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第1話 洋子の選択

冬の夕暮れ、少女はショーウィンドーに飾られた人形の瞳に射抜かれるような感覚を覚えた。

それは、十七日連続で経験している現象だった。

洋子は、スマートフォンの画面を見つめた。メモアプリに表示された記録。十七日分のデータ。時刻、気温、心拍数、そして「被観測感」の強度。科学部に所属する彼女にとって、理解できない現象は観測と記録の対象だった。感情的に回避すべきものではなく、データとして蓄積し、分析し、仮説を立てるべき素材だった。

観測記録 - 17日目

日付: 12月18日

時刻: 17:42

気温: 2度

心拍数: 72回/分(1.2ヘルツ)

被観測感: 10/10

備考: 同調率97.3%

最後の数値を見て、洋子は息を呑んだ。

97.3パーセント。

彼女は顔を上げ、ショーウィンドーのガラスに視線を戻した。そこには、小さな金属製のプレートが置かれている。手書きの文字で、こう記されていた。

「同調率:0.00% → 97.3%(17日経過)」

自分の記録と、完全に一致している。

洋子の背筋に、冷たいものが走った。自分は観測されていたのではない。「調整」されていたのだ。何のために。誰によって。そして、100パーセントに達した時、何が起こるのか。

少年の人形が、ショーウィンドーの中から彼女を見つめている。磁器の肌は冷徹な白を湛え、波打つ髪の一房に至るまで、静止した時間の断面を保存している。衣服は濃紺のウールを思わせる質感で、微細な繊維の重なりまでが、ある種の意思を持って編み込まれているかのようだった。

だが、この人形が放つ異質さは、その技巧的完成度にあるのではない。

瞳だった。

その深淵で点滅する微小な光波を、洋子は網膜の隅で捉え続けていた。それは環境光のランダムな反射ではない。一定の周期を持って繰り返されている。

1.2ヘルツ。

自分の心拍と、完全に同期している。

洋子は、自分の立ち位置をわずかにずらしてみた。右へ15センチメートル。次に左へ10センチメートル。視角の変化に伴い、人形の虹彩における光の反射角も変化する。通常であれば、視線が外れたと感じるはずの領域だ。

しかし、不快な「被観測感」は消失しなかった。

むしろ、洋子が動くたびに、人形の瞳の奥にある「何か」が、彼女の存在を補足し、空間座標をリアルタイムで追従しているような錯覚が強まった。

十七日間。彼女はこの現象を記録し続けてきた。

最初は気のせいだと思った。二日目は気のせいだと否定した。三日目には意識的に視線を逸らそうとした。しかし一週間が経過する頃には、彼女の神経系はこの座標を「特異点」として記憶し、接近するたびに心拍数を上昇させるようになっていた。

データは彼女を安心させなかった。

十七日間の記録は、明確な相関関係を示していた。日を追うごとに、彼女の心拍数は上昇し、被観測感の強度も増加している。まるで、何らかのシステムが彼女の存在を段階的に「調整」しているかのような、恐ろしく整然としたグラフが描かれていた。

「ただの人形だ。物質の集合体に過ぎない」

洋子は自分に言い聞かせた。彼女の教育的背景は、論理と数値を優先する。この現象は、ショーウィンドーのガラスによる光の屈折と、周辺の街灯の配置が生み出した偶然の干渉縞に過ぎない。あるいは、夕暮れ時の低照度環境が引き起こす、脳内のパターン認識の誤作動――パレイドリア現象の一種。

しかし、その論理的な棄却は、胸の奥で増幅し続ける共鳴を鎮めるには至らなかった。むしろ、科学的に説明しようとすればするほど、説明不可能な残差が、彼女の意識の表面に不吉な影を落としていく。

それは、一方的な視覚情報の受容ではない。

洋子の存在そのものが、何らかのシステムによってスキャンされ、定義されているような感覚。あるいは、懐かしさに似た、胸を締め付ける共振。彼女は、自分がこの場所に来ることを、あるいはこの人形の前に立つことを、宇宙の初期条件においてプログラミングされていたのではないかという、非科学的な疑念に囚われ始めた。

