予定調和な敗北に喝采を
――「どうせ勝てない」諦めに等しいその言葉を言い訳に僕は三年間過ごしてきた。
数年後にはきっと廃校になるだろう田舎の中学校は、生徒数が少なければ部活動の数も少ない。
部活動は陸上部が一番人気で、次に吹奏楽部、卓球部あたりの所属人数が毎年安定しているが、うちの中学校には小さいながら武道場がある。
つまり剣道部があるわけだが、部員は僕を含め三人しかいない。あまりにも不人気だ。わざわざ臭くて重い防具を身に着けてやりたいとは思わないだろう。
幼少の頃から剣道をやっていたという友達のケン君と同門で一つ下の後輩であるタケル君だ。ちなみに僕は剣道初心者で、中学校に入ってから剣道を始めた。
学校の方針で部活動には特別な理由がないかぎり所属するのが強制だったし、剣道部にしたのもケン君に誘われたからというのが主な理由で、あとは父親から剣道はいいぞとオススメされたからだ。
初めはルールなんて分からなかった。竹刀は当たり所が悪いと痛いし、防具は重くて臭い。竹刀がささくれたときは専用の道具で手入れしなきゃいけないし、組み立てなんてもってのほかだ。
試合は武士道精神とやらに縛れている。スポーツ観戦みたいな応援はできないし、ヤジを飛ばそうものなら説教される。
そんな部活動に三年間付き合い続け、今日は引退前最後の大会の日。案の定やる気は出ない。
「さあ、俺とシュウにとっては最後の大会だ、気合い入れていこうぜ!」
部長のケン君は僕の背中を叩く、僕の身長が高いせいでほぼお尻を叩かれた。
「シュウ先輩、対戦相手はそんな強いところじゃないので、ワンチャン一回戦突破できますよ!」
後輩のタケル君はケン君が通っている道場と同じということもあってテンションが似ている。まるで兄弟だった。
「でも、相手は全員が経験者でしょ? 勝てる気がしないなぁ」
「何弱気になってんだ? 誰が相手だろうと最後なんだし、ここで頑張らないと!」
ケン君はそう言うが、経験者と初心者とでは動きがまるで違う。比べて見れば分かるが、僕が竹刀を振り上げる頃にはケン君はすでに打ち終わっている。“刺し面”と呼ばれる小さく振り上げる面打ちがあるが、それが洗練されているというか、一度全国大会の試合をテレビで見たが、目で追うことが困難なほどに速かった。
「お、そろそろ試合だ。タケルとシュウは面付けて準備な」
「はい!」
僕たちのチームは先鋒がタケル君、中堅が僕、大将にケン君という三人で出場する。団体戦のほとんどが五人対五人であり、僕たちは部員不足で二人足りない。だからすでに二敗している状態で試合が開始する。
誰か一人負けたら終わり。勝たなきゃいけない。試合に出るたびそのプレッシャーが僕の心をへし折ろうとしてくる。だからそのたびに、“どうせ勝てない”とおまじないをかけ、平静を装っていた。
タケル君もケン君も強い。個人戦では二人ともいいところまで勝ち上がることがほとんどだし、団体戦もほとんど勝ってくれる。
面を着けながら待っていると、顧問の先生がやってきて僕たちを集めた。
「次の試合、お相手の次鋒の子がケガしちゃったみたいだから、お相手は四人チームな」
そういえば先ほど、ちょっとした騒ぎになっていたなと思っていたらケン君もそれが気になっていたようだった。
「ケガって、さっきの救急車っすか?」
「ああ、どうやらアキレス腱が切れちゃったらしい」
「見た感じ一年生でしたよね。怖いですね」
タケル君が慌てて入念にアキレス腱を伸ばし始めた。剣道は特にアキレス腱へ負荷が掛かるため、ちゃんと準備運動をしないとかなり怖い。
相手は部員が五名しかいないため、補欠はおらず、代理の選手はなしで不戦敗となるらしい。僕たちも次鋒の選手がいないため、不戦敗同士で引き分けの扱いになる。
「あれ? じゃあ僕が負けてもケン君が代表戦で勝てばいいのか!」
「俺を頼るなよ。相手の大将は個人戦で都大会出場を決めた猛者だぜ? 一度目は勝てたとしても、二度目はきつい」
「個人戦を見た限り、大将の人が強いだけで、他はそこまでって感じでしたので、勝てないことはないと思いますよ。それにシュウ先輩の相手は確か一年生ですよ。動きも緊張のせいかぎこちなかったです」
