第八話
翌朝、ザイアスたちは早くから授業の準備を進めていた。机に向かい、筆を走らせるものもいれば、魔法の基礎訓練を確認する者もいる。しかし、ザイアスはどこか落ち着かない様子で、何度も書きかけのノートを見返しては、集中しきれずに視線を彷徨わせていた。
「おい、大丈夫か?」
隣にいたヴァイルが心配そうに声をかける。
「昨日の夜のこと、まだ気にしてるのか?」
ザイアスは少し間を置いて、曖昧に頷いた。頭の中では昨晩の出来事が何度も反芻されている。侵入者の痕跡、誰も気づかなかった異変、そのすべてが違和感として胸に引っかかっていた。
「あぁ。でも、考えたところで答えが出るわけでもないし、とりあえず授業に集中するよ」
そう言ったものの、気持ちの整理がついたわけではない。心のどこかで、何かを見落としているような気がしてならなかった。
クレアが少し不安げな表情でこちらを見ていた。彼女もまた、昨日の出来事を気にしているのだろう。ザイアスは努めて平静を装い、彼女に軽く頷いてみせた。
やがて授業が始まり、教室内に緊張感が走る。先生がゆっくりと前に進み出ると、冷静な声で次の課題を告げた。
「さて、今日は実技訓練を行います。戦闘中であっても、基礎的な魔法を安定して発動できるようにすること。それが今回の目的になります」
その一言が教室内に放たれた瞬間、空気が一変した。まるで張り詰めた糸が一斉に引き締まったかのように、生徒たちの表情からは緩みが消え、緊張感が漂い始める。
生徒たちの瞳には、不安と期待、そしてわずかな高揚が交錯して宿る。
「本来、ダンジョン探索ではパーティを組んで行動するのが基本です」
教卓の前に立つ教師の言葉は、もはや日常の一部でありながら、今日ばかりは重みを帯びて響いていた。
「魔法使いだけでダンジョンに挑む、という状況も珍しいことではありません。その際は必ず大きな盾を装備した魔法盾士を構成に入れるのが主流です」
淡々とした解説でありながら、その内容は現実的な危険と裏表のように隣接していた。魔法職のみの編成は、確かに火力においては圧倒的かもしれない。しかし、ひとたび防御の隙を突かれれば、崩壊は一瞬で訪れる。それを理解した生徒たちの胸には、戦闘への覚悟がひとつ、またひとつと積み重なっていく。
「したがって、今回の訓練では魔法使いだけでの戦闘を想定し、なかでも特に重要となる“魔法盾士”に焦点を当てます。盾を構え、いかにして敵の攻撃を受け流し、その中で確実に魔法を発動できるか――そこに重点を置いて学んでください」
そう言って、教師は静かに自らの装備を示した。片手には厚みのある堅牢な盾を、もう片方には杖を携えている。その姿は、ただの魔法使いではない。守りを司り、前線で仲間を支える重責を担う者の威風を纏っていた。
「防御と同時に魔法の詠唱を行うためには、身体の使い方を根本から見直す必要があります。大きな盾を携えながら戦うというのは、見た目以上に厳しいものです。その上で攻守のバランスを取り続けるのが、この職の難しさであり、真価となります」
教室前方に並べられた訓練用の盾に、生徒たちの視線が集まる。硬質な素材で作られたそれは、明らかに重量感があり、日頃から持ち慣れていない彼らにとっては未知の道具だった。興味を示して近づく者、少し距離を置きつつも真剣に観察する者、それぞれの反応にはそのまま性格が映し出されていた。
「では、ペアを組んで実践に移りたいと思います。互いに魔法を放ち合いながら、どれだけ詠唱を安定させられるか――それが今回の課題となります」
その合図とともに、生徒たちは静かに立ち上がり、自然な流れでペアを組み始めた。仲間を信頼する眼差しと、張り詰めた緊張が教室の空気を満たしていく。やがて、各自に盾が手渡されると、彼らは互いに向かい合い、その手に握られた剣に力を込めた握りしめる。