洋子はコートのポケットの中で、指を強く握りしめた。指先の皮膚が感じる圧力、爪が掌に食い込む痛み。それが、現実との唯一の接点だった。

ショーウィンドーのガラスには、洋子自身の姿が映り込んでいた。薄暗い街路を背景にしたその輪郭は、まるで自分ではない誰かの投影のように見えた。自分という個体の境界線が、この冷たいガラス越しに、内側にある「少年」と入れ替わっていくような、奇妙な位相のずれ。

十四年前。洋子が生まれた日。

母親から何度も聞かされた話がある。出産の直前、病室の窓から見えた空が、異様なまでに澄み渡っていたという。そして、洋子が産声を上げた瞬間、原因不明の微弱な振動が建物全体を揺らした。気象台の記録には何も残っていない。地震でもない。だが、確かに世界を揺らした「何か」があった。

母親はそれを「あなたを歓迎する、宇宙からの祝福」と笑って語った。

しかし、洋子はその話を聞くたびに、説明のつかない不安を覚えていた。まるで、自分の誕生が何らかの「イベント」に紐付けられているような、運命論的な圧迫感。彼女は科学を信奉していたが、その不安だけは、どの方程式にも当てはめることができなかった。

そして今、この人形の前に立つたびに、その不安が具体的な形を取り始めている。

「確かめなきゃ」

その言葉が、自然と口をついて出た。三度目だった。最初は一週間前。次は三日前。そして今日。

言葉を重ねるたびに、その確信は強まっていた。

洋子は、古びた雑貨屋の扉へと歩み寄った。


真鍮の取っ手は、摂氏2度の外気で凍てついていた。

洋子の指先が金属に触れた瞬間、皮膚に刺さるような冷たさが神経を伝わる。それは、この先に待ち受ける非日常が、幻覚ではなく確固たる「物理的実在」であることを洋子の脳に宣告していた。

洋子は一度だけ、背後を振り返った。

街路樹の影が刻む幾何学模様。通り過ぎる人々の無関心な足音。帰路を急ぐ会社員。自転車で通り過ぎる学生。犬の散歩をする老人。そこには、彼女が十四年間生きてきた「日常」が、何事もなかったかのように継続していた。

この扉を開かなければ、彼女は今も、その日常の一部として存在し続けることができる。明日も学校へ行き、科学部で実験を続け、友人と他愛のない会話を交わし、家族と夕食を囲む。そんな、当たり前の日々が待っている。

しかし、胸の奥の違和感は、もはや無視できなかった。

それは痛みというよりも、設計図から重要なパーツが欠落したまま、無理やり稼働を続けさせられている機械の悲鳴に似ていた。

洋子は、深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を満たす。吐き出す息は白く霧散し、薄闇の中に溶けていく。

そして、扉を引いた。

カランカラン、と鈴が鳴る。

店内に足を踏み入れた瞬間、空気の組成が劇的に変化した。外界の冷たく湿った空気とは異なる、静電気を帯びたような乾燥した感覚。そこには積層した埃の匂いとともに、電子機器が発する独特のオゾン臭が混じっていた。気圧は1013ヘクトパスカル。変化はないはずだが、密閉された空間特有の重圧が鼓膜を圧迫する。

洋子は立ち止まり、店内を見渡した。

棚には年代物の雑貨が無秩序に積み上げられている。ガラス製の瓶、錆びた鍵、色褪せた布。どれも数十年前の時間軸に取り残されたかのような佇まいだ。しかし、洋子の目は、それらの隙間から微かに見える配線、埃を被った計測器の類を捉えた。

アストロラーベ。天球儀のリング。ロバーバル機構の天秤。

これらは単なる骨董品ではない。よく見ると、現代的なセンサーが組み込まれている。

この店は、単なる雑貨屋ではない。

「いらっしゃい、お嬢さん」

店の奥から、低く抑制された声が届いた。老婆だった。

彼女は点滅する量子装置の陰から、音もなく歩み寄ってきた。計算機のディスプレイが放つ微弱な青白い光に照らされ、彼女の皺の深い顔には、論理的な厳格さと、それ以上の深い諦念が刻まれていた。

