予定調和な抵抗に喝采を
少女の足元に広がるは、木々の騒めく不気味な音だけが聞こえる暗黒の世界。情勢の波に呑まれて人の気配が失せた背の高い廃ビルに忍び込み、経年劣化で壊れた屋上の、壊れたフェンスの先に立っていた。
民家の少ない片田舎の夜は街灯も少なくどこも暗い。闇に紛れるように廃ビルの屋上で女の子が立っていることを誰も気付けるはずがなかった。
少女は乾いた唇を舐めて潤し、靴を脱いで丁寧に並べると、服のポケットから遺書を取り出してそこら辺のコンクリート片を上に乗せて重し代わりにした。
スカートの裾が風でバタつく中、冷えたコンクリートの床を震える足をゆっくり進める。本来は少女の足で二歩程度の距離だが、それ以上に長く感じた少女はやがて後ろ手で握ったフェンスを離せばいつでも落ちることが出来る場所まで辿り着いた。
少女はこの日、現世に別れを告げ、ここから飛び降りる覚悟をしてきた。怖いのは一瞬で、実行すればもう逃げる方法のない飛び降りを選択した。しかし手汗で滑りそうな手で掴むフェンスがいつまでも離せずにいた。
「じゃあ、死にたくないんじゃん」
「え?」
少女は突然話しかけられて驚き、後ろへ倒れ込んだ。まさか飛び降りようとしている正面から声がするとは思わなかったのだ。
「残念、君はもうここから飛び出せない」
声をかけてきた人物は、少女の目の前で宙に浮いていた。痩せ細った体躯に見合わぬ大きな鎌を肩に担いでいて、暗闇に溶け込むような黒のワンピースを身に纏った少女。人懐っこそうな見た目で長い黒髪を後ろで一括りにしていた。
「あ、あなたは……?」
「僕? 僕は俗に言う死神ってやつ。まだ死ぬべきじゃない魂は狩っても美味しくないから忠告しにきた」
死神と名乗った者の見た目は少女と同じくらいだったが、宙を浮いているというあまりにも異質な存在のせいで少女は混乱していた。
「夢を見ているの……?」
「君はまだ死にたくないと思っている。そうだよね?」
少女の疑問を遮るように死神が聞いた。
「わ、私はもう生きていたくない。クラスでいじめられて、お父さんからは暴力ばかり。最後に家でご飯を食べたのだって三日前だもん」
死神は指先で頬を掻くと、少女の言葉を指摘した。
「それ、死神業界の中では、“生きていたくない”と“死にたい”は同義ではないんだ。生きていたくないは死の覚悟をしていない甘っちょろい考えの事なんだよ。実に美味しくない。あ、逆に死にたいは死神のおやつね」
少女は死神の言葉の意味が理解できなかったが、これが夢ではないことは足裏の冷えた痛みから分かっていた。
「じゃ、じゃあ、……死にたい」
「だめだめ、本当に死にたかったら遺書に未練たらたらなことなんて書かないし、僕のことなんて無視して飛び降りちゃうし。それと、君にはまだ心配してくれる人がいるでしょ」
「ま、真紀ちゃんのこと? でも真紀ちゃんは……」
「裏切ったって? あんな気の弱い女の子が君の事を裏切る理由を考えたかい?」
「……分からないよ」
すでに思考を停止させている少女は裏切られた相手のことなんて考えたくもなかった。
「単純な話、君を助けたら次に虐められるのは真紀ちゃんだからだよ。さらに、彼女は確実に君の後を追うよ。すでにその悲惨な結末が僕には見えている」
「ま、真紀ちゃんが?」
「君を助けようと動けば自分がいじめられ、動かなければ君に裏切られたと思われ。最悪の選択肢だよね? さらに言えば次のターゲットが自分だって理解している。それで今はメンタルやられて塞ぎ込んでしまった。そんなメンタルがやられている時に君がここを飛び降りたと知ったら? いじめの矛先が自分に向いたら?」
