第十五話
少し進んだ先で、ザイアスの眉がわずかに動いた。周囲の魔力の流れが微かに乱れたのを、鋭敏に察知したのだ。
「感知魔法か、こちらの位置を探ってきたな」
そう呟いた彼は、すぐさま同様の感知魔法を放ち、魔力の痕跡を辿る。
「ザイアス、どうしたの?」
クレアの問いかけに、彼は視線を前に向けたまま答える。
「誰かが感知魔法を使って、俺たちの位置を探ってきた。これは……明らかに意図的だ」
「生徒同士の感知なんて意味ないよな。戦闘は禁止されてんのに」
ヴァイルが呆れたように眉をひそめる。実際、この競技において感知魔法で他の班の動向を探ることは、戦術的に見てもほとんど意味をなさない行為だ。
「エンカウントを避けたいって意図かもしれないけど……何か引っかかるわね」
「なんで俺たちだって分かったんだ?」
ヴァイルの問いに、ザイアスは静かに応じた。
「感知された瞬間に、俺も相手を逆探知した。相手は――ザルバだ」
「ザルバ!? ありえない、今回の競技には参加していないはずよ」
「だが、向かってきている。明確な意志をもって」
「ちっ、やっぱりザイアスを狙ってやがったか」
状況の異常さに、三人は即座にその場からの撤退を決断した。狭い通路を駆け抜けるように、息を切らせながら走る。すると、視界の先にぽっかりと開けた空間が現れ、その中央には淡く光を放つ転移陣が浮かんでいた。
「最深部へ繋がるやつだよな? 行こうぜ!」
ヴァイルが躊躇なく陣に飛び乗り、転移陣に魔力を流し込む。転移陣が即座に活性化し、幾何学的な光紋が浮かび上がっていく。
「ちょ、ちょっと待ちなさい! もう少し様子を――!」
クレアが慌てて制止の声を上げたが、時すでに遅かった。眩い光が足元から立ち昇り始めている。
「まったく」
ザイアスは溜息混じりに呟くと、咄嗟にクレアの腕を掴み、彼女を引き寄せるようにして転移陣の中心に飛び込んだ。
次の瞬間――
視界が一面の白に包まれ、世界が裏返るような感覚に身体が引き込まれていく。
転移した先は、先ほどまでとはまるで異なる空間だった。湿り気を帯びた空気が肌を撫で、耳をつんざくような静寂が辺りを支配している。空間そのものが重く、息を吸うたびに微かな違和感を覚える。
「ここ、なんかおかしくないか?」
ヴァイルが眉をひそめ、周囲を警戒するように目を走らせた。
「あなたはどうしていつも、後先考えずに突っ走るのよ」
クレアが呆れ混じりの声で詰め寄ると、ヴァイルは肩をすぼめ、手のひらを合わせて申し訳なさそうな顔を浮かべる。
「この先に強い魔力の反応を感じる。気をつけて進もう」
ザイアスは周囲の魔力の揺らぎに意識を集中させながら、一歩一歩慎重に足を進めた。
やがて、奥に巨大な扉が立ちはだかった。身長の三倍以上はあるだろうその扉は、黒鉄のように重々しく、だが不思議と威圧感というよりも「誘い」の気配を纏っていた。
「この扉のせいで上手く感知ができないが、この先に何かがいる」
ザイアスが扉に手を添える。すると、ギギ……と鈍い音を立てながら、その重厚な扉はひとりでに動き出した。
まるで彼らを歓迎するかのように――静かに、ゆっくりと、開いていく。
「おいおい……何だよ、あの魔獣は」
「う、うそ……ブラックリザードマン!?」
扉の先で三人を待ち構えていたのは、黒金の鱗を纏った獣――A級指定魔獣ブラックリザードマンだった。
その魔獣は、カルデナス大監獄を囲む山脈に生息している。鋭敏な動きに加え、全身が“ブラックメタル”と呼ばれる鉱石に覆われており、生半可な攻撃では傷ひとつ与えられない。その異質な風貌に、空間そのものが圧迫されるような錯覚すら覚える。
咆哮と共に魔獣が動いた。音を置き去りにして一気に距離を詰める。ザイアスは即座に盾を構え、その一撃を正面から受け止めた。
だが――
「ぐっ……!」
盾は瞬時に砕け、鉄片が四散する。それでも彼は一歩も退かず、残された力で二人を庇うように身を張った。
