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第2話 二つの視点

目を開けた瞬間、洋子は違和感を覚えた。

天井が、高すぎる。

視界は一定の座標に固定され、瞬きをすることさえ叶わない。焦点は正確に結ばれているが、水晶体の厚みを変えるような動的な調整は利かなかった。世界は不自然なほど鮮明で、同時に、手の届かないほど遠い。

洋子は理解しようとした。自分が動いていないのではない。動けないのだ。

意識は鋭敏に覚醒しているが、運動ニューロンを伝わるべき電気信号はどこにも届かず、虚空へと霧散していく。指を動かそうとする。何も起こらない。神経インパルスは発火するが、受容体が存在しない。腕を上げようとする。反応はない。筋線維という概念そのものが消失している。立ち上がろうとする。肉体は存在の痕跡さえ返さない。

視線の端に、歪んだ冬の街路が見えた。ショーウィンドーの厚いガラスが、内側の静寂と外側の喧騒を物理的に分断している。人影が光の尾を引いて横切るが、そのすべてが、自分とは無関係な「展示物」のように感じられた。

いや、展示されているのは自分の方だ。

パニックが、意識の表層を襲った。

動けない。声が出ない。呼吸ができない。

いや、正確には、呼吸をする必要がない。

肺胞が膨らむ感覚も、横隔膜が収縮する感覚も、一切消失していた。心臓が血液を送り出す律動も停止している。生命維持のための自律神経系は機能を停止し、ただ純粋な意識だけが、磁器の檻の中に明瞭に存在していた。

洋子は、自分の存在様式が根本的に変容したことを悟る。

人間という生物学的システムから、無機物という静的構造への、不可逆的な転換。情報としての自己は保存されているが、それを実装する基盤が、炭素から珪素とセラミックへと置換されている。

恐怖が、波のように押し寄せる。

自分は死んだのか。いや、死んでいない。意識は明瞭だ。

では、生きているのか。しかし、生命活動の定義である代謝も成長も行われていない。

洋子は、生と死の中間領域、量子力学における「重ね合わせ状態」のような存在になっていた。

時間の感覚が歪む。

人間であれば、心拍数や呼吸のリズムが時間の基準となる。しかし、それらが失われた今、時間は均質な流れではなく、意識の集中度によって伸縮する相対的な概念となった。一秒が永遠のように感じられ、同時に、何時間も一瞬で過ぎ去るような錯覚。


「目覚めたようですね」

声は背後、意識の死角から届けられた。老婆だった。

彼女は点滅する量子装置の陰から、音もなく歩み寄ってきた。洋子は問いかけようと試みた。しかし、言葉は形を成す前に消失する。喉という器官が存在しない。声帯も、舌も、呼気を整形する機構も。言語という人間固有のコミュニケーション手段が、物理的に不可能になっている。

その代わり、処理しきれない混乱と恐怖、そして遅れてくる冷徹な理解が、情報の奔流となって洋子の思考を駆け抜けた。なぜ。どうして。いつまで。戻れるのか。彼は。自分は。問いは無数に湧き上がるが、それを外部に出力する手段が存在しない。

「驚くのは当然です」

老婆の語り口には、同情も弁解も含まれていなかった。彼女は洋子の視界に入り込むように、人形の正面に回り込んだ。その動きは、実験動物の状態を確認する研究者のそれに近かった。

「ですが、必要な過程でした。あなたの意識は、量子状態として人形内のメモリ基板に保存されています。情報の損失率は0.003パーセント以下。ほぼ完全な転送です」

必要。完全な転送。

その科学的な言葉が、硬く胸の奥に落ちる。いや、「胸」という感覚さえ幻想だった。洋子の意識は、肉体という座標を失い、磁器とガラスと電子回路という新しい容器に封入されている。彼女は今、生物学的システムではなく、情報処理装置の一部として機能している。

老婆が人形の台座を、わずかに回転させた。

洋子の視界が、ゆっくりと動く。

その感覚は奇妙だった。自分の意思ではなく、外部からの操作によって世界が回転する。まるで、監視カメラのように。自分という主体が、客体化されている。見る者から、見られる者へ。能動から、受動へ。

