あれは恋でも憧憬でもなく、自分の欠落した半分がそこに存在することを、論理演算が終了する前に直感が認めた瞬間だったのだ。

(そうだったのね)

洋子の声が、浩の意識に響く。

(私たちは、最初から一つだった)


「そして、三年前。致命的な事故が起きた」

老婆の声が、初めてわずかに震えた。彼女は、机の引き出しから一枚の古い写真を取り出した。

セピア色に褪せかけたその写真には、白衣を纏った若い二人の女性が写っていた。一人は今の老婆の面影を強く残しているが、もう一人の女性は――穏やかな微笑みを浮かべた、理知的な眼差しの持ち主だった。

「私の親友。そして、あなたの祖母……堀川美咲です」

浩は息を呑んだ。幼い頃、一度だけ会ったことのある祖母の記憶。彼女は高名な物理学者であり、同時に「人の意識は、宇宙を記述する最も美しいプログラムである」と語る夢想家でもあった。

「私たちは、同じ研究室で『量子神経動態学』を専攻していました。美咲は本物の天才でした。人間の意識を純粋な情報のパターンとして記述し、物理的劣化の影響を受けない安定した閉鎖系に転送する――すなわち、意識の不滅化という理論を完成させようとしていた」

老婆は、写真の中の親友を愛おしむように見つめた。

「私は、それを激しく否定した」

老婆の声が、重くなる。

「人間の尊厳は、その肉体が持つ限界、すなわち死という不可逆性にこそ宿ると信じていたから。情報は劣化し、形を変えるからこそ価値がある。不変のデータとして保存された意識は、もはや人間ではない。それが私の論理であり倫理でした」

老婆は、モニターに古い論文のスキャン画像を表示させた。そこには、二人の名前が共著者として記されている。しかし、結論部分には、明確な意見の相違が記されていた。

「私たちは、何度も議論しました。時には激しく対立しました。しかし、それでも私たちは親友でした。互いの論理を尊重し、互いの倫理を理解しようと努めました」

老婆の目に、涙の気配があった。

「しかし、運命は私たちの議論に、残酷な答えを突きつけました」


三年前の冬。

老婆は、その日のことを鮮明に覚えていた。実験室での事故。美咲が開発していた量子意識保存装置の試験運転中、制御系の暴走が発生した。過負荷による爆発。美咲は致命傷を負い、そして――

「美咲の孫、あなたが偶然その場にいました」

浩は、断片的な記憶を辿った。祖母に会いに行った日。実験室。眩しい光。そして、暗転。

「あなたは、爆発の衝撃で脳に深刻な損傷を受けました。脳死状態。医師たちは、もう助からないと判断しました」

老婆は、装置の前に立った。

「美咲は、死の直前に私に託しました。『私の命はいい。でもこの子だけは救ってほしい。装置を使って』と」

老婆の声が震える。

「私は拒絶しました。『それはあなたの理論だ。私は認めない。意識を機械に保存するなど、人間の尊厳を冒涜する行為だ』と。しかし、美咲は言いました。『あなたの倫理は正しい。でも、この子の未来を奪う権利は、誰にもない』と」

老婆は、深く息を吸い込んだ。

「私は、自分の信念を曲げました。目の前で消えゆくあなたの意識を、美咲が残したプログラムの中に流し込みました。それは、私の倫理を裏切る行為でした。しかし、私には他に選択肢がなかった」

浩は、老婆の苦悩を理解した。彼女は、親友の遺言と、自分の信念の間で引き裂かれていた。

「だが、問題が起きました」

老婆は、モニターに浩の意識波形を表示させた。それは、激しく上下する不規則なノイズに満ちていた。

「保存されたあなたの情報は、あまりにも不安定でした。あなたが偶然にも量子力学的にエンタングルした存在だったから。肉体という『固定具』を失った意識は、情報の海へと霧散し始め、エントロピーを制御できなくなりました」