「それでも勝てる気がしないなぁ」
背中に白いタスキを付けてもらっている間に前の試合が終わる。竹刀を持った僕は待機していた場所から立ち上がり、コートのラインに立つ。
試合をしていた前のチームの隣に立って『ありがとうございました!』のあいさつに合わせて『お願いします!』とあいさつする。時短になるかららしい。
「よっしゃ、いってこい!」
「はい!」
二年生ながら体格がしっかりしているタケル君は、ケン君に背中を押されて試合へ臨んだ。
お互いに礼をして開始線へ。蹲踞をして審判の合図で試合が始まった。
「イヤアアアアアアア!!!」
お相手と重なって聞こえる気合いに身震いする。上級者は声の出し方も違う。
ケン君がタケル君を応援しながら面を着け始める。次の試合である僕は席に戻らず待機場所で立ったままタケル君を応援した。
「ファイトー!」
基本的に応援とはこんなもんだ。いいことがあれば拍手をする。相手を不快にさせるような応援はダメ。
……結果的に、試合はタケル君がストレートで二本勝ちした。得意の小手打ちと鍔迫り合いから別れ際の面打ち。鮮やかな勝利だった。
タケル君は相手と礼をして戻ってくるとき、僕の胴を叩く。「勝てますよ!」と面金越しに白い歯を見せて笑った。
いよいよ僕の試合。ホワイトボードには先鋒のところに㋙・メと書かれていて、次鋒は大きく×が書かれていた。その試合最初の一本には〇が付けられるのだ。
中堅戦。足が重い。突然降って沸いた“負けてもいい”試合に、“どうせ勝てない”という気持ちが足枷となっていた。
僕の相手は一年生で平均よりもさらに背が低いように見える。無駄に背が高い僕の胸よりも少し低いのではないだろうか。そんな相手に僕は臆している。
礼をする。右足から三歩進んで蹲踞。それだけの動きで相手が中学入学前から剣道を学んでいる経験者であることは分かった。
「はじめ!」
審判の声に合わせて立ち上がる。左足を軸にすり足で前に出た。
ケン君に教わった。臆病な僕でも、立ち上がったらまず前に出てみろと。
「イヤアアアアア!」
鋭い気合いをぶつけられた僕も返すように声を出す。
「やー!」
我ながら呑気な掛け声だ。でも恥ずかしさはない。
中段に構えて相手の様子を伺うが、相手は小柄であることを生かしてステップを踏むように間合いを取っている。
何度か声を出して僕が竹刀を振り上げたところ――。
「テエエエッ!」
「小手あり!」
出鼻を挫くように僕の右手は打たれた。愚鈍な動きをしていたから狙われたのだろう。小さく打つ刺し面と違って頭の上まで振り上げる僕の面打ちは、出掛かりの小手を狙うには格好の的だ。
審判が綺麗に上げた三本の旗を見て駆け足で開始線へ戻る。
足枷がさらに重くなった。全身がどうせ勝てないと訴えかけてきて、諦めたくなる。
開始線に戻った僕は、竹刀を構え、審判の合図を待つ。
「二本目!」
それでも声を出し、簡単には打たれないよう間合いを取る。
どうして勝てもしない剣道を三年間も続けていたのか自分自身でも分からない。どうせ勝てないと思うなら辞めればいいのに、気が付けば中学最後の大会で試合をしている。これまでたった一本すらも取れたことがないのに、僕は何をしているんだろうと何度も思案した。
勉強が得意なわけじゃない、運動能力も平均前後をうろちょろしている。特技もないし没頭できる趣味もない。やりたいこと、やることがないから剣道を続けた? それはただの愚図でバカだろう。
どうせ勝てない。それはいつからそう思っていたのだろう? 中学で剣道を始めてから? いや違う。もっと昔から、言い訳をして自分に蓋をしていた。
「シュウ!」
ケン君に名前を呼ばれた。それだけなのに、どうしてか足が前に出る。
……そうだ、三年間も続けてきたことなんて剣道以外に何もないじゃないか! 三年間の集大成、一回戦勝利をかけたギリギリの試合をしている。
だったら、最後くらい“どうせ勝てない”ではなく、ただ“勝ちたい”と思わなくてどうする!