詠唱の声が、静寂を破るように次々と響き始める。
クレアの放った風魔法が、ヴァイルの掲げる盾に直撃した。鋭く切り裂くような風圧が空気を裂き、重たい音を残して散る。しかしヴァイルは、微動だにしなかった。踏み込んだ足が地をしっかりと捉え、全身に力を込めて盾を支える。その瞳には一切の揺らぎがない。
すぐさま詠唱を開始すると、足元の地面が微かに震え、魔力のうねりが大地を走る。ヴァイルの魔力が集中し、地を這うように形成されたのは、鋭く研ぎ澄まされた土の槍。そのままクレアの持つ盾に向かって一直線に飛び出し、鈍く重い衝突音が訓練場全体に響き渡った。
ザルバたちは相変わらずふざけ合い、訓練場の空気を乱していた。
教員は彼らに強く出ることができず、ただ曖昧な笑みを浮かべたまま、その様子を見守るだけである。
それもそのはず――ザルバの父親は、魔法協会に籍を置く人物だ。
万が一、ご子息に何かあったとなれば、その責任がどこに及ぶか分からない。腫れ物に触るように扱うのも、教員としての弱さだけが理由ではなかった。
一方、彼らは気の弱そうな生徒に盾を持たせ、複数人で攻撃魔法を浴びせるという悪質な“遊び”に興じていた。
その様子に堪えかねたクラス長であるレイダーが、一歩前に出て毅然と声を上げる。正義感の強い彼の態度には、誰もが一目置いていた。
ザルバたちの相手はレイダーに任せ、ザイアスは自らの訓練に意識を戻す。
深く息を吸い、集中を高める。徐々に右手に宿っていくのは、赤く脈動する炎の魔力。精緻に練り上げられたそれは、まるで生き物のようにうねりながら収束し、ペアの生徒が構える盾に向かって狙いを定めていく。
そして――放とうとした、その刹那。
訓練場の空気が、ピリリと張り詰めた。
肌を撫でる空気が、ひときわ冷たく感じられる。見えない何かが、確かに場の気配を変えた。
ザイアスの眉がわずかに動く。どこか、ただならぬ気配が漂っていた。
突如として、訓練場の中心に巨大な魔法陣が浮かび上がる。その紋様は漆黒に染まり、空間が軋むような重低音を伴って脈動する。まるで大地が息を呑んだかのように、辺りの空気が一気に張り詰め、生徒たちはその異様な光景に目を見開き、声もなく立ち尽くした。
ただ一人、ザイアスは目を細める。
確かに自分のすぐ近くで微弱な魔力の波を感知したのだ。
得体の知れぬ違和感が、背筋を静かに這い上がる。思考が鋭く研ぎ澄まされていく中、彼はゆっくりと首を巡らせ、周囲を注意深く見渡した。
だが視界に映るのは、訓練に参加していた生徒たちばかり。誰もが魔法陣から放たれる異様な光と気配に呑まれており、不審な素振りを見せる者はいない。
感じた魔力の残響も、いまや跡形もなく霧散していた。
魔法陣は深い闇を宿した光を放ち、訓練場を包み込む。
その中心から地の底を思わせる禍々しい気配が立ち昇る。空間が歪み、ひび割れるように裂け目が生じると、そこから現れたのは――漆黒の毛並みに覆われた四足の獣だった。
その身体には常に雷が纏わりつき、空気を焼くような音を立てている。紅く光る双眸は、まるで獲物を弄ぶかのようにゆっくりと生徒たちをなぞった。低く唸り声を上げるたび、その場にいる全員の背筋が凍りつくような恐怖が込み上げる。
「な、なんだこれ……」
ひとりの生徒が、震える声でかろうじて言葉を吐いた。
(この黒い光はマジックサークルの効果に似ている。外部からの救援は時間がかかりそうだ)
冷静に状況を見極めていたザイアスの中で、緊張が静かに高まっていく。
魔獣はゆっくりと頭をもたげると、次の瞬間、咆哮を放った。雷鳴のような咆哮が空間を震わせ、その衝撃だけで地面が波打つ。そしてその口元から放たれたのは、黒い稲妻――異質な魔力の奔流だった。
「何か来る!」
クレアが反射的に声を上げたが、その言葉が届くより早く、雷撃が直線状に走り抜ける。