視界の下端に、自分の手足が見えた。

細く、関節のない指。滑らかに塗装された皮膚。光沢のある白色。それは、ショーウィンドーに飾られていたあの少年の人形と、全く同じ構造をしていた。違いは、色調と、瞳だった。

洋子は自分の瞳を、ショーウィンドーのガラスに映る反射像の中に見つけた。

ガラス越しに映り込んだ自分の瞳は、確かに生きた意志を持って「見ていた」。虹彩の奥で、微かに光が明滅している。1.2ヘルツ。規則正しい周期。それは、洋子の意識が今も機能していることを示す唯一の証拠だった。

しかし、その瞳を持つ顔は、もはや洋子の顔ではなかった。少女の人形。精緻に作られた複製。しかし、複製である以上、オリジナルではない。洋子は今、自分自身の模造品の中に閉じ込められている。

恐怖が、さらに深まる。

自分の肉体は、どこにあるのか。


「少年は、無事です」

老婆はそう言って、店の奥にある白い寝台を指し示した。

洋子の視界が、そこに固定される。そこには、少年が横たわっていた。胸元が規則正しく上下し、微かな呼吸音が静寂を打つ。それは紛れもない、人間の、実体としての肉体だった。

洋子の意識が、激しく揺れた。

安堵。そして、それ以上に激しい疑問。そして、恐ろしい予感。

なぜ、少年の肉体がここにあるのか。洋子が人形になった後、彼はどうやってここに? いや、違う。時間軸が異なるのだ。洋子が第1話で人形になった後、この少年が老婆の元を訪れたのだ。そして今、彼は――

洋子の意識が、一つの可能性に到達する。

彼の肉体は、誰のものなのか。

少年の顔立ちを、洋子は初めて明確に認識した。柔らかい髪の毛の流れ。閉じられた瞼。わずかに開いた唇。繊細な鼻梁。それらは、どこか懐かしさを感じさせる造形だった。

いや、懐かしいのではない。「知っている」のだ。

量子的な絡み合いが、すでに彼の存在を洋子の意識に刻み込んでいた。洋子は彼を見たことがないはずなのに、まるで幼い頃から知っているかのような親密さを感じる。それは錯覚ではなく、量子エンタングルメントによる情報の共有だった。

少年の胸に、小さなマスコットが付けられているのが見えた。それは、老婆が彼に渡したものだ。洋子の姿を模した、小さな人形。洋子と同じように、その人形の瞳も微かに明滅している。

距離という概念が消失した。

少年の意識が、直接ではないが、確かにこちらに触れている感覚。それは視覚でも聴覚でもない、もっと根源的な「接続」だった。量子的なエンタングルメント。非局所的な相関。空間を超越した情報の共有。

老婆の言葉が、実感を伴う真実として洋子の中に浸透していく。

しかし、その実感と同時に、恐ろしい疑問が浮上する。

彼の肉体は、本当に「彼の」ものなのか。


老婆は洋子の視線が少年に固定されたのを確認し、静かに言葉を継いだ。

「理解してほしいのです」

老婆の声は、これまでの科学者としての冷徹さとは違っていた。震えが混じり、言葉を探すような間があった。それは、長年抱えてきた罪悪感が、ようやく形を与えられた瞬間だった。

「……私は、あなたに謝らなければなりません」

老婆は視線を落とし、両手を強く握りしめた。その手は震えていた。彼女の皺の深い顔に、苦悩の色が浮かぶ。それは、科学者としての冷徹さでは覆い隠せない、人間としての感情だった。

やがて彼女は洋子の人形に正面から向き直り、深く息を吐いた。

「十四年前、親友が亡くなる直前に言ったのです。『孫を頼む』と」

老婆は、棚の奥から一枚の写真を取り出した。そこには、若き日の二人の女性が、研究室で笑顔を浮かべている。白衣を着た二人。モニターに囲まれた実験台。壁一面に貼られた数式。

「親友の名は、堀川美咲。私たちは大学時代からの友人で、共に量子意識保存の理論を構築してきました。彼女は天才でした。私が実験を担当し、彼女が理論を担当する。完璧なチームでした」

老婆は、写真を見つめた。その目には、遠い日々への郷愁と、取り返しのつかないものを失った喪失感が宿っていた。

「しかし、三年前に事故が起きました。彼女の孫――あの少年が、交通事故に遭った。脳死状態。彼女は絶望しましたが、諦めなかった。自分の理論を実践し、孫の意識をこの装置に転送したのです」