「イヤアアー! メーン!」
僕は試合で初めて刺し面を打った。相手はまた小手を狙っていたが、先ほどと違う面打ちにタイミングがずれたおかげでその小手は外れた。そして、初めて打った刺し面も残念ながら一本にはならない。しかし、僕の狙いはこの後だ。
「――ウッ」
胸元から息が漏れる声が聞こえた。
お互いに技が外れた後、僕は鍔迫り合いの体勢から一気に前に出て体当たりをした。
僕の無駄にでかい図体を活かした体当たり。相手を吹き飛ばしてしまうことが怖くてなかなかできなかったけど、今はただ勝ちたい気持ちが身体を前へ押し出してくれる。
相手はよろめいて後ろへバランスを崩す。今にも転びそうな不安定な相手へ、僕は身体を後ろへ引きながら面を打った。
「メーン!」
「面あり!」
背後から歓声が上がった。ケン君とタケル君の「うおぉおおおお!」というバカでかい声に、普段は大人しい顧問の先生からも応援が聞こえた。
一本取った。初めて取った。しかしここでガッツポーズなどしようものならあっさりとこの一本は取り消しになってしまう。だから息を整えながら静かに開始線へ戻る。
相手はあのまま後ろへ転んでしまったが、すぐに立ち上がって開始線まで戻ってきた。
これで一対一、気持ちは今までにないほど前のめりだった。
「勝負!」
審判の合図に合わせて僕は前へ出た。また鍔迫り合いに持ち込み、体当たりで体勢を崩してやろうという算段だ。
離れた間合いから奇襲気味の面打ちに対して相手は竹刀を頭上で横にしてガードを選択した。それでいい、僕はこのまま体当たりの体勢で突っ込んだ。
しかし、ぶつかる直前、相手は身体を捻り、あっという間に僕の横へと移動した。勢いを殺しきれない僕はつんのめり、面はがら空き。慌てて竹刀で面をカバーした。
しかし、竹刀を頭上に上げたということは逆にがら空きになる部位が出てくる。意趣返しとばかりに相手の竹刀が僕の胴に綺麗な音を響かせた。
……勝ちたかった。
試合をする前は勝てないと思い込んでいたのに、いつの間に勝ち筋を探して夢中になっていた。
あんなに重かった足は羽のように軽い。どうせ勝てないなんていらない足枷がなければ、あんなに動けたんだと、今更ながら後悔する。
「よくやった、後は任せろ」
「ケン君」
面を付けたケン君はいつも勇ましい。高校に進学しても剣道を続けるというのだから気合いの入り方が違う。
席に戻った僕は、面を外しながらケン君を応援した。ケン君が勝てば勝ち数二対二で引き分けになるから、そこで代表戦に持ち込めばまだチャンスはある。
ケン君の試合は初めから勢いがあった。相手をケン君のペースに乗せ、試合開始から打ち合いに誘い、気が付けばケン君が面で一本先制していた。
二本目も変わらず打ち合いになった。相手チームからは落ち着けという声が聞こえているが、おそらく二人には何も聞こえていないのだろう。ありがたいことに打ち合いはケン君が得意とするところだ。
「ドーオオオッ!」
相手がケン君の勢いに乗せられ、苦し紛れに打った面を躱すように胴打ちがきれいに決まった。文句なしで一本だ。
「よしッ!」
ガッツポーズできないケン君の代わりに僕は膝の上でこぶしを固く握った。
試合が終わってケン君が帰って来る。これで代表戦、改めてケン君が試合に出ると思っていたら、タケル君が立ち上がった。
「シュウ先輩、あいさつですよ?」
「え? 代表戦になったんじゃ……」
「何言ってんだよ、俺たち勝ったじゃねえか」
頭を小突かれ、流れるまま試合終わりのあいさつをした。
ケン君が面を外し、二回戦までの時間を確認したところで再度問う。
「僕たち、勝ったのか?」
「ああ、シュウのおかげでな」
「え? でも僕負けたよ」
「勝ち数が同じ場合は、取った本数で勝敗を決めるんだ。それでも同じ場合は代表戦になるけど」
取った本数……。タケル君とケン君が二本勝ちして、僕は一本取ったけど負けた。お相手は二本勝ちと不戦勝での二本勝ちだけだから、……勝利数は同じだけど、こっちが一本多い。
「勝ったのか……?」
「そうだぞ、シュウが執念で一本取ってくれたから俺たちは勝ったんだ。団体戦初の一回戦突破だ!」
ケン君の言葉に思わず涙がこぼれた。僕自身は試合に負けたのに、この涙はきっと僕自身に勝った喜びの涙だ。それと同時に、これだけ勝ちたい気持ちを全面に出して全力を出しても勝てなかった悔しさの涙でもある。
どうせ勝てないと思って練習してきた結果が、今の僕だ。もっと勝ちたいと思って練習していたら勝てたかもしれない。そう思わざるを得ない試合結果に涙が止まらなかった。
いろいろな感情が混ざって複雑な表情をしていると思う。急に泣き出して心配してくれた二人も、突然笑い出したのだから。
「あーあ、泣いてやんの。二回戦だってあるんだぞ。泣く体力は体当たりのために残しておけって」
タケル君がタオルを持ってきてくれるまで、僕は複雑な顔のまま泣き続けた。
二回戦は、結果から言ってしまえば負けてしまった。先鋒のタケル君が引き分け、この時点で僕の勝利が最低条件になったが二本負け。ケン君が意地で一本勝ちをしたが、団体戦としては敗北。僕の最後の大会は幕を閉じた。
これほど何かにのめり込み、勝ちたいと思った事はない。それは中学を卒業し、剣道を辞めた後でも特にそう実感する。
タケル君は新部長としてわずかに入部してくれた新入生を鍛え、ケン君は遠くにある剣道の名門校へ進んでいった。
学校の備品を借りて剣道をしていた僕の手元に残っているのは竹刀と少し色褪せた道着だけ。サイズの合わなくなった道着は風呂敷に畳んで仕舞ったけど、竹刀だけは毎日素振りをするために出してある。
もう剣道はやらないのになんで毎日百本も素振りしているのかと疑問に思う時もあるが、きっともう自分に負けたくないからだと思う。
あの試合で僕は己の弱さを知り、それを克服するために剣道を続けていたことを知った。だからいつかまた、僕の努力が弱さを克服したとき、誰かに拍手喝采されるような大きな人になりたい。
そのために、今日も僕は剣を振るう。
たまには現実のお話も。