序章 前編
彼が教えてくれた。
この物語の主人公は――
きっと俺に似て中二病をこじらせたような妄想癖を抱え、退屈を何よりも嫌い、面白そうなことには理屈も常識も無視して首を突っ込む。まるで自分の人生が、どこか特別な物語であるかのように信じて疑わない、厄介な性格の持ち主だろう。
そんな奴が、騒がしくも数奇な運命に巻き込まれていく。
この物語は、きっと、そんな話だと。
◇
湿った土の匂いが鼻腔を刺し、木々の隙間から差し込む月光が地表にまだら模様を描いていた。遠くでは鳥のさえずりがかすかに響き、枝葉が風に揺れてささやくような音を奏でている。その穏やかな情景の中に、ひとりの青年が立ち尽くしていた。
彼の思考は濁った湖のようにぼんやりとしており、目の前に広がる光景は明らかに見慣れたものではなかった。しかしそれは、夢を見ているような感覚とも異なる。現実の肌触りが確かに存在し、脳をゆっくりと現実へ引き戻していた。
ゆっくりと手を持ち上げる。そこで、はっきりと“違和感”に気づく。
「なんだよこれ」
彼は呟くようにそう言い、指を開閉してみた。細く、しなやかで、張りのある肌。それはまるで高校生の頃の若々しさを思わせる。
胸の奥で心臓が不快なほど速く脈打ち始める。たしかに彼は、つい先ほどまで自分の部屋にいた。テレビを眺めながら、何の意味もない時間をただ消費していたはずだった。だが、ふとした瞬間に――思い出す。
脳裏に浮かぶ映像。それは全身を粟立たせる異様な記憶。突如として空間に現れた黒い裂け目。それが彼を呑み込み、意識を手放させた。そして次に目覚めたとき、この森の中に立っていた。
震える手で頬をつねる。鋭い痛みが走り、否応なしに現実を突きつけられる。混乱のまま視線を巡らせ、何か手がかりを探そうとしたその瞬間――
殺気。
背後から放たれる、凍てつくような鋭い気配。反射的に振り向いた彼の視線の先にあったのは、血のように赤く輝く瞳を持つ獣たちだった。十数匹。毛を逆立て、牙を剥き、低く唸り声を響かせながら、彼を取り囲んでいる。彼らの瞳には、確実に「獲物」を捉えた捕食者の眼光が宿っていた。
彼は完全に丸腰だった。目の前の獣たちは俊敏そうで、とても逃げ切れるとは思えない。むしろ、背を向けた瞬間に襲いかかられるのは間違いなかった。
そのときだった。脳内に、突如として“何か”が流れ込んできた。
――魔法。
理解が追いつくより先に、激しい頭痛が彼を襲う。まるで誰かが脳に直接知識を叩き込んでいるかのような錯覚。その苦痛の中で、彼は確信した。
――俺は魔法を使える。
その直後、獣の一匹が跳躍し、牙を剥き出しにして襲いかかってきた。
本能が叫ぶ。殺らなければ、殺られる。
だが、その瞬間――彼の体は自然と動いていた。
右手を前にかざし、“唱えようとした”。そう、“唱えようとした”だけだった。
次の瞬間、轟音とともに炎が噴き出す。爆炎が獣たちを包み込み、すべてを一瞬にして焼き尽くした。
「え……?」
呆然と立ち尽くし、目の前の光景を見つめた。炭と化した野犬の残骸が転がり、焦げた獣臭が鼻を突く。自分の手を見下ろすと、指が微かに震えていた。理解が追いつかない。しかし、これは紛れもなく現実――だった。
そのとき――
「やるじゃないか」
静寂を破って、涼やかな声が空気を裂いた。
顔を上げると、そこに立っていたのは一人の女性。陽光に照らされてきらめく長い銀髪、褐色の肌は光を吸い込み、艶やかに映える。黒のローブを身に纏い、その瞳は鋭く、まるで彼の内面すらも見透かすような眼差しだった。
