第二十三話
グリモアとの訓練は、それから数ヶ月にも及んだ。
その内容は過酷を極めた。単なる魔力量の強化や魔法の精度向上に留まらず、ネメシズ教団が得意とする特殊な魔法に対する対策まで網羅されていた。――彼らが用いる邪悪で理不尽な魔法にどう抗うか。その理論と実践を、幾度となく叩き込まれた。
さらに、魔剣に酷似した形状と性質を持つ武器を、鍛冶屋の親方に依頼して製作。模造されたその剣を用いて、実戦形式の対抗訓練も行われた。模擬とは名ばかりの死線の連続。刃が掠めるたびに、命の軽さと魔剣の異質さを嫌というほど思い知らされた。
何度か――本当に死にかけた。
その度に、グリモアとは激しい口論となった。だが、それもまた必要な衝突だった。生きるために、守るために、互いが本気でぶつかり合わねばならなかったのだ。
やがて、グリモアが急用で少しの間だが学園を離れることとなり、訓練は一時中断されることとなった。
それでも――ザイアスは立ち止まらなかった。
今の自分にできることは何か。己に問い続けながら、彼はグリモアの研究室に籠もり、知識の海へと没頭していった。魔法理論書、古代文献、戦術解析、さらにはネメシズ教団の記録に至るまで、貪るように読み漁った。ページを捲る指先には疲労が滲んでも、その眼差しに曇りはなかった。
力だけでは届かないものがあると知った今、彼は心からそう思っていた。
――知らなければ、守れない。知らなければ、抗えない。
そうして季節は流れ、学園にはやがて冬の気配が忍び寄っていた。
冬の気配が静かに学園を包み込み、デルタニア魔法学園は冬休みに突入していた。生徒たちはそれぞれの帰路につき、ある者は実家へと向かい、またある者は学園に残って自主訓練や読書に勤しむ。雪が積もる中庭を横目に、校舎はいつもより静まり返っている。
「毎日毎日、本なんか読んでよく飽きねぇな」
グリモアが管理する実験場。吐く息が白くなる寒空の下、ヴァイルは付与魔法を展開し、持続時間の向上を目指して魔力を練り続けていた。そのすぐ隣では、ザイアスが分厚い魔導書を開き、静かに視線を這わせている。
「魔法ってのは、魔力と知識で成り立つものなんだ。魔力量を鍛えるのと同じくらい、知識を蓄えるのも大切だぞ」
ページをめくる手を止めぬまま、淡々と返す。
ふと視線を横に向けると、ヴァイルの魔力の流れに乱れを見つけ、言葉を続けた。
「それより魔力が乱れてるぞ」
その指摘と同時に、ヴァイルの全身を覆っていた土魔法の装甲が霧のように解けて霧散した。
「くそっ!」
眉を歪め、悔しげに歯噛みする。魔力の調整が未だ甘く、長時間維持するには至っていない。だがヴァイルは負けじと再び魔力を集中させ、懲りもせず装甲魔法を再展開する。何度崩れても、立ち上がる姿勢だけは揺るがない。
「それにしてもさ」
訓練の合間に息を吐きながらヴァイルがふと呟いた。
「付与魔法って、授業で軽く触れただけだったよな。結局、ちゃんと教わる機会なかったし……二年になったら、やっと本格的に学ぶのかな?」
「応用は二年になってから教えると言っていたな」
そう言いながら、ザイアスは無意識のうちに眉根を寄せていた。
この学園に来て一年近くが経とうとしていたが、授業内容に対する違和感は拭えなかった。確かに彼の母は、並外れた知識と技量を誇る人物だった。だが、決して“教育”という意味での教えが特別高度だったわけではない。それでも、ここで受ける授業との差は歴然としていた。
――このまま二年になって応用を学んだとして、三年からはギルドの依頼でダンジョンに潜ると言っていた。本当に大丈夫なのだろうか。
不安の余韻が脳裏に残る中、突如として校内に放送が響き渡った。
