第二十八話
グリモアが学園を離れてから、すでに三か月が経過していた。
その間、懸念されていたネメシズ教団の襲来は一度として起こらず、学園には穏やかで静かな時間が流れていた。生徒たちは日々の研鑽に集中し、選択授業の終盤が近づくにつれて、自然と試験への緊張感が教室の空気に混じり始めていた。
長く続いた午後の属性授業も、ついに本日をもって最終日を迎えることとなる。最後の締めくくりとして予定されていたのは、筆記と実技を兼ねた総合試験だった。
教室内には、張り詰めた静寂と胸を高鳴らせる期待とが混在し、まるで雷雲が空に静かに溜まりゆくような重圧が漂っていた。
一時間にわたる筆記試験が終わると、教員の指示により実技試験の準備が整えられる。広げられた空間には魔法陣の残滓が薄く揺らぎ、そこは生徒たちがこれまでに培った雷魔法の技術を披露する舞台となる。
順に名前が呼ばれ、一人ひとりが前へと進み出る。そのたびに魔法が放たれ、眩い閃光が空間を裂いた。雷が奔り、鋭い音と共に標的を撃ち抜いていく。無数の魔法陣が淡く浮かび上がっては、一瞬の光を放ち、霧のように消えていった。
その光景は、戦場ではなく舞台だった。生徒たちは互いの魔法に見入り、拍手や感嘆の声を上げながら、その成長と努力の結晶に目を向けていた。
「それでは次、ザックス君」
「やっと俺の番か、目にもの見せてやる」
『スペルエンゲージ:タイプアサルト「ライトニングビースト」』
ザックスの魔法は群を抜いていた。
彼の魔法陣から召喚されたのは、雷を纏った巨大な獣。その体躯は稲妻によって構築され、顎を開けると同時に轟音を伴う咆哮が空気を震わせる。電撃を纏いながら標的へと跳躍し、怒涛の衝撃を伴って撃ち砕いた様は、まさに暴嵐の具現だった。
その一撃に、教師は思わず言葉を失い、見開いた目に息を詰まらせていた。
続いて呼ばれたのはジーナだった。
彼女の魔法が放たれた魔法はまるで命を宿したように煌めき、鋭さと美しさを兼ね備えた閃光となって標的を正確に貫いた。まるで綿密に構成された計算式が雷光として表現されたかのように、洗練された完成度を見せつける。
「最後にザイアス君、いけるかね」
「はい、よろしくお願いします」
彼は静かに席を立ち、沈黙の中を一歩ずつ前へと進み出る。その歩みに迷いはなく、視線は真っすぐに標的を見据えていた。深く息を吸い込み、腕を上げ指輪に魔力を込める。
『スペルエンゲージ:タイプアサルト「ショックヴォルト」』
次の瞬間、空間を裂いて放たれた一撃は、派手さこそないものの、研ぎ澄まされた精度で標的の中央を寸分違わず貫いた。
派手な演出も複雑な技巧もない。だが、静かに打ち込まれたその一撃には、確かな制御と意志の強さが込められていた。
試験官である教師は目を細め、やがて静かに手を叩いた。言葉では語らずとも、その拍手には深い理解と賞賛の意がこもっていた。
(授業の最初に見せたのが防御魔法だったのもあって、成長したと思われてるな)
こうして、すべての生徒たちが実技を終え、雷属性授業の最終試験は滞りなく幕を閉じた。
これをもって属性選択授業はすべて終了となり、試験の緊張から解き放たれた学園には、待ち望まれた夏休みの気配が、ゆっくりと、しかし確かに訪れ始めていた。
「明日から夏休みだな。今年は遊ぶぜ! 二人は実家に帰るのか?」
ヴァイルの声は、まるで封印が解かれたかのように弾んでいた。
それもそのはず、去年の夏休みは特訓に明け暮れ、遊びらしい遊びは一切できなかった。毎日が修練の連続だったが、その成果は明確で、彼は今や実技試験でも堂々と結果を残せる実力者となっていた。厳しい夏だったが、それゆえに感謝の念も深い。
「冬に帰っているから、今回は帰らないつもりよ。宿題も多いし、やらないといけないから。でもヴァイルは……なんでもないわ」
