第十九話
夏の暑さもようやく和らぎ、風にほんの少しだけ秋の気配が混じり始めた頃。デルタニア魔法学園では、夏休み明け最初にして最大の行事とも言える"強化合宿訓練"が一ヶ月後に始まろうとしていた。
この訓練は、寮の垣根を超えてランダムに選ばれた五人一組の班で構成され、学園が管理する広大な森にて、指定された魔獣の討伐任務を遂行するというものだった。討伐対象は班ごとに異なり、ある者たちは沼地に棲む魔獣を、またある者たちは谷底に潜む獰猛な存在と対峙する。まるで実際のギルド依頼を再現するかのような内容は、学生たちにとって大きな試練であり、成長の機会でもあった。
その訓練は一泊二日で行われ、即席で編成された仲間と共に魔獣と対峙するという点で、卒業後に待ち受ける現実を肌で感じさせるものだった。経験も性格も異なる者同士で協力し、限られた時間と資源の中で任務を達成しなければならない。緊張感と興奮が入り混じる中、今年の訓練の班分けが発表されると、ザイアスは驚きと共にほのかな安堵を覚えた。偶然にも、クレアと同じ班になったからである。
その知らせを聞いたとき、ヴァイルはあからさまに肩を落とし、珍しくしばらく不機嫌な沈黙を貫いていたが、ザイアスがご機嫌取りとして差し出した焼きたてのアップルパイに頬をほころばせると、ようやく口を開いた。
「ザイアスの班って、他に誰がいるんだ?」
手にしたパイを一口かじりながら、機嫌を取り戻した様子で問いかけてくる。
「アルカルトス寮のニュートとクライル、それにバリスティ寮のコレットだな。正直、名前だけじゃピンとこないよ」
そう答えながら、全く知らない面々との討伐訓練――緊張よりも好奇心が勝っていた。
「コレットって、あのバリスティ寮の中でもかなりの実力者って噂の奴だろ?」
目を輝かせるようにしてヴァイルが口を挟む。
「でも、魔法大会には出てなかったよな」
もしも本当にそこまでの実力を持つ者ならば、個人戦に出場していてもおかしくないはずだという疑問が浮かぶ。
「その日は家の用事で休んでたって聞いたぞ。出場していれば、勝敗も違っていたかもしれないな」
そう言って肩をすくめるヴァイルの顔には、どこか羨望の色が浮かんでいた。と、その時、清涼な声が背後から響く。
「一人だけ美味しそうなもの食べいてるじゃない」
そう言って現れたのは、クレアだった。髪を軽く結い、制服の袖を少しだけまくり上げたその姿はいつもと少し違い、思わず見入ってしまう。彼女はレイダーと共にクラス委員を任されており、教員たちからの信頼も厚い。その責任感の強さは、彼女の立ち居振る舞いにも自然と表れていた。
「一人だけ除け者にされたから、ザイアスが慰めてくれてるんだよ。クラス委員の仕事はもう終わったのか?」
そう言いながら、ヴァイルはパイを持ったまま軽口を叩く。クレアはわずかに目を細めながら答える。
「まだよ。最後の仕事が残ってるからここへ来たのよ」
その答えを聞いた途端、ヴァイルは何かをひらめいたようにクレアの背後を指差し、大声を上げた。
「あっ、剣聖シリウス様だ!」
即座にクレアが反応し、勢いよく振り返る。けれど、そこには誰の姿もなかった。急いで視線を戻すと、そこにはもうヴァイルの姿はなかった。テーブルの上には、無残にも途中で放棄されたアップルパイがぽつんと残されているだけ。
「ちょっと! 宿題を提出していないの、あなただけなのよ。回収出来なかったら私が先生に怒られるじゃない!」
叫びながら、クレアは食堂の出口へと駆け出していく。彼女の怒りに満ちた足音が遠ざかっていくのを聞きながら、ザイアスは思わず肩を震わせ、微かに笑みを浮かべた。
「ヴァイル、観念しろ。逃げ切れるわけがないだろう」
そういうとザイアスは皿に残されたアップルパイを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。
賑やかな日常が戻ってきたことを実感する。
強化合宿訓練の当日。
ザイアスは夜明け前に目を覚ました。眠気の残る静けさの中、寮の裏手にある小さな庭へ足を運び、ベンチに腰を下ろす。片手には香り立つコーヒー、もう片手には読みかけの一冊。ページをめくる指先に、柔らかな朝の空気が触れた。誰もいないこの場所は、彼にとってまるで世界から切り離された静謐な空間だった。