「大きな魔力反応を感じて“奴ら”かと思って来てみたら……大したもんだ」
彼女は僅かに口元を吊り上げ、興味深そうに彼を見つめた。
「名は?」
「……リュウ」
一瞬だけ逡巡し、彼は偽名を名乗った。本名を名乗るのは危険だ――直感的にそう判断したのだ。
彼女は頷くと、静かに、だが衝撃的な言葉を口にした。
「そう。今日から私の弟子になりなさい」
「は?」
呆気にとられる彼をよそに、銀髪の女――グリモアは微笑んでいた。
青年――リュウと名乗った彼は、銀髪の魔導師グリモアの弟子となった。
かつてこの世界は、ギース帝国という一大国家を中心に栄え、壮麗なる魔法文明を築き上げていた。
だがその栄光は遠い過去のものとなり、帝国は滅び、今では四つの王国によって均衡が保たれている。
中央には、アラネスト王国。
そして北方にはフィルグレア王国、東方にはラネスティア王国、西方にはラグリュード王国が広がる。
かつて南部には、ザルヴァンと呼ばれる王国が存在していた。
だが、突如現れた悪しき者によってその地は蹂躙され、いまや“禁域”として地図からその名を消されている。黒き瘴気が漂うその地へ、足を踏み入れる者はいない。
そしてここは、そのいずれの王国にも属さぬ場所。
霧と静寂に支配された、忘れられた森の奥深く。
四方を取り囲むミスティア山脈が、あたかも結界のごとく外界を遮断している。
人の営みは遥か彼方、鳥のさえずりも途絶え、風の通りさえも細く、微かな囁きにすぎない。
山を越えれば、カルディナス大監獄があるとは言われているが――
この森に漂う空気は、まるでその道すら幻だと告げているようだった。
「いいか。魔法というものは、女神の加護なくしては絶対に発動しない。そして、加護に加えて――この“ルーン”の力が不可欠だ」
それは、グリモアの弟子となって迎えた最初の朝だった。
森の静けさがまだ空に残るなか、リュウは彼女から魔法の根幹について学んでいた。
彼女は手のひらに、小さな宝石のような石をそっと乗せると、それを掲げてリュウに見せた。その表面は淡い光を受けて脈動し、魔力の宿る存在であることを無言のまま示している。
そして、彼女は瞳を一瞬鋭くし、詠唱を紡いだ。
『スペルエンゲージ:タイプアサルト「アースファング」』
空気が変わる。大地が呻くように揺れ、地の底から鈍い唸りが轟く。
次の瞬間、大地を割って無数の岩槍が一斉に噴き上がり、周囲の木々を容赦なく貫いた。裂ける樹皮、舞い散る葉。それらすべてをかき消すほどの轟音と震動が、空間を支配する。
「通常、魔法とはこのように――ルーンに魔力を流し込み、しかるべき詠唱を経なければ発動しない。だがなお前は違う」
グリモアは岩槍が林を穿った跡を見つめながら、重々しく言葉を紡いだ。
リュウは黙って頷く。初めて魔法を使ったあのとき、自身には詠唱も、魔法陣も必要なかった。ただ、感情のままに魔力を流しただけで炎は放たれた。
「お前の力は、言うなれば“無法陣”にして“無詠唱”。女神の加護すら介さず、魔法を発動する……それは、この世界の理を踏みにじる所業。普通であれば、決して起こりえぬ現象なのだ」
その声音は穏やかだったが、内に込められた感情は明らかだった。畏れ。まるで彼の存在自体が禁忌であるかのように。
グリモアは真剣な眼差しを向けたまま、言葉を続ける。
「だからこそ、私はお前を育てる義務がある」
「義務?」
彼が問い返すと、グリモアはふっと意味深に微笑み――こう告げた。
「お前の力が、いずれ世界を変えることになるのだから」