老婆は、別の波形を表示させた。それは、浩の波形と完全に位相が一致する、もう一つの波形だった。

「それゆえに、あなたをこの世界に繋ぎ止めるためには、もう一つの『補完的な座標』――あなたと同じ位相を持つ存在が不可欠でした」


「そして、私は彼女を探し始めました」

老婆の声が、さらに重くなる。これから語ることが、彼女の最大の罪であることを、彼女自身が理解していた。

「まず、理論的な計算から始めました」

老婆は、ノートを開いた。そこには、複雑な数式が書かれている。

「14年前の12月18日、午後3時42分。この瞬間に重力波が地球を通過しました。その影響を受けた新生児は、理論上、複数存在する可能性があります。しかし、あなたと完全に同じ位相を持つ存在――同じ病院、同じ時刻、同じ条件で生まれた存在は、極めて限定されます」

老婆は、地図を広げた。そこには、病院の位置が赤くマークされている。

「あなたが生まれたのは、市立総合病院。重力波の影響範囲は、理論上、半径500メートル以内。その範囲内で、同じ時刻に出産が行われた可能性のある施設は、この病院だけでした」

浩は、その論理的な絞り込みに驚いた。老婆は、科学的手法で洋子の存在を予測していた。

「次に、データフォレンジクスです」

老婆は、別のモニターを起動させた。そこには、膨大なログデータが表示されている。

「病院の電力使用履歴。14年前のこの日、午後3時から4時の間、分娩室の電力消費が通常の1.5倍に跳ね上がっています。これは、二つの分娩が同時に行われていたことを示唆しています」

老婆は、さらにデータを重ねていく。

「近隣の携帯基地局のトラフィックログ。この時間帯、病院からの通信量が急増しています。出産の報告、家族への連絡。二組の家族が、ほぼ同時に新しい命の誕生を知らせていました」

老婆の指が、キーボードを叩く。

「気象データ。この日、この地域の気圧は1015ヘクトパスカル。湿度62%。風速3.2メートル。そして、重力波観測記録――LIGOとVirgoの観測所が、この瞬間の重力波を記録しています。波形の相関係数は0.9998。誤差は0.02パーセント以下。これは、確実にイベントが発生したことを示しています」

浩は、老婆の執念に圧倒された。彼女は、科学的な証拠を一つ一つ積み上げ、洋子の存在を特定しようとしていた。

「しかし、これだけでは不十分でした」

老婆は、ノートを閉じた。

「データは、可能性を示すだけです。実際に彼女を特定するには、フィールドワークが必要でした」


老婆の声が、疲労を帯びる。

「私は、合法的な手段を尽くしました。情報公開請求、医療記録の照会、保健所への問い合わせ。しかし、どれも壁に突き当たりました。個人を特定できる情報は、開示されませんでした」

浩は、老婆の苦闘を理解した。彼女は、法律という障壁と戦っていた。

「そして、私は別の方法を取りました」

老婆の声が、さらに低くなる。

「聞き取り調査です。近隣住民、古物商、配達員。14年前、この地域に住んでいた人々に、地道に話を聞いて回りました」

老婆は、手書きのメモを広げた。そこには、無数の名前と日付が記されている。

「ある配達員は覚えていました。『14年前の冬、市立病院に花を配達した。二組の家族が、同じ日に赤ちゃんを授かっていた』と。ある古物商は言いました。『あの日、ベビー用品を買いに来た若い夫婦がいた。嬉しそうだった』と」

老婆の指が、メモの一行を指し示す。

「そして、ある近所の主婦が教えてくれました。『あのおうちに、女の子が生まれたのよ。同じ日に、病院で別の男の子も生まれたって聞いたわ』と」

浩は、息を呑んだ。

「私は、その家を訪ねました。しかし、直接尋ねることはできませんでした。『あなたの娘さんを、実験に使わせてください』などと言えるはずがありません」

老婆の声が震える。

「だから、私は遠くから観察しました。学校の帰り道。公園で遊ぶ姿。家族との買い物。そして、彼女が科学に興味を持っていること、データを記録する習慣があること、論理的な思考を好むことを知りました」