クレアは少し眉をひそめながらも、事務的な口調で答えた。ザイアスも同様帰るつもりはない事を伝える。
「おいおい、嫌なこと思い出させるなよ。せっかく忘れてたのに」
うなだれるヴァイルに、視線が鋭く向けられる。
「毎回ギリギリになってから焦るのはやめなさいって、前から言ってるでしょ」
説教の気配を察したザイアスは、さりげなく話題を変えるように言葉を差し込んだ。
「まぁ、前半に宿題を片付けて、後半は目いっぱい遊べばいいんじゃないか? みんなで一緒にやれば早いし」
その言葉にヴァイルはぱっと顔を上げ、笑みを浮かべた。
「そりゃあいいな! 魔法の特訓もしたいし、みんなでやれば楽しいな!」
「ええ、効率的だと思うわ」
こうして三人は、夏休みが始まるとすぐに集まり、午前中は宿題に集中し、午後は魔法の訓練に励むという規則正しい日課を築き上げた。
この夏、ザイアスはふたりに支援魔法――とくに防御魔法の習得を目標として掲げていた。
三人とも回復魔法の適性を持っておらず、戦闘中に負傷した際の回復手段が限られている。ポーションの携帯はするものの、その効果は小回復程度に留まり、即応性に欠けるためそもそもダメージを受けないようにするのが重要だった。遺跡探索においては、防御魔法を的確に使えることが生存率を大きく左右する。
ただ、学園で教えられる防御魔法はあくまで基礎の初級展開に過ぎず、実践的な運用方法や応用技術に関してはほとんど指導されていなかった。
ザイアスは、学園では教わらない部分を独自に工夫しながら、ふたりの訓練を導いていた。
そして、夏休みが始まってから二週間が経ったある日――
「なぁザイアス、今年改修されたプール行こうぜ! 新しい施設でめっちゃすごいらしいぞ!」
訓練後の汗をぬぐいながら、ヴァイルが楽しげに提案した。
普段は宿題と魔法の訓練以外、研究室で本を読みふけっているザイアスも、さすがに少し気分転換が必要だと感じ、珍しくその誘いに頷いた。もちろんクレアも誘い、三人で出かけることになった。
プール施設に到着すると、目の前に広がる光景に三人は思わず足を止めた。
魔法学園内とは思えないほどの豪華な設備――水流が自動で調整される流れるプール、魔法の制御によって速度を変えられるウォータースライダー、さらには岩盤浴にスパまで併設されていた。
テンションが最高潮に達したヴァイルは、着替えるのも忘れて服のままスライダーへと突撃しようとした。
が、その肩をクレアががっしりと掴み、無言で引き戻す。
「……せめて着替えなさい」
冷ややかな声にようやく我に返り、三人はそれぞれ更衣室へと向かった。
着替えを終えて再集合したとき、クレアは少しだけそわそわした様子を見せながら、ザイアスの前に立った。
彼女が選んだのは、落ち着いた色合いのビキニ。計算されたデザインが彼女のスタイルを際立たせており、長く伸びた脚や引き締まった腰のラインが自然と目を引いた。
「ど、どう……かしら……?」
ザイアスは一瞬息を詰まらせたが、すぐに顔を逸らしながら小さく答えた。
「……まぁ、いいんじゃないか」
その反応にクレアは一瞬ムッとしつつも、頬にうっすら赤みが差していた。気の利いた返しを期待していたが、まっすぐ見つめられて照れた様子を見せられたことで、内心では満更でもない様子だった。
そんな微妙な空気を察することもなく、ヴァイルが大声で叫んだ。
「早くスライダー行こうぜ!」
クレアの眉がぴくりと動いた。
次の瞬間、軽やかに跳ねるように身体をひねると、ヴァイルの脇腹に鋭い蹴りが叩き込まれる。
「ぐっ!? な、なんで?」
痛みにうずくまりながらも、ヴァイルは蹴られた理由がまったくわかっていない。
