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序章 後編

黒曜石で築かれたその城は、まるで闇がそのまま凝縮されたように鈍い光を吸い込み、冷たい威圧感を放っている。月明かりが差し込むも、そのわずかな光さえ歪ませるほど、異質な陰影が城の姿を彩っていた。


空気は湿り気を帯び、肌にまとわりつくような重さがある。リュウは深く息を吸い込み、静かに歩を進めた。


――この手で、すべてを終わらせるために。


「ここを通りたくば、我らを倒すことだな」


突如として、静寂を裂くように低く威圧的な声が城門前に響いた。

リュウが視線を向けると、そこには漆黒の鎧を纏った人ならざる者たちが整然と並び立っていた。数にして十数体。すべてが獣のような眼光を放ち、迷いなく彼を敵と定めている。


空気が軋み、魔力の渦が蠢く。それはただの気配ではなく、圧倒的な質量を伴って彼に襲いかかった。


しかし――リュウはわずかに口元を吊り上げ、指を軽く鳴らす。


「お決まりのパターンか、面白い」


瞬間、魔族たちの体に異変が走った。

呻き声とともに膝をつき、全身を震わせながら苦悶の表情を浮かべる。


「ぐっ……!? 体が動かない……!」


立ち上がろうとする足は震えに屈し、ただ地を掴むばかり。

リュウは彼らの魔力を吸収することなく、大気中へと分解・拡散させていた。

魔力の枯渇――《マナブレイク》。それは、魔族にとって“死”に等しい。


戦うことも、立つことも叶わぬ者たちを一瞥し、彼は迷いなく城門へと足を進めた。


「悪いな。ここで時間を使うつもりはない」


城門を押し開けた先に広がるのは、異様なまでの静寂。

青白い炎が燭台で揺れ、不気味な影が壁を這う。

長き支配の象徴として飾られた古びた紋章が、まるでこの城の意思を代弁しているかのようだった。


この沈黙は偶然ではない――

彼はそう確信しながら、最奥へと進んでいく。

階を登るたびに空気は濃密さを増し、重圧が背中を押さえつける。呼吸すら鈍るほどに。


やがて、重厚な扉の前に辿り着く。

静かに手を添え、ゆっくりと押し開いたその先には――


「……来たか」


玉座に佇む男がいた。漆黒のローブを纏い、血のように赤い瞳を光らせる。

その視線は、まるでリュウの魂を覗き込むように鋭い。


空間そのものが魔王の魔力に支配されていた。

息を呑むほどの威圧感。空気が重く張り詰めている。


「お前が魔王だな」


リュウの声は低く、だが揺るがぬ確信に満ちていた。


「いかにも。貴様……相当な魔法使いのようだな」


魔王はゆるやかに立ち上がり、片手を掲げる。


「どれほどのものか……見せてもらおう」


――その言葉を合図に、魔法陣が足元に展開された。

雷鳴が轟き、無数の雷撃が天井を貫いて彼へと襲いかかる。


「遅いな」


リュウは一歩も動かず、魔法陣の構造を見極めるように静かに見つめた。


「少し系統は違うが、原理は同じか」


彼が指を鳴らすと、魔王の魔法陣は霧散した。

呆然とする魔王の目が見開かれる。


リュウは一歩前へと踏み出し、真っ直ぐに魔王を見据えた。

魔法陣の構造を逆転させ、干渉・重複させて発動そのものを無効化する――

それは、彼が己の肉体に刻みつけた絶技。


「終わりだ」


右手を掲げると同時に、空間が悲鳴を上げた。

轟音と共に金色の炎が爆発し、玉座の間を火の海に変えていく。

灼熱の波動が壁を崩し、魔王の絶叫が空間を引き裂いた。


「ぐぁぁぁ……なんだこの炎は!」


魔王は幾度も魔法を試みるが、そのすべてが打ち消される。

最後の瞬間まで足掻きながら、ついには黒焦げの骸となって崩れ落ちた。


「終わったか……?」


慎重に近づいたリュウは、魔王の亡骸を見下ろした。

だが、何かが引っかかる。

その感覚が確信へと変わるのに、時間はかからなかった。


黒い煙が魔王の骸から立ち昇り、意志を持つかのようにリュウの体内へと流れ込んでいく。


「っ……!? 体が、熱い……!」


魔力が内側から膨張し、理性すら飲み込まれそうになる。

血が沸騰するような感覚。力が暴れ、全身を裂こうとする。


「あいつの魔力が……体に流れ込んでいるのか……なぜ……」


必死に抵抗するも、すでに遅かった。

体が変質を始め、圧倒的な力が彼の存在そのものを書き換えていく。

皮膚の内側から引き裂かれるような苦痛と同時に、膨れ上がる魔力が彼を“別の存在”へと変えていった。


黒き魔力が渦を巻き、荒れ狂う嵐のように城を揺らす。

彼の中で何かが崩れ、そして――目覚める。


「魔王の魔力を持つ人間、差し詰め“魔人”ってところか」


呟く声は静かでありながら、底知れぬ確信と嘲笑が混じっていた。

その力の奔流に飲まれながらも、彼の瞳は冷静だった。


誰にも負ける気がしない。

この力があれば、神すらも討てる。