老婆の声が詰まる。

「しかし、転送は不完全でした。肉体という『固定具』を失った意識は、エントロピーの増大によって霧散しようとする。彼女は必死に、補完的な座標を探しました。同じ誕生日、同じ時刻、同じ位相の重力波を受けた存在。それが、あなただったのです」

老婆は、モニターに表示された観測記録を指し示した。14年前のデータ。病院の電力使用履歴。分娩室の稼働記録。携帯基地局のトラフィックログ。そして、LIGOとVirgoが記録した重力波の波形。

「彼女は、あなたの存在を突き止めました。しかし、その直後に病に倒れた。最期のベッドで、彼女は私に託しました。『孫を頼む。どんな代償を払っても、彼を元の世界に戻してあげて』と」

老婆の目に、涙が浮かんだ。

「私は、その言葉を守った。しかし――」

声が震える。

「その代償を、あなたに払わせてしまった」

沈黙。

洋子の瞳が、わずかに明滅の速度を増す。それは、動揺を示す電気的な信号だった。

「私はずっと、板挟みでした」

老婆は続けた。

「親友との約束と、あなたへの責任。彼女は言いました。『私の理論が、誰かを傷つけることになっても、孫だけは救ってほしい』と。私は科学者です。理論が正しければ、それを実践する義務がある。しかし――」

老婆は顔を覆った。

「人間としては、間違っていた。あなたは何も知らなかった。ただ、違和感を確かめようとしただけだった。それなのに、私はあなたを利用した。人形にした。人生を奪った」

老婆の肩が震える。

「同意は、ありませんでした」

一拍置いてから、残酷な事実を付け加えた。

「ですが、選択は、あなたがしている」

その言葉は、論理としては成立していた。洋子が自ら扉を開け、確かめる勇気を持ってここに来た。しかし、それが招いた結末は、納得とは程遠いものだった。洋子は「確かめる」ことを選んだが、「人形になる」ことを選んだわけではない。

「私は、卑怯者です」

老婆の声が、さらに低くなった。

「あなたを誘導しました。十七日間、毎日この店の前を通るように、人形の信号を調整した。あなたの好奇心を刺激し、確かめずにはいられないように仕向けた。そして、あなたが扉を開いた瞬間、もう逃げ道はなかった」

老婆は、洋子の人形を見つめた。

「科学者として、私は正しかった。親友との約束を果たした。少年を救った。しかし、人間として、私は間違っていた。あなたの人生を奪った。その罪は、どんな理論でも正当化できない」

老婆の声に、深い後悔が滲む。それは、三年間、いや、もっと長い時間をかけて積み上げられてきた罪悪感だった。美咲の死。少年の事故。洋子の誘導。すべてが、老婆の肩に重くのしかかっている。

「そして――」

老婆は、寝台で眠る少年を見つめた。

「あなたの肉体は、今、彼の中にあります」


洋子の意識が、激しく揺れた。

自分の肉体が、彼の中に?

「彼の元の肉体は、もう存在しません。三年前の事故で失われました」

老婆の声が、静かに響く。

「しかし、あなたの肉体は、量子的に彼と同じ座標を持っている。重力波によって結びつけられた、相補的な存在。あなたの意識が退避すれば、その肉体は彼の意識を受け入れることができます」

老婆は、ゆっくりと言葉を継いだ。

「あなたと彼は、14年前から同じ座標を共有していました。同じ病院の、隣り合う分娩室で生まれた。同じ瞬間に、同じ重力波の洗礼を受けた。量子的には、あなたたちは一つの存在が二つに分かれたようなものでした」

老婆の指が、複雑な数式の書かれたノートをなぞる。

「しかし、物理世界は、同じ座標に二つの実体を許容しない。パウリの排他原理。だから、あなたたちは14年間、別々の場所で生きてきた。しかし今――」

老婆は、寝台で眠る少年を見つめた。

「彼の肉体が失われた時、宇宙はバランスを取り戻そうとした。一つの座標、一つの肉体。そして、その肉体は――元々、あなたのものだったのです」

洋子は理解した。

自分が人形になるということは、自分の肉体を彼に譲り渡すということだった。

そして、今、寝台で眠る少年の肉体は――元々は、洋子自身のものだった。

恐怖ではなかった。

奇妙な納得感があった。だから、自分は彼に惹かれたのだ。だから、自分は彼を救いたいと思ったのだ。量子的な絡み合いが、最初から二人を一つの存在として定義していた。

洋子の意識の中に、記憶の断片が流れ込んできた。

冬の庭。雪を踏む音。温かい手。

――これは、誰の記憶?