老婆は椅子に座ったまま、洋子を観察していた。その視線には、実験動物を観察する研究者の冷徹さと、同時に、何か重大な決断を下す直前の人間が抱く逡巡が混在していた。

「あなたの『観測』は、正しかったようですね」

洋子は動かなかった。彼女の科学的訓練が、未知の状況下では性急な行動を避けるよう警告していた。

「私は、この店の人形が送っている不可解な信号を確認しに来ただけです」

洋子の声は、自分でも驚くほど冷静だった。恐怖は確かにある。しかし、それ以上に、この不可解な現象を解明したいという知的好奇心が上回っていた。

「瞳の明滅、1.2ヘルツの同期。それらが私の脳内における錯覚ではなく、客観的な物理現象であることを特定するために、ここに立っています」

老婆は、わずかに口元を緩めた。それは笑みというよりも、期待が的中したことへの静かな確認だった。

「特定。素晴らしい言葉の選択です」

老婆はゆっくりと立ち上がった。その挙動は重力に抗うような遅さだったが、一寸の無駄もない正確な運動だった。彼女は手元の計算機を閉じると、洋子の方へと数歩、歩み寄った。

「この場所には、あなたのそのような『確かめようとする意志』が必要だった。十七日間、あなたは毎日この店の前を通り、データを記録し続けた。あなたは自分が『調整』されていることに気づきながらも、逃げなかった」

洋子は息を呑んだ。老婆は、彼女の行動をすべて把握していた。

「あなたが外で感じたのは、知覚のエラーではありません。情報の『漏洩』です」

老婆は、棚に並んだ古びた真鍮製の計測器を指先でなぞった。それらは一見すると骨董品だが、よく見ると現代的なセンサーが組み込まれている。

「あなたが人形に見つめられていると感じた時、あなたの意識の深層は、この場所にある別の個体と非局所的な通信を行っていたのです。物理的距離を無視して、情報が共有されていた」

「非局所的……」

洋子はその用語の意味を即座に理解した。量子もつれ。二つの粒子が、どれほど離れていても、片方の状態を観測すれば、もう片方の状態が瞬時に確定する現象。

「私と、あの人形が、量子的に相関しているというのですか」

洋子の声に、初めて動揺が混じった。量子もつれは、素粒子レベルでは実証されている現象だ。しかし、人間の意識のような巨大で複雑なシステムで、そのような効果が維持されるはずがない。

「そのような大規模な量子効果が、このマクロな環境下で維持されるはずがない。デコヒーレンスによって、情報は一瞬で消失するはずです」

老婆は微かな、しかし誇らしげな笑みを見せた。

「通常ならば、その通りです。あなたの理解は正確だ。しかし」

老婆は、店の奥を指し示した。厚いカーテンで仕切られた領域。

「来なさい。あなたの違和感の正体を、データとしてお見せしましょう」

洋子は躊躇した。この先に進めば、もう後戻りはできない。彼女はそれを直感的に理解していた。

しかし、彼女の「確かめようとする意志」が、その警告を上書きした。

彼女は老婆の背中を追い、雑貨屋の「裏側」へと足を踏み入れた。


カーテンの向こうには、異様な光景が広がっていた。

剥き出しの光ファイバーが血管のように壁を這い、点滅する真空管が不規則なリズムを刻んでいる。中央の作業台には、円筒形のチタン合金製装置が鎮座し、その周囲を取り囲むモニターには、複雑な波形が絶え間なく流れていた。装置の表面には、液体窒素の冷却装置が接続され、-196度の極低温を維持している。

天井からは無数のケーブルが垂れ下がり、床には冷却用のパイプが這っている。壁一面には手書きの数式が書かれた紙が貼られ、その隙間にはオシロスコープやスペクトラムアナライザーが埋め込まれている。

空気は、さらに乾燥していた。湿度は20パーセントを下回っているだろう。静電気が発生しやすい環境だ。オゾン臭も濃くなっている。

「これが……」

洋子は息を呑んだ。彼女の科学的知識が、この装置の目的を部分的に理解させた。超伝導状態を維持するための冷却。量子状態を保存するための磁気シールド。そして、中央の円筒形装置は――