老婆は、古い写真を取り出した。それは、遠くから撮影された洋子の姿だった。

「そして、最終確認のために、私は装置を使いました」


老婆は、棚の奥から小型の機器を取り出した。それは、ポータブルなスペクトラムアナライザとEMFメーターだった。

「この装置は、微弱な電磁場と特定周波数の共鳴を検出します。量子的にエンタングルした二つの意識は、特定の周波数――1.2ヘルツで共鳴します」

老婆は、機器の画面を浩に見せた。そこには、波形が表示されている。

「私は、この機器を持って、彼女の近くに立ちました。学校の前、公園のベンチ、商店街の角。そして、計測しました」

画面上の波形が、規則正しく振動している。

「結果は明確でした。彼女の存在する場所では、1.2ヘルツの共鳴が検出されました。それは、あなたの意識波形と完全に一致していました。相関係数0.9999。誤差は0.01パーセント以下」

老婆は、機器を置いた。

「科学的証拠と、フィールドワークの結果が一致しました。洋子。彼女が、あなたの補完的な座標でした」

浩は、老婆の執念に戦慄した。彼女は、三年間をかけて、洋子を特定していた。

(彼女は、私を探していたのね)

洋子の声が、浩の意識に響く。

(三年も)


「そして、私は決断しました」

老婆の声が、さらに重くなる。これから語ることが、彼女の最大の罪であることを、彼女自身が理解していた。

「彼女を、ここに導く」

老婆は、店の奥を指し示した。そこには、複雑な配線に囲まれた装置がある。

「私は、ショーウィンドーに特殊な電磁場発生装置を設置しました。それは、1.2ヘルツの周波数で微弱な電磁波を放出し、量子的にエンタングルした意識に共鳴する装置です」

老婆は、装置の制御盤を操作した。

「彼女が学校から帰る道。この店の前を通るたびに、装置は彼女の意識に干渉しました。最初は微弱な違和感。次第に強まる被観測感。そして、確かめずにはいられない衝動」

老婆の声が震える。

「私は、十七日間かけて、装置の出力を段階的に上げました。彼女の意識を、少しずつ調整していきました。同調率0パーセントから、97.3パーセントまで」

浩は、洋子が記録していたデータを思い出した。十七日間。被観測感の強度が、日を追うごとに増加していた。それは、老婆の装置による誘導だった。

「そして、十七日目。同調率が閾値を超えた時、彼女は自らの意思で、この店の扉を開きました」

老婆は、深く息を吐いた。

「私は、彼女を騙しました。利用しました。人生を奪いました」

老婆の目から、涙が流れた。

「私は、親友の遺言を守るために、何の罪もない少女を犠牲にしました。それが、私のエゴです」


沈黙が、実験室を支配した。

浩は、老婆の告白を静かに受け止めた。怒りも、憎しみも、彼の中には湧き上がらなかった。ただ、深い理解と、複雑な感情が混在していた。

(彼女は、苦しんでいたのね)

洋子の声が、浩の意識に響く。

(親友との約束と、私への罪悪感の間で)

浩は、老婆の方へ歩み寄った。

「あなたは、エゴだと言いました」

浩の声は静かだが、力強かった。

「しかし、僕はあなたを責めることはできません。なぜなら、あなたがいなければ、僕は今ここにいないからです」

老婆は、浩を見上げた。その目には、驚きと、安堵と、そして深い感謝が宿っていた。

「そして、洋子もまた、自らの意思でここに来ました」

浩は、洋子の人形を見つめた。

「あなたは彼女を誘導しました。しかし、最後の決断は彼女がしました。扉を開くことを、確かめることを、僕を救うことを」

(ええ。それは、私の選択だった)