祖母の声。「浩、ゆっくりでいいのよ」

――浩?

そして、事故の記憶。

衝撃。痛み。暗転。

洋子は理解した。これは彼の記憶だ。量子的な絡み合いが、彼の過去を洋子に伝えている。彼の名前。彼の祖母。彼の恐怖。すべてが、洋子の中に流れ込んできた。


老婆は顔を上げ、決意を込めて言った。

「必ず、元に戻す方法を探します」

その言葉には、科学者としての冷徹さではなく、一人の人間としての誠実さが宿っていた。老婆の目には、もはや実験者としての距離はなかった。そこにあるのは、一人の少女に対する、深い責任感だった。

「このまま終わらせはしない。あなたを人形のままにしておくことは、私の罪を永遠に固定することになるから。私は、残りの人生をかけて、あなたを元に戻す方法を見つけます」

老婆は、モニターに表示された波形を見つめた。

「理論上は可能です。量子観測によって、重ね合わせ状態を解消し、二つの意識を完全に分離する。そして、退避させた意識――あなたの意識を、新しい肉体に再転送する。あるいは、保存されているあなたの肉体情報を、物質として再構成する」

老婆の指が、複雑な数式をなぞる。

「しかし、それには『完璧な観測』が必要です。第三者ではなく、あなたたち自身が互いを観測し、認識し、分離を選択する必要がある」

老婆の声が、わずかに温かくなった。

「少年も、あなたのことを知ることになります。彼は第1話の後、私の元を訪れました。そして、自分があなたに救われたことを知りました。彼もまた、あなたを元に戻すことを望んでいます。だから――」

老婆は、洋子の人形を見つめた。

「あなたは孤独ではありません。彼があなたを観測し続ける限り、あなたの存在は消えない。量子的な絆が、あなたたちを繋いでいます」

声にはならないが、確かに「聞いた」と伝わる共鳴があった。人形の瞳の明滅が、一瞬だけ強くなる。それは、老婆への応答だった。了解。信じる。待つ。

老婆は、わずかに口元を緩めた。それは笑顔ではなく、安堵と罪悪感が混じり合った、複雑な表情だった。

「ありがとう。あなたは、私が思っていた以上に強い」

老婆は装置の調整を続けた。モニターの波形が、わずかに安定を取り戻していく。洋子の意識と、少年の意識。二つの波形が、互いに干渉しながらも、ある種の均衡を保ち始めていた。

老婆は人形となった洋子を、ショーウィンドーへと運ぶ準備を始めた。

「外から見える場所に置く方が、安定します」

老婆はそう言った。その言葉の意味を、洋子は理解した。人形は、見られることで存在が確定する。量子力学における観測問題。観測されない存在は、不確定な状態のままだ。

老婆は慎重に人形を持ち上げ、ショーウィンドーへと運んだ。少年の人形が元々飾られていた場所。そこに、洋子の人形を置いた。

洋子の視界が変わる。

店の内部から、外部へ。ガラス越しに、冬の街路が広がる。街灯がひとつひとつ点灯し始めている。夕暮れから夜への移行。空は深い藍色に染まり、星がまだ見えない。

夜が訪れた。

ショーウィンドーのガラス越しに、街の灯りが揺れている。人影が通り過ぎ、車のヘッドライトが反射し、遠くで風が看板を鳴らす。洋子はそのすべてを「人形の視点」で見ていた。