「量子意識保存装置です」

老婆の声に、初めて人間的な感情が混じった。誇り。そして、拭い去れない悲しみ。

「私の親友が遺した、この世界の裏側の秩序。彼女は、意識を量子状態として保存する理論を構築した。肉体が失われても、情報としての『自己』を維持する方法を」

老婆がモニターの一つを起動すると、そこには二つのグラフが表示された。赤と青。異なる二つの波形が、驚くべき精度で重なり合い、干渉縞を形成していた。

まず薄い藍色の波紋として揺らめき、次第に蜜色の濃い縞へと変質し、やがて一つの鋭い、刃のような白い峰へと収束していく。

「赤は、この装置の中に保存されている少年の意識。そして青は――」

老婆の視線が洋子の瞳を貫いた。

「今、ここでこの光景を見ている、あなたの意識波形です」

表示されたグラフの数値に、洋子の思考は一瞬の停滞を余儀なくされた。

統計学的な偶然では説明しきれない。誤差は0.0001パーセント以下。それは、二つの独立した意識が、同一のソースコードから出力されていることを示唆していた。

「私と、この装置の中の意識が……同じ座標を共有している?」

「そうです」

老婆は深く息を吸い込んだ。これから語ることが、どれほど重い内容であるかを彼女自身が理解していた。

「14年前の12月18日、午後3時42分」

老婆は静かに語り始めた。

「遠方の銀河で発生した連星ブラックホールの合体により、強力な重力波が地球に到達した。その波は時空そのものを歪めた。そして、その瞬間、同じ病院の隣り合う分娩室で、二人の赤ん坊が産声を上げた。あなたと、ある少年です」

老婆はモニターのデータをスクロールさせた。そこには、14年前の観測記録が表示されている。LIGOとVirgoの観測所が記録した、重力波の波形。そして、病院の電力使用履歴。分娩室の稼働記録。

「あなたたちは、誕生の瞬間に同じ重力波の洗礼を受けた。その結果、あなたたちの量子意識は、互いに相補的な関係――量子もつれとして固定されたのです」

洋子の記憶が、激しく波打ち始めた。母親から何度も聞かされた話。出産の直前、異様なまでに澄み渡った空。そして、原因不明の微弱な振動。

老婆の指が、装置の隣に置かれた人形を指し示した。電極に繋がれた、少年の人形。その瞳が、モニターの光を受けて微かに明滅している。

「彼の意識は今、極めて不安定な状態にあります」

老婆の声が震えた。

「三年前、彼は交通事故で肉体を失った。脳死状態。しかし、私の親友――彼の祖母は諦めなかった。自分の理論を実践し、彼の意識をこの装置に転送したのです」

老婆は、棚の奥から一枚の写真を取り出した。そこには、幼い少年の姿が写っている。笑顔。無邪気な表情。しかし、その写真の端には日付が記されている。三年前。

「親友は最期に、私に託しました。『この子を、どうか元の世界に戻してあげて』と。しかし、肉体という固定具を失った情報は、エントロピーの増大によって霧散しようとしている。彼をこの世界に繋ぎ止めるためには、同じ位相を持つ『観測者』が必要だったのです」

老婆の視線が、洋子に向けられた。

「それが、あなたです」


沈黙が、実験室を支配した。

機械の駆動音だけが、店内の空気を満たしている。真空管の微かな唸り。冷却装置のファンの回転音。モニターのブラウン管が発する高周波。それらが複雑に混じり合い、人間の耳には聞こえない周波数帯で共鳴している。

洋子は、自分の両手を見つめた。皮下を流れる血流。神経を伝わる電気信号。それらすべてが、自分という個体に限定されたものではなく、宇宙の巨大なネットワークの一部であるという感覚。

「私が、彼を観測すればいいのですか」

「そうです」

老婆は一つの端子を指し示した。それは、装置の中心部から伸びる、太い光ファイバーケーブルの先端だった。

「しかし、それは一方的な行為ではありません」

老婆は一瞬、言葉を切った。そこには明確な逡巡があった。

「彼を観測するということは、あなた自身もまた、彼の世界へと意識を投じることを意味する。あなたという個体の境界線は、一度解体され、再構築されることになるでしょう」

老婆の声が、さらに重くなった。

「そして――この装置が完全に機能するためには、物理的な『固定具』が必要です」

洋子の背筋に、冷たいものが走った。

「肉体は、一つしか存在できません」

老婆の言葉は、物理法則を読み上げるかのように淡々としていた。しかし、その淡々とした語調が、かえって内容の重さを際立たせた。

「同じ座標、同じ位相を持つ二つの意識が同時に肉体を持つことは、情報力学的に許容されない。パウリの排他原理。もし強行すれば、世界はオーバーフローを起こし、二人の存在そのものが抹消されます」