少女にとって真紀ちゃんは唯一の友達だった。少女に対するいじめの被害を多少被っていたのに、友達だからとずっとそばにいてくれていた。そんな友達が少女の境遇に心を痛め、不登校となっているのを少女は知らなかった。
死神は鎌を虚空に仕舞うと廃ビルの縁に座る。振り向きながらフェンスを掴む少女を手招きしてゆっくり隣に座らせた。
とんとんと指でタップするように暗闇を指差した死神は、少女に聞いた。
「怖いでしょう? ここから飛び降りるのが」
「……うん。怖い」
「ここから飛び降りちゃうのと、真紀ちゃんが君と同じ運命を辿るのとどっちが怖い?」
「どっちも…………でも、たぶん、後者」
「やっぱり君は優しい」
たっぷり時間をかけて答えた少女はさめざめと泣きだす。時々嗚咽を漏らしながら目元を抑えた。
「本当は、君がここから飛び降りることは確定した未来だった」
「え?」
「僕の仕事は魂が消える前に回収し、食べること。僕たち死神が食べることで魂はちゃんと成仏できるようになるんだ。死神はこれから消えてゆく魂の行方を視ることが出来るから、僕はここにいるわけ」
「私じゃなくて、真紀ちゃんを助けようとは思わなかったの?」
すると死神はきょとんとして何か考え、そうか、と一人納得した。
「勘違いしているようだから教えるけど、僕は君を助けたわけじゃない。僕は美食家なんだ」
「さっき、死ぬべきじゃない魂は美味しくないって言っていたことと関係ある?」
「そうそれ。現状なら君よりも真紀ちゃんの魂の方が美味しいだろうね。でも僕が食べたいのはそんな予定調和に投げ捨てられた魂じゃなくて、運命に必死に抗ったけどっていう、……なんて言うんだろう? 筋肉ムキムキの魂がいいんだ」
「なにそれ?」
少女は笑った。死神は決して冗談を言ったわけではなく、本音を伝えたはずなのに笑われて少しだけ頬を膨らませた。
死神が求めている魂は、もう打つ手のないほどに抗った者が残した魂であり、それを作り出すためなら未来を捻じ曲げることも厭わなかった。
「そんなに私の魂が欲しいの?」
「欲しいけど、ここでただ飛び降りてできた魂は美味しくないよ。だから、もっと強い感情に育てられた魂が欲しくて君に声をかけさせてもらったわけ」
少女は余計なお世話だと罵倒しそうになったが、これで引き止めてもらわなければ友達が自分よりひどい目に逢っていたかもしれないと思ったら、下唇を嚙むしかなかった。
「もし――」
少女は勇気を出して死神に聞いた。
「もし、私がいじめられていると告発して、いじめはなくなる?」
少女が不安に駆られて思わず握った死神の手は、骨のように瘦せ細っていて、鎌の扱いすぎでゴツゴツしつつひんやりしていた。
「そう簡単にいじめはなくならないよ。君には味方が少ない。教師陣もいじめの解決に積極的じゃないし、確かな証拠が残っているわけでもない。父親も暴力が酷いだろう? 君が傷ついた跡は一生ものだ」
死神は足をプラプラさせながら少女の勇気をぶった切る。あまりいじめを軽く見てはいけないと忠告した。
少女はもう消えることがないと理解した鎖骨の切り傷を抑えた。
「でも、未来を知る僕からわずかな希望を与えよう。君がすべき努力は学生生活を終えてもなお続く。でも暗く長いトンネルを抜けた先は、間違いなく君が夢見る世界だ。逆に途中で諦めようものなら、その魂は僕が仕方なく平らげてあげる」
希望とはなかなか言えない未来を告げ、死神がにやりと笑って少女を見た。いつの間にか手には鎌を持っていて、切っ先が少女の首に突き付けられている。