「二人はとにかく離れるんだ。俺が……なんとかする」
その言葉にクレアが反応するより早く、暗闇の奥から不意に声が響いた。
「おいおい、“Eランク”のお前に何ができるっていうんだ?」
視線を向けると、岩陰からひとりの男が姿を現す。ザルバだった。
「ザルバ、なんでお前がここに」
「ヴァイルか……。お前ら二人に用はない、“コイツ”と遊んでろ」
ザルバはそう言って、ポケットから小瓶を取り出すと、無造作にヴァイルの足元へと放り投げた。ガラスが砕けると同時に、黒い靄が噴き出し、魔力の塊が渦を巻く。その中心から現れたのは、ハイオークだった。
「おいおい……どうやって魔獣を召喚したんだよ」
「やるしかなさそうね。ヴァイル、やるわよ」
クレアが詠唱に入る。靴の裏に風が絡みつき、彼女の身体が空気を滑るように加速する。
『スペルエンゲージ:タイプエンチャント「エアーステップ」』
その身は疾風となり、死角から回り込んでいく。ヴァイルは一歩前へと踏み込み、剣を振り下ろすように構えながら詠唱を放つ。
『スペルエンゲージ:タイプエンチャント「アイアンコート」』
咆哮。ハイオークが振り上げたのは、身の丈を優に超える巨大な斧。その一撃は地を穿ち、石畳を砕きながらヴァイルを狙う。
「ぐっ、何て威力だよ」
重みが骨に響く。それでも彼は耐えた。肩をいからせ、魔法で強化された剣で受け止める。重圧に抗いながら、全身の筋力を解き放つ。
「うおおおっ!!」
気迫と共に斧を弾き返し、地を蹴ると同時に魔力を一点に集中させる。
『スペルエンゲージ:タイプアサルト「ロックショット」』
拳大の岩弾が鋭く放たれ、唸りを上げて魔獣の胴を狙う。だが魔獣は驚異的な反射神経でその攻撃を回避。身を翻すと、再び斧を振り上げた。
そこへクレアの魔法が展開される。風が渦を巻き、敵の動きを縛るように空間ごと絡め取っていく。
『スペルエンゲージ:タイプエンハンス「ウィンドリバインド」』
だが――
「すぐに解けた!?」
拘束は一瞬で破られ、ハイオークの眼光が再び獣のような凶気を帯びて閃いた。そのままクレアへ跳びかかろうとする――その瞬間。
魔獣の動きが、突如として止まる。
「今だ! クレア、合わせてくれ!」
ヴァイルが叫び、足元に力を込めると、地脈から魔力を引き上げるように詠唱を放つ。
「俺の全てを!」
『スペルエンゲージ:タイプアサルト「アースインペイラー」』
同時に、クレアも応じた。風を鋭く巻き上げ、魔力の奔流を加速させる。
『スペルエンゲージ:タイプアサルト「ハウリングバースト」』
大地から突き出した岩槍が魔獣の胸を狙い、そこへ突風が推進力を与えるように絡みつく。風と土が交差する一瞬の奇跡。雷鳴のような轟音が空間を揺らし、魔獣の胸を貫いた。
――ドン。
巨体が崩れ落ちる。地が揺れる。辺りを満たしていた狂気の魔力が、霧が晴れるように薄らいでいく。
ヴァイルはその場に膝をつき、肩で荒く息をつきながら、なおも前方を睨み続けていた。だがその体が突然揺れ、力を失ったようにそのまま倒れ込む。
「ヴァイルっ!」
クレアが駆け寄り、震える手で脈を取る。意識はないが、命に別状はない――それを確認して安堵したのも束の間、彼女の足元が揺れる。視界が歪み、意識が霞む。
限界を超えた魔力消耗――マナブレイク。彼女自身も、もう立っているのがやっとだった。
突如、クレアの背後から轟音が響き渡った。地を揺るがすような咆哮と共に、巨大な火柱が立ち昇る。その中心には、ブラックリザードマンの姿があった。咆哮が炎に飲まれ、金属質の鱗が高熱に軋みながら焼き尽くされていく。
――一撃。
それだけで、あのA級指定魔獣が消滅したのだ。
「ザイアスのあの魔法……凄まじいわね……」
クレアが驚愕と畏敬を滲ませながら呟いた。しかしその声は、震える唇から微かに漏れただけで、誰の耳にも届かなかった。
「お前、今何をした!」