老婆は、電極に繋がれた少年の人形を見つめた。

「彼の意識を実体化するためには、あなたの意識を、一時的に別の容器に退避させる必要があります」

老婆の視線が、人形に向けられた。

「あなたは、人形になります」


洋子は、深く息を吸い込んだ。

肺胞に広がる空気の感触。心臓の拍動。血液が血管を流れる感覚。皮膚に触れる空気の温度。これらすべてを、失うかもしれない。

「それは……戻れるのですか。私は、再び人間に」

老婆は長い沈黙の後、答えた。

「わかりません」

その言葉には、嘘がなかった。老婆の瞳には、科学者としての誠実さと、人間としての罪悪感が混在していた。

「理論上は可能です。しかし、実験は一度も成功していない。あなたは、取り返しのつかない選択をすることになるかもしれません」

洋子の脳裏に、十七日間の記録が蘇った。

データを記録し続けた日々。被観測感の強度が、日を追うごとに増加していく様子。グラフに描かれた、美しいほどに整然とした曲線。そして、今日、ここに来る決意をした瞬間。

学校の帰り道、必ずこの店の前を通った。最初は偶然だと思った。二日目は気のせいだと否定した。三日目には意識的に視線を逸らそうとした。しかし、足は必ずこの場所で減速した。

科学部の実験室で、データを入力しながら考えた。この現象には、必ず論理的な説明があるはずだ。仮説を立て、検証し、結論を導く。それが科学の手順だ。

しかし、今、目の前に提示された真実は、どんな仮説よりも遥かに壮大で、そして残酷だった。

「確かめなきゃ」

洋子は三度、その言葉を口にした。それは自分自身の存在を、より広大な秩序の中へと投じるための、最終的な決別の合図だった。

「もし、この違和感の正体が『他者の命を繋ぐこと』にあるのなら。もし、私の存在が、彼を救うために宇宙が用意した『部品』であるのなら」

洋子の論理は、その役割を拒絶する理由を見いだせなかった。いや、それ以上に、洋子は知りたかった。自分の中にある、説明のつかない空虚の正体を。彼と自分が、なぜ同じ拍動を持っているのかを。

「どうすればいいのですか」

老婆の目に、複雑な感情が浮かんだ。安堵。罪悪感。そして、深い敬意。

「装置に触れ、目を閉じなさい。そして、心の底から『彼』を観測するのです。あなたの意識が彼を捉えた瞬間、装置は自動的に転送を開始します」

洋子は一歩踏み出し、装置の金属面に指先を触れさせた。その表面は、液体窒素による冷却で凍てつくほど冷たかった。指先の皮膚が、瞬時に熱を奪われる。痛みに近い冷たさだった。

しかし、洋子は手を離さなかった。

「ありがとう、お嬢さん」

老婆の声が、最後に聞こえた。

「あなたは、私の親友が最も望んでいた『勇気ある選択』をしてくれた」

瞬間、強烈な電位差が洋子の意識を直撃した。


視界がホワイトアウトする。

色彩、音、温度、重力。あらゆる物理パラメータがデジタル信号へと分解され、情報の海へと流出していく。

洋子は自分という「器」が失われていくのを感じた。肉体という重い鎖から解き放たれ、純粋なデータとしての自由。それは解放であり、同時に恐怖でもあった。

視覚が最初に消えた。白光が薄れ、今度は完全な暗闇が訪れる。しかし、それは「目を閉じた暗闇」ではない。視覚そのものが存在しない暗闇。網膜への信号が途絶し、視覚野が機能を停止した状態。

聴覚が次に消えた。老婆の声が遠ざかり、やがて沈黙する。しかし、その沈黙は「静寂」ではない。音という概念が存在しない世界。鼓膜への振動が途絶し、聴覚野が機能を停止した状態。