『えーっと、あーあー、繋がってますかね?』
どこか幼さを感じさせる高い声。しかし、校内放送を使えるのは教師に限られている。声色に惑わされそうになるが、話しているのはれっきとした成人女性――らしい。
「なんだこの可愛い声は!」
「この声、どこかで聞いたことあるような……」
『ダルタクスのザイアスちゃーん、今すぐ教員室まで来てくださーい』
その間の抜けた呼びかけに、訓練を続けていたヴァイルが肩を揺らして笑った。
「呼ばれてるぜ、“ザイアスちゃん”」
その揶揄に思わずため息をつき、ザイアスは本を閉じて立ち上がった。ゆっくりと足を運び、教員室にたどり着くと、扉の前にはあの銀髪の女、グリモアが腕を組んで待っていた。
「遅いぞ。放送で呼ばれたらすぐ来い」
「あの放送、まさかお前が……」
「バカ言え。私があんな幼女みたいな声を出せるわけないだろ」
言うが早いか、グリモアは先ほどの放送を真似てみせた。あまりの再現度の低さに思わず「気持ち悪い」と口にしそうになるが、それを言った後の展開が容易に想像できたため、なんとか飲み込んだ。
二人は言葉少なに歩を進め、非常勤講師が利用する研究室へと足を運んだ。
「お前を呼んだのは他でもない。遺跡内部での件だ」
その名を聞いた瞬間、ザイアスの中で何かがはじけた。
「何か分かったのか!?」
抑えきれぬ衝動に声を荒げる。グリモアはそれを制すように、静かに紅茶を差し出しながら促した。
「まぁ、落ち着け。ちゃんと説明する」
湯気の立つカップを一口啜ると、グリモアの声が少し低くなった。
「まず、遺跡に侵入してお前らを襲ったのは、ネメシズ教団の幹部であることがわかった。その女は第二司教と呼ばいるらしい」
重く沈んだその言葉に、ザイアスは無言のまま目を細めた。瞳の奥に宿る光が、何かを探るように揺らめいている。
「第二司教……一体誰が手引きしてるんだ?」
低く絞り出すような問い。鋼のような声音には、怒りとも疑念ともつかぬ鋭さが滲んでいた。
グリモアは一瞬躊躇するように視線を伏せ、やがて静かに答える。
「教師の中に、一人怪しい者がいる。現在、行動を監視中だ」
教師――その言葉が胸に落ちた瞬間、ザイアスの鼓動がわずかに速まった。だが、それだけではない。脳裏には別の可能性も過った。
誰がグランドールの封印を解こうとしているのか。誰が、厳重な結界をすり抜け、ネメシズ教団をこの学園へと導いたのか。思考を巡らせても、核心は見えてこない。ただ、確かに“それ”はいる。仄暗い気配が、身の周囲に忍び寄っているのを、彼は直感で感じていた。
「生徒の中に……教団の者が潜んでいる可能性もあるということか」
呟くように問いかけると、グリモアは苦々しく頷いた。
「考えたくはないが……否定はできない。ちなみに、これが怪しい人物をピックアップしたリストだ」
差し出された一枚の羊皮紙を手に取ると、ザイアスの目が鋭く見開かれた。記された名前の一つ一つが、信じがたい現実を突きつけてくる。
「まさか……いや、誰が教団の一員でもおかしくはないのか」
「リストはあくまで、疑わしい者を絞ったにすぎん。だが、気をつけろザイアス。思った以上に、事態は深刻だ」
その言葉に深く頷くと、ザイアスは無言で椅子から立ち上がった。背中に緊張と冷気をまといながら、足音を響かせて研究室を出ていく。廊下に漂う冷えた空気が、思考の深淵に拍車をかけていた。
――第二司教。あいつはいずれ、必ず俺の前に現れる。その時は……絶対に捕らえる。そして、知っていることをすべて吐かせる。
闇はすでに、学園の内側にまで侵食しているのかもしれない。
その疑念を胸に、再びヴァイルのもとへと足を向けた。