だがその静けさは、控えめな金属音と共に破られた。
顔を上げると、そこに立っていたのはクレアだった。ジョウロを取り落とした彼女は、目を丸くしてザイアスを見ていた。
「ごめんなさい……いつも人なんていないから驚いちゃったわ。こんなところにいるなんて、珍しいわね」
その声音には安堵と、わずかな照れが滲んでいた。しゃがんでジョウロを拾い上げると、彼女は井戸のもとへ向かい、水を汲み始める。
「昨日早く寝たせいで、今朝はずいぶん早く目が覚めたんだ。クレアも随分早起きだな、毎朝ここで水やりを?」
「ええ。この寮に来たとき、ここの庭は雑草だらけでね。味気ないなって思って……それで先生に頼んで、花の苗を植えさせてもらったの」
そう言ってジョウロに水を注ぐ姿は、どこか慈しみに満ちていた。水魔法を使えば一瞬で済むものを、あえて手作業で行うその様子に、ザイアスは静かに目を細めた。言葉にせずとも伝わるものがある――彼女は、花を心から大切にしているのだ。
「いよいよ今日から強化合宿訓練ね。頑張りましょう」
朝日に照らされて笑うクレアの表情は、植えられたどの花よりも鮮やかだった。その眩しさに一瞬言葉を失い、思わず見惚れてしまう。
「……ザイアス?」
その一言で我に返ると、彼は小さく頷いて立ち上がり、照れ臭そうにその場を後にし自室へと戻った。
訓練は現地集合となっており、あらかじめ指定されていた転移陣を使って森の入り口へと転移する。空間を抜ける眩い光が消えると、辺りには鬱蒼とした森が広がっていた。そこには既に、クレアを含めザイアスと同じ班となった仲間たちが揃っていた。
全員揃ったことを確認すると一人の少女が自己紹介を始める。
「私はバリスティ寮のコレット! 適性は水でランクはA、よろしく!」
肩まで伸びた栗色の髪を揺らし、元気いっぱいに挨拶する少女。バリスティ寮の中でも高い実力を持つと噂の人物だ。
「俺はアルカルトスのニュート。土属性でランクはB。そして、こいつがクライルだ」
その横にいた少年が軽く手を挙げる。
「ニュートと同じ寮で適性は雷、ランクはCだよ。よろしくね」
クライルの柔らかい笑みは、対照的に荒々しさを纏ったニュートの隣で、不思議な安定感を放っていた。
「ダルタクス寮のクレアよ。風属性、ランクはB。よろしくお願いするわ」
今日は訓練ということもあり、彼女はいつもより高い位置で髪を結んでいた。清潔感と力強さを併せ持つその姿に、ザイアスは自然と感心する。
「同じくダルタクス寮のザイアス、Eランクだ」
短く名乗ると、ニュートが満面の笑みを浮かべながら背中を力強く叩いてきた。
「お前さんが、あのEランクか。よろしくな!」
思わず身体が前につんのめるほどの衝撃。クレアがすぐさま眉をひそめて止めに入ると、ニュートは素直に笑って手を挙げて謝った。
「この班のリーダーは、一番ランクが高い私が務めさせてもらうわね。異論はある?認めないけど」
コレットの宣言に、誰も異を唱える者はいなかった。それぞれが無言で頷く中、前に出てきたのは一人の教員――アルカルトス寮の担任であるライオネル先生だった。
「静粛に」
鋭い眼光が放たれた瞬間、その場の空気が一変する。全員が自然と背筋を伸ばした。
「まず、今回の合宿内容についてはすでに担任から聞いていると思いますので割愛します。今から言うルールを必ず守ってください。二度は言いませんよ? 今から言うルールを必ず守ってください」
1. 生徒間での戦闘は禁止
2. 緊急時は各班に配布された笛を吹くこと。巡回している教員が駆けつけます
3. 魔法で無闇に森を破壊しないこと
「以上です。質問は受け付けません。各班の代表は前に出て、討伐対象の魔獣が記されたクジを引いてください。引いた後は支給品を受け取り出発準備に移るように。では――健闘を祈る」
コレットが前へ進み、くじを引いて戻ってくる。手には引いたクジと、備品の入った革袋。中を確認しながら、彼女は地図を広げ、指先で地点を示す。
「今回の討伐対象は三体。湿地帯に生息するゴレイヌセンチピード、湖に生息するフリッピーフライ、そして森林地帯のポップコンガよ」
「よっしゃあ、行こうぜ!」
ニュートの勢いに押されるようにして、全員が立ち上がる。