それから数年。リュウはグリモアのもとで魔法の理を学び、日々修練に明け暮れた。
だが、彼は他の魔法使いたちとは決定的に異なっていた。魔法陣も詠唱も不要。ただ、魔力を流すだけで術は発動した。その特異性ゆえ、習得の速度は異常だった。
魔力制御から属性魔法、高度な融合魔法に至るまで――彼はすべてを“極めた”。常識を超える速さで、魔法という技術を己の肉体に刻みつけていった。
そして、その事実を誰よりも先に認めたのは、他ならぬグリモアだった。
ある日の修行の終わり、彼女は静かに語った。
「リュウ、お前に教えることはもうない。私のすべてをお前に叩き込んだ」
その言葉を受け、リュウはどこか照れたように肩を竦め、深く息を吐いた。
そして、口元にゆるやかな笑みを浮かべる。
「……あぁ。筋トレしてた記憶しかないけどな」
ふざけているようで、そこに込められた実感は嘘ではなかった。
それはまさに血と汗と魔力にまみれた、地獄のような日々だった。
魔法の原理を叩き込まれるだけではない。
それに加えて、徹底した肉体鍛錬。
剣術、体術、そして筋力強化。さらに筋トレ、筋トレ、筋トレ。
呼吸を忘れるほどの負荷をかけ、限界のその先でさらに魔力を絞り出す。
術を連発し、魔力枯渇で倒れてもなお立ち上がらされ、再び魔法を放たされる――
そんな狂気じみた鍛錬を、彼は幾度となく繰り返してきた。
だが、それもすべては、この異世界で生き抜くために必要なことだった。そう、彼は信じている。
自覚はあった。すでにグリモアを凌駕している――あらゆる面で。それでも、彼がここまで来られたのは、紛れもなく彼女の存在があったからだった。
「感謝してるよ、グリモア」
彼がそう言うと、彼女はわずかに微笑みながら首を振る。
「礼なんていらないさ。お前が成長するのは、当然のことだったのさ」
しかしその笑みは一瞬で消え、グリモアはふと表情を引き締めた。
「なぁ、リュウ。お前に一つ、頼みたいことがある」
「どうしたんだ?急に改まって」
そう問いかけるリュウに向かって、彼女はニヤリと笑い、真っ直ぐな眼差しで言い放つ。
「ちょいとばかり、魔王とやらを倒してきてはくれないか?」
「……は?」
彼は絶句した。
「魔王?」
問い返す彼に、グリモアは肩を軽くすくめて答えた。
「ああ。ここから南にある『魔の大地』――そこに魔王がいる」
「それは知ってる、元ザルヴァン王国があった場所だろ? まさか、俺一人で行けって話か?」
「そういうことさ」
グリモアはさらりと涼しい顔で告げる。
「おいおい、冗談だろ?」
リュウは呆れたように笑い、頭を掻いた。いかに自分が強くなったとはいえ、魔王を単独で討つなど、正気の沙汰ではない。
だが、グリモアの言葉は迷いなく放たれた。
「お前ならできるさ」
そして、まっすぐに彼を見据える。
「お前はもう、世界にとって異物だ。魔王すら凌駕する可能性を持つ存在になっている。なら、試してみる価値はあると思わないか?」
「試してみる、ね」
リュウは静かに目を閉じ、思考を巡らせた。
異世界に転移し、魔法を学び、ようやく手に入れた圧倒的な力。その真価を試すときが、ついに来たのかもしれない。
「面白そうだな」
ゆっくりと目を開け、口元に笑みを浮かべた。
「いいだろう。魔王とやらを、この手で叩き潰してやるよ」
その言葉にグリモアは満足げに頷いた。
師の命を受け、リュウは短く「行ってくる」とだけ告げ、彼女が用意した転移陣に魔力を注ぎ始める。魔方陣が輝き出し、視界がゆがむ。
次の瞬間、異様な気配の中へと転送された。
彼が立っていたのは――魔王の城の眼前だった。