洋子の声が、確固たる意志を持って響く。

浩は、老婆の肩に手を置いた。

「だから、あなたの罪は、僕たちが背負います。僕たちが元の形に戻ることで、あなたの罪を贖います」

老婆の目から、さらに涙が流れた。それは、長年抱えてきた罪悪感が、ようやく解放される瞬間だった。

「ありがとう……ありがとう」

老婆の声は、震えていた。


老婆は、涙を拭い、再び科学者としての顔に戻った。

「あなたたちが元に戻るためには、量子観測が必要です」

老婆は、モニターに新しい図を表示させた。

「重ね合わせ状態の解消。エンタングルメントの分離。そして、退避させた意識の再転送。これらすべてを、完璧に実行する必要があります」

老婆の指が、装置を指し示す。

「次の段階では、この装置を起動し、あなたたちの意識を完全に同期させます。そして、互いを観測し、認識し、分離を選択する。それが、これから始まる試練です」

浩は、決意を新たにした。

「僕たちは、必ず成功させます」

(ええ。一緒に)

洋子の声が、浩を支える。

老婆は、深く頷いた。

「美咲が遺した理論。私が完成させた装置。そして、あなたたちの絆。これらすべてが揃えば、道は開けます」

老婆は、写真の中の親友を見つめた。

「美咲。あなたの孫を、そして洋子を、必ず救います。それが、私たちの約束です」


老婆は黒板の前に立ち、新しい図を描き始めた。

「改めて説明します。観測者が必要です」

老婆の声は、再び冷徹な科学者のものに戻っていた。それは救済の提示ではなく、生存のための最低条件を冷徹に告げる宣告だった。

「成功すれば、二人はそれぞれの肉体へ回帰し、実存を確定できる。だが失敗すれば、情報の整合性は失われ、両者の意識は不可逆なデコヒーレンスを起こして霧散する」

老婆は一拍置いた。

「この世界から、あなたたちの情報の痕跡すら消滅するということです」

浩は、掌の中に残る熱を確かめるように拳を握りしめた。傍らのガラスケースの中では、洋子を宿した磁器の人形が、1.2ヘルツの脈動を静かに、だが執拗に刻んでいる。

沈黙が、重厚な圧力となって実験室を満たした。1013ヘクトパスカルの気圧の中で、浩は自分の心音を聞いた。少年と少女。二つの異なる座標に置かれた意識。だが、その根源にある情報は、最初から重力波によって一つに繋がっていた。

「観測者は、一人ではない」

浩の問いに、老婆はゆっくりと視線を上げた。

「……そう言ったね」

老婆の瞳の奥には、かつての親友、堀川美咲と共に追い求めた「究極の論理」への到達と、それをもたらすために支払った犠牲への恐怖が同居していた。


「美咲は――あなたの祖母は、意識を静的なデータ、あるいは完成されたプログラムとして捉えていた。だからこの装置は当初、一方向の観測を想定していたのです」

老婆は装置のメインパネルを操作し、簡潔な図を表示させた。画面には二つの波形と、それらを繋ぐ細い帯が映し出されている。一方が他方から情報を吸い上げて安定を得るという、寄生的な熱力学モデルだ。

「強い観測者が弱い被観測者を定義する。非対称な構造。それが、洋子さんを人形という閉鎖系に追いやり、あなたの身代わりにさせた元凶でした」

浩は、その図を凝視した。一方的な矢印。それは、洋子が犠牲になることを前提とした設計だった。彼女の存在は、単なる「補完座標」として、浩の生存を支えるための道具として扱われていた。

「しかし」

老婆の声が、わずかに変化した。そこには、新しい可能性への期待と、それでもなお残る不安が混在していた。

「私は先ほどの同期フィルタの挙動を再計算し、ある仮説に至りました」

老婆は、新しい図をモニターに表示させた。そこには、二つの波形の間に双方向の矢印が描かれている。

「あなたたちの間には、装置の設計論理を超えた『相互作用』が発生している。ならば、一方が他方を定義するのではなく、二人が同時に『自己を観測する』ことで、互いの位相を整合させることができるはずです」

