第十話
すべてが終わり、訓練場には静寂が戻っていた。風が吹き抜ける音すらも遠ざかり、先ほどまで鳴り響いていた咆哮も爆炎も、まるで幻だったかのように跡形もなく消えている。
クレアとヴァイルは、目の前で繰り広げられた魔力の奔流に呑まれたまま、言葉を失っていた。身体は鉛のように重く、現実に意識が引き戻されるまでには、しばしの時間が必要だった。
漆黒の魔獣は、何ひとつ痕跡を残さず消え失せ、炎の残光が空間に揺らめいている。地面を這うように立ちのぼる煙の向こうには、焦げた土の熱がまだ微かに残っていた。緊張の糸が空中でふと切れたように、場の空気から張り詰めた気配が薄れていく。
その瞬間、クレアとヴァイルは膝から崩れ落ちた。荒い呼吸を漏らしながら手を地につき、ようやく心と身体が戦いの終わりを理解していく。張り詰めていた精神が緩み、全身を襲う疲労が波のように押し寄せた。
一方、グリモアは素早く教師のもとへと駆け寄る。倒れ伏したその体に触れ、呼吸と脈を的確に確認したあと、目を細めてその顔色と様子を見定める。そして迷うことなく、片手をゆっくりと掲げた。
『スペルエンゲージ:タイプアシストリア「リメディア」』
柔らかな詠唱と共に、掌から放たれた緑の光が穏やかに広がり、倒れていた教師の全身を包み込む。その光は温かく、しかし確かな力を持って皮膚へと染み入り、傷ついた組織を静かに癒していった。
やがて荒れていた皮膚は修復され、乱れていた呼吸も落ち着きを取り戻していく。痛みに歪んでいた顔は、やがて穏やかな眠りのような表情へと変わっていった。
「これで大丈夫だな。当分意識は戻らんが、命に別状はない」
そう呟いたグリモアは、教師の身体をそっと整え、地面に丁寧に横たえる。
続けて、ザルバの元へと向かい、同様の処置を施す。幸いにも大きな怪我はなかったようで、治療は一瞬で済んだ。
その頃、学園長が静かにザイアスたちのもとへと歩みを進めていた。未だ熱のこもる空気の中を一歩一歩、揺るぎのない足取りで進むその姿には、全てを包み込むような威厳が宿っていた。
三人の前で立ち止まった彼の佇まいには、不思議なほどの圧迫感がなかった。むしろそこには、安らぎと安心をもたらす穏やかな力が漂っていた。
「よく戦った」
その一言に込められた重みが、三人の胸へと深く染み渡る。
「恐怖に屈することなく、被害を最小限に抑えたその勇気と行動力は見事だった」
ヴァイルは驚いたように目を丸くし、クレアは頬を赤らめる。褒められることに慣れていない二人は、照れくさそうにしながらも小さく頭を下げた。
その中で、ザイアスは静かに学園長を見据えていた。
――善か悪か、見極める必要がある。
今はまだ軽率に踏み込むべきではないと判断し、彼もまた黙って頭を垂れる。
学園長は三人の様子を見守りながら、慎重に言葉を選んで続けた。
「だが、今回の件で訓練場は当面のあいだ封鎖することとなる。原因の解明と安全確認が最優先だ。よって授業も一時中止とする。指示があるまでは、寮で待機するように」
その口調には単なる事務的な指示ではなく、生徒たちを案じる深い配慮が滲んでいた。
「了解しました」
三人は揃って頷き、学園長とグリモアに礼を述べて寮へと戻っていった。
自室に戻ったザイアスは、ベッドに腰を下ろし、天井を見つめながら静かに息をついた。先ほどの戦闘の余韻がまだ胸の内に残り、魔獣との戦い、学園長の魔法の余波、そして――自らが上級魔法を使用したことへの思考が、頭から離れなかった。
本当は、誰にも気づかれずに終わらせたかった。だが、あの場では迷っている暇などなかった。仲間を守るために、それ以外の選択肢は存在しなかった。
それでも――クレアやヴァイルは、どう感じたのだろうか。驚いたはずだ。あるいは、疑いの目を向けているかもしれない。今後の関係が変わってしまうことはないのだろうか。そんな不安が、胸の奥に影を落とす。
その時、扉が軽くノックされた。
「少しいいかしら?」
クレアの声だった。どこか遠慮がちで、微かに不安を含んだ響き。
ザイアスは小さく息を吐き、数秒だけ沈黙したのちに返事を返す。
「あぁ、入ってくれ」
扉が静かに開き、クレアとヴァイルが慎重な足取りで室内に入ってきた。ふたりとも、いつもの軽やかさは影を潜め、言葉を探すような、戸惑いを浮かべた表情をしていた。
「ザイアス、さっきの戦いのことだけどよ……」
ヴァイルが切り出しかけて、言葉を詰まらせる。代わってクレアが口を開いた。
「どうして、あんなに強い魔法が使えたの?」
真正面から投げかけられた問いに、ザイアスは目を細め、しばらく沈黙を保ったまま彼女たちを見つめた。
やがて静かに、口を開く。
「俺の魔力は、普通の人とは少し違う」
「違うって……それ、どういう意味?」
クレアが一歩踏み出し、食い入るように問い返す。
「詳しくは話せない。でも、父親から直接受け継いだ力がある。そのおかげで、高位の魔法もある程度は使えるんだ」
それ以上を語ることはなかった。しかし、二人の視線は真剣そのもので、ザイアスが言葉を続けるのを待っていた。
逃げることもできた。だが、彼らの信頼に応えるように、ザイアスは再び口を開く。
「魔力を抑えて、ランクを下げてた。それだけのことだ。目立ちたくなかったんだよ」
「目立ちたくないって、そんな……」
クレアは訝しげに眉を寄せたが、すぐに何かに気づいたように、それ以上は言わなかった。
ヴァイルは首を傾げながら言う。
「あれだけの力があるなら、もっと堂々としてればいいのに。助けてもらったことには感謝してるぜ」
「そういうことじゃないでしょ。察しなさいよ」
クレアの一言に、ヴァイルはばつが悪そうに黙り込む。
「力が強すぎると、周囲に迷惑をかける。それが怖かったんだ。今回の件も、もしかしたら俺の力が……」
言い切れない言葉が空中で消える。
クレアは少し思案した後、穏やかな笑みを浮かべて彼を見た。
「そんなこと、気にしなくていいのよ」
その柔らかな声に、ザイアスは目を見開く。
「あなたがどんな力を持っていたとしても、私たちは仲間なんだから」
「むしろ頼りになるって思ったし、これからも一緒に頑張ろうぜ!」
まっすぐな言葉に、ザイアスは不意を突かれたように言葉を失う。
彼らの瞳には、疑念も恐れもなかった。ただ、揺るぎない信頼がそこにあった。
胸の奥がじんわりと熱を帯び、ザイアスは小さく、しかし力強く頷いた。
「……ありがとう」
その一言は、ふたりへの感謝と、ほんの少しだけ自分自身を許すためのものだった。
「俺は今回の事件について、もっと調べてみたい」
そう言うと、クレアは力強く頷いた。
「パーティを組んでるんだから、当然手伝うわ」
「もちろん、俺もだ!」
ヴァイルが無言のまま、拳を突き出した。
クレアが微笑みながらそれに応え、ザイアスも迷わず拳を合わせる。
三人の拳が、静かにひとつに重なった。
視線がふと交わり――それだけで、言葉は必要なかった。
自然と笑みがこぼれ、温かな空気がその場を包み込む。