そう確信できるほど、彼は今や絶対の存在となっていた。


それでも――

リュウの瞳には、深い影が差していた。


それは、最強であるがゆえの孤独。


「さてさて、どうしたものか。一度グリモアの元に帰るか」


ゆっくりと立ち上がった彼の周囲で、黒い魔力が形を変えた。


――爆炎魔法。


その一撃で、魔王城ごと焼き尽くしてしまおう。

もし、この炎が自らを焼けるのなら――それでもいい。


だが、予想通りだった。


「やっぱり、自身には効かないよな」


炎はリュウを害することなく、ただ静かに燃え続けた。


この力は、何を求めているのか。

何を得て、どこへ導こうとしているのか。

答えは、まだ遠い。


それでも、ひとつだけ確かなものがあった。


「探すしかねぇな。……可愛い嫁を」


魔王を討ち、力を得た彼にとって、必要なのはもう剣ではなかった。

嫁。家族。そして、マイホーム。


「修行ばっかりの日々には飽き飽きしてたんだ。異世界生活を楽しむとするか」


そう心に決めて、リュウは燃え落ちる魔王城を背に、静かに歩き出した。


ギース639年――


村から少し離れた森の奥。深い緑に抱かれた静寂の地に、リュウの家は建っていた。


かつて幾多の戦いをくぐり抜け、旅に明け暮れた日々は過ぎ去り、今ではこの穏やかな暮らしこそが、リュウにとってすべてとなっていた。


ロンズ村――かつてミリアムが育ち、そして愛したこの地へ帰ってきたのは、もはや二人で旅を続ける理由がなくなったからだ。そして何よりも、ここにはリュウが命を懸けて守りたい存在がいる。


今、彼の腕には村人たちと共に収穫したロンベルの果実がたっぷりと詰められた籠が抱えられている。本来なら、これを取りに来るのはミリアムの役目だった。だが、今の彼女には新たな命が宿っている。


あの日、夢見ていた何気ない幸せの日々――それがこうして現実になろうとは、かつての彼には想像もできなかった。

生まれてくる子のために、この村の平和を守り抜くと、彼は心の奥深くで固く誓っていた。


収穫を終えて家へ戻ると、あたたかな香りがリュウを迎えた。

木製のテーブルの上には、彼の大好物であるグルーラルクのローストが並べられていた。


皮は黄金に輝き、肉汁が溢れ出し、森の香草をふんだんに用いて炭火でじっくりと焼き上げられたその肉は、芳醇な香りを放ちながら食欲を誘う。


ナイフを入れれば、皮が心地よい音を立てて割れ、中からは柔らかくジューシーな肉が顔を覗かせた。

口に運べば、表面の香ばしさと中のしっとりした食感が絶妙に調和し、豚と鶏の中間のような柔らかさのなかに、牛肉のような濃厚な旨味が広がっていく。


炭火の香りが肉のコクを引き立て、添えられた焼きロンベルの甘みがそれに寄り添う。果実の酸味が脂を引き締め、全体のバランスを完璧なものにしていた。


「村長がな、収穫の最中に転んじまって泥まみれになったんだ」


リュウは微笑を浮かべながら、今日の出来事をミリアムに語った。


「また? お父さんも昔みたいに若くないんだから、無理しちゃダメなのに」


呆れつつも笑みを浮かべるミリアムの姿に、リュウの頬は自然と緩む。

こんな何気ないやり取りが、何よりも愛おしかった。

これこそが、彼が求めていた幸福だったのだ。


だが――その幸福は、唐突に壊された。


「リュウ、逃げて!」


ミリアムの悲鳴が、部屋に響き渡った。


同時に、空間が不自然に歪んだ。

揺らぎの中に亀裂が走り、異質な魔力が膨張していく。


――遅かった。


リュウの身体は、すでに結界に囚われていた。

黒い鎖のような魔力が四肢を絡め取り、動きを封じる。

咄嗟に魔力の流れを逆探知し、術者の居場所を探る。


「くそ……この建物、デルタニア学園か……」


そして、部屋中に低く響く声が満ちた。


『見つけたぞ魔王、お前を封印する』


それは単なる音ではない。空間そのものが震え、魂の奥底へと直接叩きつけられるような、圧倒的な“意志”だった。


足元から暗黒の光が噴き上がり、リュウの身体を包み込む。

視界が黒く染まり、世界の輪郭がぼやけていく。


彼は抗おうと魔力を解放しかけた。だが、手応えはなかった。

力が、まるで根こそぎ吸い取られるかのように消えていく。


(――ミリアム……)


伸ばした手は虚空を掴み、指先は空を切る。


「ごめん、すぐ戻るよ。それまでザイアスを頼んだ」


「リュウ!」


最後に目に映ったのは、涙を浮かべながら手を伸ばしてくるミリアムの姿だった。


暗黒の魔力が全てを覆い尽くし、リュウの意識は闇へと沈んでいった。


だが、その瞬間――

彼の魔力は、まるで意志を持ったかのようにある存在へと流れ込んでいった。


生まれくる子、ザイアスの中へと。

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