ザルバの叫びが空間を震わせた。
「何って? 燃やしただけさ。あっちが終わったようだし、こちらもそろそろ終わりにしようと思ってね」
ザイアスの声音は冷静だった。だが、その静けさが逆にザルバの神経を逆撫でした。
「E級ごときが……特殊な魔道具でも使いやがったな!」
ザルバは憤然としながら、服の内側に手を伸ばす。そして、先ほどよりも大きな瓶を取り出すと、躊躇なく床に叩きつけた。容器が割れ、噴き出す黒煙。その中から現れたのは――小竜。
人間の4倍はある体躯に、竜種特有の鋼の鱗。Aランクの魔法使いでも、傷ひとつ付けられないといわれておりS級に指定されている魔獣である。
「この学園から出てけよ、Eランクぅぅ!」
ザルバが叫んだ瞬間、ザイアスの詠唱が空間を貫いた。
『スペルエンゲージ:タイプアサルト「ヘリオスバースト」』
燃え上がる魔法陣が小竜の足元に展開され、次の瞬間――爆炎が竜を丸ごと包み込んだ。灼熱の嵐が肉を灼き、骨を焼き、鱗をも溶かす。鳴き声を上げる間もなく、小竜の姿は炎の中で灰となった。
「は……? お前、今、何を……どうして、そんな魔法が使えるんだ」
ザルバは目を見開き、後ずさる。
「えーっと、あれだ……」
不意に視線を逸らしながら、ザイアスが口を開く。語尾が迷い、言葉がたどたどしくなるあたり、あからさまに即興の作り話であることは明白だった。
「この指輪には、魔法が……ストックされてる。三つ、そう……三つストックされてるんだ。だから……次はお前の番だな。焼かれたくなければ、今すぐ立ち去ることだ」
「ザイアスって嘘つくの下手よね」
「あれはすぐバレるだろ」
背後でこそこそとマナポーションを飲みながら話すクレアとヴァイル。だが、幸いなことにザルバにはその嘘が通じていたようだった。
「なんなんだ……お前は、いつもいつも……。Eランクは教室の隅で大人しくしてりゃいいんだよ!」
ザルバは苛立ちに任せ、ポーションの容器を取り出すと、ボソボソと何かを呟きながら蓋を開ける。
「お前が悪いんだ……お前が全部……。まさか、Eランクごときにこれを使うことになるとはな」
「やめろ、それだけは絶対に良くない。何か嫌な感じがするぞ」
「なんだ? 負けるのが怖いのか?」
煽るように笑ったザルバは、黒く濁った液体を一気に飲み干した。
その直後だった。
「くっ……う、ぐ、ああああああああっ……!」
彼はその場に膝をつき、苦悶のうめき声を上げる。肉体が耐えきれず、震え、軋む。だが、そのうちにうめきは狂気の笑いへと変わっていった。
「ふはははは。これは……凄い! 魔力が、ま、ま、ま……まままぁぁぁぁぁ!!」
「おいおい、あれ……大丈夫か?」
「様子がおかしいわ。逃げるわよ!」
クレアの声で、ザイアスも即座に判断する。三人は身を翻し、後方へと距離を取った。
次の瞬間――ザルバの体から奔流のように魔力が溢れ出した。その濃密な魔力は空間を歪ませ、視界を揺らすほどだった。そして、臨界点を超えたその魔力が、一気に暴走を始める。
「二人とも俺の後ろへ」
ザイアスはすぐさま防御魔法を展開。直後、魔力が暴発し、轟音と共に爆風が吹き荒れた。瓦礫が宙を舞い、空気が震える。
「きゃあっ」
「っなんだよこれ」
爆風が収まり、埃が晴れた時――そこには、倒れ伏したザルバの姿があった。体中に裂傷が走り、意識は完全に失われている。
「お、おい。あれ、大丈夫なのかよ」
「今すぐ治療が必要だろう。だけど、俺は初級程度の回復魔法しか使えない」
「私も無理ね。すぐに地上へ運びましょう」
三人が立ち上がり、ザルバのもとへ駆け寄ろうとした――その時。
空間が、わずかに揺れた。
まるで水面を掻き回したように歪んだ空気。その中心から、誰かの“影”が滲み出すようにして姿を現した。
それは、何かを纏っているような異様な気配。見慣れぬローブに身を包み、フードの奥からは表情すら読み取れない。
異常な沈黙が、その場を覆った。