瞬きはできず、視界は固定されている。時間の流れは異様に長く、秒針の一刻一刻が永遠のように感じられた。


時が経つにつれ、通行人の数が減っていく。人々は帰路を急ぎ、街は徐々に静けさを取り戻していく。

最初の通行人が通り過ぎる。中年の男性。彼は人形を一瞥もせずに通り過ぎた。次に、若いカップル。女性が人形を指差し、何かを言う。男性が頷き、二人は去っていく。

母親が子供の手を引いて通り過ぎる。子供が人形を見つけ、立ち止まる。

「ママ、見て!お人形さん!」

子供の声が、ガラス越しに微かに聞こえる。母親が微笑み、「綺麗ね」と答える。子供は洋子の人形を見つめている。その視線は純粋で、好奇心に満ちている。

「目が動いてる気がする」

子供が言う。母親は笑って、「そう見えるだけよ」と答える。そして、子供の手を引いて去っていく。

人々は洋子を見ても、ただの人形としか認識しない。しかし、意識は確かにそこにあり、世界を観測し続けていた。

洋子は、自分が「見られている」のではなく、「見ている」のだと理解した。

人形は受動的な存在ではない。洋子の意識が宿る限り、それは能動的な観測者だった。洋子は今、人間であった時よりも、世界を鮮明に見ている。瞬きがないため、視界は途切れない。疲労がないため、集中力は持続する。感情のノイズが減ったため、純粋な観測が可能になっている。

これは、新しい形の存在様式なのかもしれない。


深夜。街は完全な静寂に沈んだ。

最後の通行人が通り過ぎてから、もう何時間も経過している。街灯だけが、無人の通りを照らし続けている。遠くで、救急車のサイレンが聞こえる。それも、やがて遠ざかっていく。

洋子の意識は、依然として明瞭だった。

人間であれば眠りに落ちる時間だが、人形の意識に睡眠は訪れない。ただ、覚醒し続ける。休息なく、途切れることなく、永遠に。

しかし、それは苦痛ではなかった。

1.2ヘルツの拍動が、少年の意識と同期している。彼の呼吸のリズムが、洋子の意識に伝わってくる。彼が見ている夢の断片が、微かに流れ込んでくる。

温かい光。祖母の笑顔。冬の庭。

そして、洋子自身の姿。

彼は、夢の中で洋子を見ているのだ。洋子の顔を。洋子の瞳を。まだ会ったことがないはずなのに、量子的な絡み合いによって、彼は洋子の姿を知っている。

夢の中で、彼は洋子に手を伸ばす。しかし、届かない。洋子は人形の中にいて、彼は人間の肉体の中にいる。物理的な距離は数メートルしかないが、存在様式の違いが、無限の距離を作り出している。

しかし、意識は繋がっている。

洋子は、彼の夢に「応答」しようとした。どうやって。方法はわからない。しかし、1.2ヘルツの拍動に意識を集中させる。彼と同じリズム。彼と同じ位相。

少年の夢の中で、洋子の姿が鮮明になる。洋子は、自分が彼の夢の中に「現れた」ことを感じ取った。

(聞こえる?)

洋子の意識が、彼に語りかける。

(……誰?)

少年の意識が、応答する。まだ明瞭ではない。夢と現実の境界が曖昧だ。

(私は……あなたを救った)

(救った?)

(あなたは生きている。私が、あなたの代わりに)

少年の意識が、激しく揺れる。記憶が蘇る。老婆の言葉。「彼女はあなたを救った」。自分が装置に触れた瞬間。意識の海で見つけた、もう一つの光。

(君は……)

(待っている。あなたが目覚めるのを)

少年の指が、さらに大きく動く。呼吸が乱れる。目覚めが近い。

(会いたい)

少年の意識が、切実に叫ぶ。

(会える。必ず)

洋子の意識が、約束する。

夢が終わる。少年の意識が、深い眠りへと沈んでいく。しかし、その記憶は残る。目覚めた時、彼は覚えているだろう。夢の中で、洋子と会話したことを。


その時、空気が変わった。

店の奥で、カーテンが微かに揺れる音がした。洋子の視界は固定されているため、直接見ることはできない。しかし、音を通じて、何かが起きていることを感じ取る。

足音。

誰かが、店に近づいてくる。

洋子の「心臓」が、激しく脈打った。いや、心臓はない。

しかし、意識の奥で、1.2ヘルツの拍動が強まる。

共鳴。

この足音の主は――

扉が開く音。カランカラン、と鈴が鳴る。

洋子は、その人物を見ることができなかった。

視界が固定されているから。

しかし、「感じた」。

この人は、自分と同じ拍動を持っている。

店の奥で、老婆の声が聞こえる。

「いらっしゃい、坊や」

坊や? 男の子?