ザイアスはそんな彼の肩にそっと手を置き、何も言わずに首を横に振った。
「……?」
困惑した表情のまま、彼はしばらく蹴られた意味を考えていたが、答えに辿り着く様子はなかった。
その横を、顔を赤く染めたクレアが無言で通り過ぎ、スライダーへと駆けていく。残されたふたりも、少しだけ呆れながら、彼女の後を追って歩き出した。
スライダーをひとしきり楽しんだ三人はクレアの希望で岩盤浴に向かっていた途中で、システィーナとその友人の姿を見つけた。
彼女の隣にいた少女は肩に届くほどの鮮やかな青髪と、小柄ながらも活発な雰囲気を纏った少女で、その動きはどこか子猫のように自由奔放だった。
「君も来ていたのね」
システィーナがザイアスに気づき、やや静かな口調で声をかける。
その後ろから、勢いよく少女が顔を覗かせた。
「なになに知り合い? 私の名前はリズ、よろしくね!」
そう言うやいなや、彼女は無邪気に両手を差し出して三人それぞれに握手を求める。その奔放さに、システィーナがやれやれと肩をすくめながらたしなめる。
「ザイアスが困ってる」
「えへへ、ごめーん。でも、こういう時は仲良くするのが一番だと思ってさ!」
まったく悪びれた様子もないリズの笑顔に、ヴァイルが小さく笑いながら「元気な子だな」と呟いた。
「システィーナも来ていたのか。てっきり、こういう場所は苦手かと思っていたよ」
ザイアスがそう言うと、システィーナはわずかに目を伏せる。
「この子に無理やり引っ張られてね。君の言う通りこのような場所は苦手だからそろそろ行くね」
それだけ言うと、軽く頭を下げる。
「じゃあ」
彼女が去ろうとした瞬間、リズが明るく手を振って一言。
「また今度ゆっくり話そうね!」
その屈託のない声に背中を押されるようにして、ふたりはプールの奥へと歩いていった。
(あのリズって子も、相当強いな。いや、強いというより、洗練されている。間違いなく手練れだ)
ザイアスの視線は、一瞬だけ彼女の背中を追っていた。
「やっぱりザイアスも、システィーナみたいな女の子がタイプなのかしら?」
どこか刺々しい声音で、クレアが不機嫌そうにザイアスを見つめている。
「い、いや、そういうわけじゃないよ。ただ……あのリズって子が少し気になっただけでさ」
「ふぅん。つまりザイアスは、明るくて元気な女の子に惹かれると」
静かに畳みかけるようなクレアの追撃に、ザイアスは居心地悪そうに視線を逸らした。
「おいおい、それよりいつの間にシスティーナ嬢と知り合ってたんだよ。紹介しろって!」
ヴァイルが割って入るように声を上げる。
「たまたまだよ。ただ廊下ですれ違ったときに、ちょっとだけ世間話をしただけだから」
そう弁解するザイアスに対し、二人の視線はどこか疑わしげだったが、それ以上深く追及することはなかった。空気が和らいだのを見て、三人はそのまま岩盤浴へと向かっていった。
岩盤に背をつけたまま、顔だけを横に向けて声を漏らした。
「無理、俺もう無理……!」
だらしない声をあげているのはザイアスである。
額から流れる汗は止まる気配もなく、横ではヴァイルが同じようにぐったりしている。
「なあ、クレア……まだか? 限界なんだが」
「はぁ? まだ十三分しか経ってないじゃない。もう少し粘りなさいよ」
岩盤浴の空間は魔道具によって湿度と温度が一定に保たれており、整った設備の中でじわじわと体温が上がっていく感覚は、疲労回復には効果的――らしい。
だが、汗が止まらず思考まで曇ってきたザイアスにとっては、修行以外の何ものでもなかった。
「もう無理だ……オレたちは先に出る! 生きて帰ってこいよ!」
「本当に男って大袈裟ね」
まるで戦場からの撤退のような勢いで、ザイアスとヴァイルは扉の向こうへと消えていった。