触覚が最後に消えた。冷たさも、温かさも、痛みも、すべてが消失する。皮膚への刺激が途絶し、体性感覚野が機能を停止した状態。

洋子は今、純粋な「情報」としてのみ存在していた。

だが、そこには果てしない虚無も同居していた。

自分は誰なのか。どこから来たのか。何のために存在しているのか。すべての定義が剥がれ落ち、洋子は純粋な「情報の奔流」となった。

暗闇の向こう側。

洋子は、自分と同じ「拍動」を見つけた。

1.2ヘルツ。

冷たく、孤独で、しかし自分と完全に同じ位相で揺れている、一筋の光。それは、洋子と同じように、この暗闇の中で存在の意味を探し続けていた。まるで、遠い昔に忘れてしまった何かを、必死に思い出そうとしているかのように。

「見つけた」

洋子がその光を「観測」した瞬間、世界は猛烈な勢いで再構築を開始した。

散逸していた情報の断片が、洋子の意識を中心に収束していく。記憶の断片。感情の残滓。自己という概念の輪郭。それらが、一つ一つ元の場所へと戻っていく。

しかし、戻ってきた感覚は、先ほどまでの「人間」としてのそれとは異なっていた。

関節が固定され、皮膚が冷たい硬度を持つ。肺呼吸は停止し、代わりに微弱な電流が全身を駆け巡る。視界は一定の角度に固定され、目の前には透明な、しかし強固な境界線が立ちはだかっていた。

ショーウィンドーのガラス。

洋子は、自分が磁器の肌を持つ人形へと変容したことを悟った。


絶望はなかった。

すぐ隣には、先ほど見つけたあの光が、少年という形を持ち始めていたからだ。

まだ明確ではない。輪郭はぼやけている。しかし、確かにそこにいる。洋子の観測によって、ようやく存在の定義を得始めた、不確定な少年。

(……ああ)

声にはならない。だが、電子の火花が散るような確かな共鳴が、二人の間で交わされた。

(待っていた)

それが彼の声なのか、洋子自身の記憶なのか、区別はつかなかった。

ただ、確かなことがひとつだけあった。

自分は、もう孤独ではない。

そして洋子は、人形の意識として、最初の夜を迎えた。


老婆は装置のスイッチを切り、深く溜息をついた。

彼女の眼差しには、実験を成功させた科学者の満足と、一人の少女の人生を奪ったことへの拭い去れない罪悪感が混在していた。

作業台の上には、洋子が最後に握りしめていたスマートフォンが置かれている。その画面には、十七日間記録され続けた観測データが残っていた。最後のエントリーは、今日、12月18日、17時42分。

観測記録 - 17日目

日付: 12月18日

時刻: 17:42

気温: 2度

心拍数: 72回/分(1.2ヘルツ)

被観測感: 10/10

備考: 同調率97.3%

老婆は、そのデータを見つめ、静かに呟いた。

「これで、第一段階は完了しました」

老婆は、人形となった洋子の瞳を見つめた。その瞳は今も、1.2ヘルツの周期で微かに明滅している。洋子の意識が、まだそこに宿っていることを示す唯一の証拠。

「あとは、彼が目覚めるのを待つだけです」

老婆は、親友の写真を手に取った。そこには、若き日の二人の女性が、研究室で笑顔を浮かべている。白衣を着た二人。モニターに囲まれた実験台。壁一面に貼られた数式。

「約束、果たしたわよ。あなたの孫を、この世界に戻す」

老婆の声が震えた。

「でも――私は、また一人の子供を犠牲にしてしまった」

老婆は写真を胸に抱き、目を閉じた。

涙が、皺の深い頬を伝って落ちる。

店の外では、完全な夜が訪れていた。

洋子の、新しい「選択」が、冷たい月明かりの下で静かに始まりを告げていた。

彼女はもはや孤独ではなかった。量子レベルで絡み合ったその意識は、時空の壁を越えて、誰かと――まだ見ぬ少年と――永遠に同期し続けるのだ。

1.2ヘルツの拍動だけが、静寂の中で脈打ち続けていた。

それは、洋子の意識が今も生きていることを示す証。

そして、少年が目覚める日を待つ、静かな約束だった。

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