避ける間もなく、教師の身体が雷に貫かれた。眩い閃光と共に爆発的な衝撃が炸裂し、彼の身体は地面に叩きつけられる。土煙が舞い、焦げた匂いが周囲に広がった。
「先生っ!」
ヴァイルが咄嗟に駆け寄ろうとするが、魔獣はその前に立ちはだかる。前脚を振りかざした瞬間、その動きだけで威圧が周囲に満ち、踏み出すことすら躊躇させた。鋭い爪が空を切るたび、空間に亀裂が走るような凶悪な圧力が押し寄せる。
地に伏した教師は、意識を手放す寸前で、最後の力を振り絞るように声を発した。
「みんな……逃げなさい。ここにいては……危険です」
その言葉は断片的にしか聞こえなかったが、間違いなく本気だった。
そして次の瞬間、教師の身体から力が抜け、完全に動かなくなった。教室の喧騒とは無縁の、凍りついた静寂が訓練場に落ちる。
空気を裂いて、黒雷の魔獣がゆっくりと前へと歩を進め始める。
その進路を塞ぐようにして、ザルバが一歩前に出た。
口元には笑みを浮かべていたが、それは高揚と慢心の入り混じった、危ういものだった。
「丁度いい。俺の魔法の実験台になってくれよ」
「やめろザルバ!」
ザイアスが止める声を上げたが、彼は振り向きもせず、嘲るように言い放つ。
「うるせぇ、黙れEランク。俺の魔法に巻き込まれたくなきゃ、そこで見てろ」
『スペルエンゲージィィ!タイプアサルトォォ!』
指輪に魔力が注がれると、魔獣の足元に魔法陣が浮かび上がる。
だが――詠唱が終わるより早く、それは起きた。
魔獣の姿が瞬時に揺らぎ、次の瞬間にはザルバの目の前に現れていた。
見えぬほどの速度で尻尾を振るうと、鉄塊のごとき一撃がザルバの体を薙ぎ払い、彼は壁に叩きつけられて崩れ落ちる。呻くような声を漏らしながら、這いつくばったまま動けない。
黒雷の魔獣は容赦なく、倒れたザルバのもとへと歩を進める。
その歩みは遅く、しかし確実だった。
「ぐはっ。何が……何が起こった。やめろ、くるな……来るなぁぁぁぁぁっ!」
悲鳴。懇願。恐怖という名の衝動が、訓練場を一気に支配した。
「逃げろっ!」
誰かがそう叫んだのを皮切りに、生徒たちは我先にと出口へ殺到する。
秩序も訓練も吹き飛び、押し寄せる混乱と焦燥の波がその場を呑み込んだ。
だが――その渦中で、ただ動かなかった者がいる。
ザイアスたちだった。
殺気と恐怖が支配する中で、彼らは一歩も動かず、魔獣を真っ直ぐに見据えていた。
ザルバは決して好きではない。だが同じクラスの人間が目の前で死ぬのを、ただ見ているのは――気分が悪かった。
静かに、だが強く息を吐く。
「こっちだ、魔獣。お前の相手は――この俺だ」
そう言い放つと、手にしていた盾を魔獣に向かって投げつけた。
盾が鋭く風を裂き、魔獣の注意がそちらへと向けられる。
ザイアスは逃げず、踏みとどまったまま、その視線を一歩も逸らさなかった。
彼の視線は、静かに魔獣を見据えていた。瞳の奥には、恐怖とは別の感情――冷静な闘志が宿っている。
「ヴァイル、クレア、逃げろ!」
鋭くも力強い声が響く。しかし返ってきたのは、背を向ける言葉ではなかった。
二人は、それぞれザイアスの隣に立ち、同じように構えた。逃げる気配など微塵も感じられない。
「死んでも知らないぞ」
呆れたように呟いたザイアスに対して、クレアが鋭い視線を投げつける。
「そっちこそ足を引っ張らないでよね」
挑むような口調に、微かな緊張がほぐれる。そして、ヴァイルが威勢よく叫んだ。
「仲間を置いて逃げるわけねぇだろ!俺の土魔法が火を吹くぜ!」
「土魔法で火は出ないぞ」
「土魔法で火は出ないわよ」
ザイアスとクレアの同時の冷静な突っ込みに、ヴァイルの口元が引きつった。
「じょ、冗談だろ? 厳しいなぁ」
苦笑しながらも、ヴァイルは拳を強く握りしめた。その手には、確かな決意が込められている。
彼らに逃げる選択肢はなかった。