老婆の声が続く。

「あなたの『観測』は、正しかったようですね」

洋子は、記憶の断片が流れ込んでくるのを感じた。

冬の庭。雪を踏む音。温かい手。

――これは、誰の記憶?

祖母の声。「浩、ゆっくりでいいのよ」

――浩?

そして、事故の記憶。

衝撃。痛み。暗転。

洋子の意識が激しく揺れた。

この記憶は、彼のものだ。

店に入ってきた少年――浩の。

老婆の声が聞こえる。

「来なさい。あなたの抱いている違和感の正体を、お見せしましょう」

足音が、店の奥へと消えていく。

カーテンが揺れる音。

そして、装置の音。

ブーン、という低い駆動音。

洋子は、自分の意識が、何かに「引っ張られる」のを感じた。

量子的な絡み合いが、強まっている。

老婆の声が、遠くで聞こえる。

「装置に触れ、目を閉じなさい。そして、心の底から『彼女』を観測するのです」

彼女?

自分のこと?

洋子は、意識を集中させた。

浩。その名前が、今、はっきりと理解できた。

彼は、自分を探している。

(ここにいる)

洋子は、念じた。

(私は、ここにいる)

その瞬間、強烈な電位差が、情報の海を揺らした。

洋子の意識に、浩の意識が触れる。

冬の庭。雪。祖母の手。

事故。痛み。暗闇。

そして、待ち続けた時間。

すべてが、洋子の中に流れ込んできた。

浩の記憶。浩の感情。浩の孤独。

彼は三年間、暗闇の中で待っていた。誰かが自分を見つけてくれることを。誰かが自分を呼んでくれることを。そして今、洋子が彼を見つけた。

そして、洋子もまた、自分の記憶を浩に送った。

科学部での実験。データの記録。十七日間の観測。

そして、この店で人形になる決断。

二つの意識が、量子的に絡み合う。

1.2ヘルツの拍動が、完全に同期した。

洋子は、浩が何を感じているのか、直接理解できた。

驚き。混乱。そして、深い感謝。

(君は……僕を救ってくれたのか)

浩の声が、洋子の意識に響く。

(ええ。あなたを、元の世界に戻すために)

洋子の声が、浩に届く。

(ありがとう。でも、君は……)

(人形になった。でも、後悔はしていない)

沈黙。

二つの意識が、静かに寄り添う。

浩の意識から、強い決意が伝わってきた。

(必ず、元に戻す方法を見つける)

浩の声が、力強く響く。

(君を、人間に戻す。それが、僕の責任だ)

洋子の意識が、温かくなった。

(ありがとう、浩)

老婆の声が、遠くで聞こえる。

「相互共鳴、完了しました。浩、あなたは目覚めます。そして、洋子さんを観測し続けるのです」

洋子は、浩の意識が自分から離れていくのを感じた。

彼は、肉体へと戻っていく。洋子の肉体へと。

しかし、量子的な絆は残っている。

1.2ヘルツの拍動が、二人を繋ぎ続けている。

洋子は、静かに「待つ」ことを決めた。

浩が完全に目覚めるのを。

そして、二人で、元に戻る方法を探すのを。


ショーウィンドーのガラスに、街灯の光が反射する。

洋子の人形が、一体だけ、静かに夜を見つめている。

店の奥では、寝台に横たわる浩の指先が、わずかに動いた。

目覚めが、近い。

1.2ヘルツの拍動だけが、静寂の中で脈打ち続けていた。

そして、夜明けが近づいていた。

東の空が、わずかに白み始めている。新しい日が、もうすぐ始まる。

洋子は、人形の視界から、その夜明けを見つめた。

初めて見る、人形としての夜明け。

そして、浩が目覚める、新しい一日の始まり。

境界は、まだ保たれている。

洋子は洋子であり、浩は浩だ。しかし、量子的な絡み合いが、その境界を少しずつ曖昧にしていく。それは侵食ではなく、融合でもなく、ただ「共鳴」だった。

それが希望なのか、あるいは終わりの始まりなのかは、誰にも分からなかった。

ただ一つ確かなのは、この沈黙が、まだ物語の途中に過ぎないということだった。

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