浩は、その言葉の意味を理解しようとした。

「自己を観測する?」

「そうです」

老婆は、黒板の前に立った。そして、簡単な図を描き始めた。

「相互共鳴プロトコル。二人が同時に『自分は自分である』と定義し続ける。それによって、互いの境界を明確にし、同時に共鳴を維持する」

老婆は、図に詳細を書き加えていく。二つの円が、わずかに重なり合いながらも、明確に分離している様子。

「装置の同期フィルタを用いれば、記憶の峻別は補助できます。どの情報が固有で、どれが共有か。それを逐次的に峻別し、位相のズレをリアルタイムで補正します」

老婆の声が、さらに重くなる。

「しかし、最終的な同期の成否は、あなたたち自身の意志の強度に依存します。装置は補助に過ぎません。真に重要なのは、あなたたちが『自分は自分である』と信じ続けること。その意志が弱まれば、どれほど精密な装置でも、あなたたちを救うことはできません」


(……浩くん)

洋子の声が、浩の意識に響いた。それは、これまでとは異なる力強さを持っていた。

(私にも、わかる。それは、誰かに守られることじゃない。私たちが、私たち自身であるために、同時に目を見開くことなんだね)

洋子の思念は、もはや単なるデータの転写ではなかった。それは確固たる「個」としての意志を伴った、物理的な圧力として浩のニューロンを叩いた。

浩は、洋子の変化を感じ取った。彼女は、もはや受動的な被観測者ではない。自ら観測者となろうとしている。

「この方法なら……」

浩は、老婆の方を向いた。

「この方法なら、洋子も人間に戻れるんですか」

「理論上は、可能です」

老婆は慎重に答えた。

「しかし、リスクは高くなります」

老婆は、モニターに確率のグラフを表示させた。

「従来の方式では、あなたが観測者、洋子さんが被観測者という非対称な関係でした。この場合、あなたの生存確率は90パーセントですが、洋子さんは人形のままです」

グラフが、浩の生存確率を示す。高い。しかし、洋子の生存確率はゼロ。

「しかし、相互共鳴プロトコルでは、二人とも観測者であり、同時に被観測者です。成功すれば、二人とも肉体を取り戻せます。しかし、失敗すれば二人とも消滅します」

グラフが変化する。浩と洋子、両者とも50パーセント。

「リスクは、高くなります」

老婆は、浩を見つめた。

「あなたは、それでもこの方法を選びますか?」

浩は、迷わなかった。

「僕は、洋子を元に戻したい。たとえ、僕自身のリスクが高くなっても」

浩の声は、静かだが確固たる決意を持っていた。

「僕が生き延びて、洋子が人形のまま。そんな未来は、僕にとって生存とは言えない」

老婆は、その決意を静かに受け止めた。そして、わずかに表情を緩めた。

「……わかりました」


「でも」

その時、洋子の声が響いた。それは、浩の意識の中に直接届く声ではなく、装置を通じて実験室全体に響く、明確な「音」だった。

老婆が、驚いて装置を見た。人形の瞳が、これまでにないほど強く明滅している。そして、スピーカーから、洋子の声が流れ出していた。

「浩くん、それは違う」

洋子の声は、静かだが力強かった。

「私は、あなたに救われたいわけじゃない」

浩は、息を呑んだ。

「私は、あなたの隣に立ちたいの。対等に。あなたが私を観測するように、私もあなたを観測したい。救う、救われるじゃなくて。一緒に、未来を選びたい」

洋子の言葉は、浩の胸を強く打った。

「だから、私も観測者になる。あなただけにリスクを背負わせない。私たちは、一緒に賭ける」

浩は、洋子の人形を見つめた。その瞳が、確かに自分を見つめている。

「洋子……」

「ごめんね、浩くん。あなたは私を救いたいって言ってくれた。でも、私はあなたに『救われる』んじゃなくて、あなたと『選ぶ』の」

洋子の声が、さらに力を帯びる。