少女は恐怖した。すべてを投げ捨てる覚悟を持ってここにいるはずなのに、飛び降りればいいやという甘い考えを後悔する。
同時に嬉しくも思った。まだ自分のことを見てくれる人がいることが嬉しかった。
「……後悔させてあげる」
「へぇ?」
「今日この場所で、私が飛び降りたという確定した未来をぶち壊したあなたを必ず後悔させてあげる!」
「出来るの? 一丁前に遺書なんか残して逃げようとしたくせに。その勇気は蛮勇だと思うけどな」
「そりゃそうでしょ。本当は怖いし逃げ出したいよ!」
少女はコンクリート片が乗っている遺書を引っこ抜き、力任せにびりびりと破いた。宙に舞う紙片が雪のようにひらひらと足元の暗闇に吸い込まれていく。
靴を履いて立ち上がった少女はフェンスをしっかり掴み、まだ生きることの意思を死神に見せつけた。
「私は何が何でもやり遂げて見せるから。あなたはいつまでも傍観者のまま指咥えて見ていなさい!」
「ふぅん? いいよ。じゃあ僕は君の努力がいつまで続くのか見守っていてあげる」
死神が廃ビルの縁からぴょんと飛び出し、宙に浮いた。鎌を両手で華麗に振り回すと、死神の周囲が刃の銀色に光輝いた。
最後に振り上げた鎌をゆっくり下ろしながら切っ先を少女へ突き付けた。
「いつもこの鎌が君の魂を狙っていることを忘れないでね?」
「私からも忠告。あなた、美食家を名乗ったけど、そんなに瘦せ細っていては本末転倒じゃない? もっと食べないと」
「はは! こりゃ一本取られた。次に会う時はぽっちゃり体系にならないとね」
「いやよ、もう会わない。私はあなたが嫌いだから。二度と会いたくない……じゃあね」
少女が死神に背を向けて廃ビルを後にした。少女が離れていくのを頭上から眺めながら、死神はそっと鎌を撫でた。
「嫌われたものだね」
その呟きに合わせて虚空から別の死神が姿を現した。
「おい! また勝手に未来を変えたのか! おかげで俺たちの仕事が激減したぞ!」
この男は死神と同期で、身勝手に未来を改変して始末書を書かされる死神に根気よく付き合ってくれる友達のような関係だった。
「そう? 仕事が減って楽になったじゃない。あんたは忙しすぎて目を回しそうだって」
「減らしすぎだバカ! おまえが未来を改変した一人の少女がこれから何百人と救うんだぞ! 未来の演説で拍手喝采の中心人物だ! こうなったらもうリスケが必要だし用意していた資料がほとんど意味なくなったんだからな! 上層部はぶちぎれてるぞ!」
男は憤慨して顔を真っ赤にしている。無関係なのに同期という理由で理不尽にも上司に怒られることを想像したら顔を青くさせた。
「だって、美味しいものが食べたかったんだもん」
「可能な限り努力させて、諦めたところを食べようとしたんだろ? だが失敗に終わったな」
「いいえ、僕は美食家だよ? 最高に美味しいのが食べられると思ってワクワクしているんだよ!」
目をキラキラと輝かせはじめた死神に、男は呆れたように溜息を吐いた。
「……はぁ、昔からそうだったな、おまえはそういうやつだ。でもそれまで食うもんがないぞ。少しなら分けてあげられるが」
「いらない。空腹は最高のスパイスってね。あ、でも少し食べないとまた痩せたのって嫌味言われそう」
死神は痩せた自分の身体を抱いて笑った。死神らしく、悪魔のような悪い顔。
鎌を振り回し、ワクワクを抑えきれない犬のようにはしゃいだ。
「ハッピーエンドを迎えた魂ほど美味しいものはないでしょう?」
死神は宙に浮いていた状態から力を抜き、暗闇へと落ちていった。