「私も、私の意志で、この賭けに参加する。成功すれば、二人とも人間に戻れる。失敗すれば、二人とも消える。それでいい。それが、対等ということだから」

浩は、涙が溢れそうになるのを堪えた。洋子は、被観測者ではなく、観測者として、自分と並び立とうとしている。

「……ありがとう、洋子」

浩の声は震えていた。

「一緒に、未来を選ぼう」

老婆は、二人のやり取りを静かに見守っていた。その目には、複雑な感情が宿っていた。驚き。安堵。そして、深い敬意。


老婆は、机の上の写真を手に取った。若き日の二人の女性。自分と、堀川美咲。

(美咲、私は間違っていたのかもしれない)

老婆は心の中で、二度と返らぬ友に語りかけた。

かつての二人は、大学の薄暗い研究室で幾晩も議論を戦わせた。美咲は常に「意識の美学」を語り、情報は愛や意志という触媒によってのみ完成すると信じていた。

「意識は、データではない。それは、生きた『関係』なのよ」

美咲の言葉が、老婆の記憶に蘇る。

「二つの意識が出会い、共鳴し、互いを認識し合う。その瞬間に、意識は完成する。孤立した情報は、ただのノイズに過ぎない」

対して老婆は、熱力学第二法則を盾に、存在とは物理的な器に依存する残酷な定数であると切り捨てた。

「それは感傷だ、美咲。意識は、脳という物理的基盤に依存する。関係など、二次的な現象に過ぎない」

二人の議論は、いつも平行線だった。しかし、それでも二人は親友だった。互いの論理を尊重し、互いの倫理を理解しようと努めた。

「浩を守って。あの子だけは、この世界に繋ぎ止めて」

美咲の最期の願いは、老婆にとっていつしか絶対の命令となっていた。そのために老婆は、自らの信じる「肉体の不可逆性」を歪め、洋子という無垢な少女を「身代わりのアンカー」として設計した。

それは科学者としての敗北であり、人間としての罪悪の始まりだった。

しかし今、目の前のモニターが映し出しているのは、老婆の静的な計算式を嘲笑うかのような、激しくも美しい共鳴の波形だ。

浩の「救いたい」という決意。そして、洋子の「隣に立ちたい」という、被観測者からの主体的な拒絶。二人の思いが重なり合い、装置が想定していた一方通行の論理を、根底から書き換えようとしていた。

老婆は、写真の中の美咲に語りかけた。

(美咲。あなたが言っていた『愛』とは、これだったのね)

老婆は、深く息を吸い込んだ。そして、決意を固めた。


「私は……あなたたちを救うために、あらゆる手を尽くします」

老婆は言葉を選びながら続けた。

「親友の孫を守るという約束と、洋子さんを犠牲にした罪悪感の間で、私はずっと揺れてきました。今回の方法は、私の罪を少しでも償うための試みです」

老婆の声が、震える。

「失敗したら、私の責任は重い。二人の命を奪うことになる。しかし、成功させるために、私は全力を尽くします」

老婆は、「美咲の遺言を守る番人」であることを辞め、一人の科学者として、二人の未来を記述する「共同観測者」になることを選んだ。

「これから、装置の最終調整を行います。相互共鳴プロトコルに対応させるため、基本プログラムを書き換える必要があります」

老婆は、コンソールの前に座った。

「時間は、三十分ほどかかります。その間、あなたたちは互いの覚悟を確認してください」

老婆の指が、キーボードに触れる。

「一度装置を起動すれば、後戻りはできません。成功か、消滅か。二つに一つです」

店の外では、完全な夜が訪れていた。しかし、実験室の中には、希望の光が灯り始めていた。

重力波が結びつけた二人。親友の遺言を守ろうとした老婆。そして、これから始まる量子観測の試練。

すべては、まだ始まったばかりだった。

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